空を飛ぶ、それが私のライフワークです。
 そう格好良く心の中でキメて、やっぱり私は箒に跨っている。
 昨日と打って変わって、今日の空は分厚い雲に覆われていた。昼までは晴れてたのになぁ……
 けど、これくらいでへこたれるような私じゃない。雨が降り出す前に帰ってくればいいやと、極めて楽観的な考えの下、出発した。そのときあの窓からユウキが顔を出さなかったということは、まだ学校から帰っていないのだろう。元気そうで何より。
 昨日と同じように、川に沿って海へと向かう。風が冷たい。こりゃちょっとやばいかな……冗談抜きで、今すぐにでも降り出しそうだ。
 と、ちょうど商業区と住宅地区の境目辺りに差し掛かった頃だった。
 カッ、という一瞬の光。
「うひゃっ!?」
 思わず声が漏れる。落ち着け、ただの雷だ。怖がることは……
 って、怖がらなきゃダメだろ、私。
 箒はもちろん空を飛ぶ。ということは、地上よりずっと高いところにいて、なおかつ金属製のごっついエンジンと、ライダーという避雷針を備えているわけで。
 雷は、箒乗りにとっての天敵だ。ひどくなる前に帰るか、地上に降りなくては。
 そして今頃になって、がしゃーん、という何かが破壊されるような轟音が私の耳に届く。何秒かかっただろう。それほど近いというわけでもなさそう。
 そして続いて、ごろごろごろ……というよくある雷の音。
 え?
 稲光は一回だけだったはず。なのに音が二回するはおかしい。しかもよく考えれば、一回目のはやけに近かったじゃないか。そう、まるで足元で鳴ったみたいに……!
 下を見やる。ぐるっと円を描くように飛びながら――
 そこで私は、見つけた。
「ぁ……!」
 一車線の道をふさぐようにして、大きな何かが横倒しになっている。まさか、まさかとは思うけれど。頭に浮かんで離れない可能性を一生懸命否定しながら、私はその現場へ降り立った。
 それはもう、ひどい有様だった。
 一台の乗用車が沿道の電信柱に真正面から突っ込み、横倒しになったバスの窓からは、乗客が這い出そうとしている。その乗客は、見間違うはずがない、ユウキの通う学校の制服を着用していた。
 ということは、やっぱり、このバスの中に……?
 雨粒が頭を叩く。その粒は段々と勢いを増し、鳴り響く雷と共に惨状を濡らした。
 いや、このバスはユウキを降ろして、学校側へ戻るところだったのでは――?
 そんな楽観的な考えも、冷たい雨が否定する。バスの倒れ方と、ブレーキ痕から察するに、バスは住宅地側へ向かって走っていた。私たちの家は、住宅地の中でもさらに都市部から離れた最奥部にある。住宅地へ向かうバスが、ユウキを乗せていないとは考えにくい。
 なら、他の便に乗っている可能性は……
 ええい、何を考える藤木ソラ! 考える前に確認すればいいだけじゃないか!
 騒然とする野次馬を尻目に、私はバスへと向かって一直線に駆け出した。
 途中滑って転びそうになったけれども、どうにかバスへと辿り着き、上空へと口を開けた窓から中を覗き込む。
 どうやら、割合乗客の少ない便であったらしい。ぱっと見回しても空席が目立つだけで、数少ない生徒たちもうめき声を上げている辺り、そこまで重傷者はいないようだ。
 でも、ユウキの姿が見えない。いないの? それなら、このバスに乗り合わせていないなら、それに越したことは――
「だ、誰か! 誰か来てくれぇっ!」
 と、そのとき。男の声が私を呼んだ。
 震える足に活を入れ、ガラスが散乱する車内に身を滑り込ませる。分厚いブーツがガラス片を踏んで、じゃりじゃりという音を立てた。
 そして、声のした後部の座席までやってきて――私は息を呑んだ。
「久賀が……久賀の様子がおかしいんだ! いきなり苦しみだして……どこにも傷はないのに!」
 ガラス片で切ったのだろう、腕から血を流す男の子に抱えられて、ユウキは胸を押さえていた。その白い首筋は、ぱっと見ただけで異常と分かるほど汗で濡れている。
 そして私は、この症状を知っていた。
……発作だ。
「ユウキの鞄は!? あの中に薬が入ってる! あれ飲めばとりあえずは……!」
「か、鞄? くそ、どこだ!」
 どうしてこうも悪いことが重なるの? どうして? ねぇどうして!?
 毒づいたところでユウキの容態がよくなるわけじゃない。それは分かってる。けど、思わずにはいられない。
 こんな鉄の箱に、これ以上殺されてたまるもんか……!
「あった、これだ!」
「貸して!」
 鞄をひったくり、中身を漁る。まだ、あの頃と同じ薬を使っているのだとしたら……
 これだ。青い、小さな巾着袋。昔と変わっていない。薬を持ち歩くときは、いつもこれに入れていた。
 けれどその袋は、なぜかぐっしょりと濡れている。
 そして、あの発作のときに飲む薬は……液状。
 最悪が最悪を呼んだ。転がった拍子か、はたまた誰かに踏まれたか。
 巾着袋の中から出てきた半透明の入れ物は、無残に潰されていた。
「おい、何やってるんだよ!」
「薬がないの! 全部こぼれちゃったの! あとはもう、病院に連れてくしか……!」
 そこではっとする。これだけ派手な事故なのだ。外にいた野次馬が、救急車を呼んでいるかもしれない。
 窓から顔を出し、叫ぶ。
「救急車! 救急車を呼んでください! 急いで!」
「もうずっと前に呼んだ! けれど来ないんだ! 渋滞で進めないらしい!」
「嘘……!」
 まさか、そんな。
 ここまで最悪が重なるなんて。もう、私なんかじゃどうしようもないような、そんな大きな力が働いているとしか思えない。
 私は、その場にへたり込んでしまった。
 ユウキは未だに苦しんでいる。あと、どれくらい持つのだろう。救急車が来るまで持つ? ううん、たぶん無理。顔を見れば分かる。
 割れた窓から入り込んだ雨が、私の顔を殴る。空が輝き、轟音が車内に響いた。
「ちくしょう、どうしようもないのかよ!」
 私に出来ることなんて、もう残ってない。私みたいな十四歳の小娘に出来ることなんて、ほんとにちょびっとしかない。ほんとに、ほんとに少ししか――
「……あった」
「え?」
「ユウキを外に運び出して。私がユウキを病院まで運ぶから」
「馬鹿言うなよ! どうやって……!」
「いいから急いで! 絶対どうにかするから!」
 渋々ながら従ってくれた男の子に感謝しつつ、私は一足先に外へ出る。
 そして、雨に濡れたアスファルトの上に寝そべる、それを拾い上げた。
「信じれば、全てが上手くいく……」
 降りしきる雨、轟く雷鳴。
 コンディションは最悪だ。一人でも飛べるかどうか怪しい。
 でも、できるできないじゃない。やらなきゃならないんだ。
「ったく、少しは手伝えよ……ってお前、それで行く気かよ? 免許持ってんのか!?」
「ない。けど、やるしかないじゃない」
 ユウキの息は荒い。正直な話、あまりこうやって雨ざらしにしておくわけにもいかない。それだけでユウキの体力は失われていく。こうしている、今も。
「手伝って。ユウキをベルトで留める。これなら、多少揺れても落ちないから」
「こいつにベルトしたら、あんたはどうするんだよ。二人乗りできないだろ、これ……」
 うだうだ言いつつも、男の子の手際はよかった。あっという間にユウキの体は箒に固定される。バランスこそ取れないものの、これで飛行中に落ちることはないだろう。
 そして私は、ベルトなしで箒に跨る。しかしこのままでは、アクセルが上手く握れない。
 キーを回し、エンジンに火を入れる。空気を吐き出すような音と共に、足にかかる重みが消えていく。そして箒をホバリングさせる。
 宙に浮いた箒の上で、私はゆっくりと腰を上げた。
 足が震える。ほんの数十センチ浮いてるだけだというのに。それだけで、こんなに怖いものだったの?
 怖がるな、楽しめ。そして信じろ、藤木ソラ――!
 稲光。
 その瞬きと同時に、わたしはアクセルを思いっきり踏み込んだ。


 何も考えられない。
 雨のせいで前方確認すらも難しく、走る稲光と雷鳴が恐怖心を煽る。
 けれど、それでも今の私には、やらなきゃならないことがある。
 今すぐ止まりたい。地上に降りたい。ゆっくりと歩きたい……!
 そんな欲求は全て却下。もう、前しか見えない。ううん、見ない。
 冷たい雨は熱くなる頭を冷やしてくれるし、風は私を少しでも速く運ぼうとしてくれている。
 もう、恐怖心なんて消えていた。こんなこと、出来て当然。バランスの取り方も、アクセルワークも、フィールド出力も、全てが考える前に動いた。
 ……もしかして私、楽しんでる?
 こんなときに、なんて不謹慎なんだろう。でも、そうじゃないならこの高揚感は何?
 私は今、空と一つになっている。
 理屈じゃない、感覚の世界。
 それはまるで、魔法をかけられたかのようで――
 いや、きっとその通りだ。
 私は今、空を駆ける魔法を使っている。

◆◆◆


「じゃあ、今回は厳重注意で済んだけど、次からは本当に逮捕するからね?」
「はーい。大っ変ご迷惑をおかけしましたー」
 その若い警官の目に、全く反省していない私の姿はどう映っただろう。
 いくら人助けのためとはいえ、街中を低空飛行したのは流石に拙かった。
 おかげでこの歳で、また警察のお世話になることとなってしまいました。
 罪状はもちろん無免許運転。おまけに今回は、危険運転まで加わってしまった。
 だけどまぁ、状況が状況だったのと、私があの藤木の娘であるということもあってか、警官の言うとおり厳重注意で済んだというわけだ。
「でも、注意されたくらいで私が諦めると思う?」
「思わない。ソラから箒取ったら何も残らないからねー」
「ぐっ……事実なだけに何も言い返せないじゃない……」
 法律破ってまで助けたユウキは、私の目の前で、ベッドに体を横たえながらもにこにことしている。相変わらず。
 びしょぬれになって病院に運び込んで、ユウキを看護婦さんに渡して、それで翌日にはもう元気になっていたのだからこいつもなかなか侮れない。でも、大事を取って数日入院ということにはなったけど。
「でも、本当にありがとう。ソラがいてくれなかったら、本当に死んじゃってたかもしれないって。ソラは命の恩人だよ」
「そうそう、たっぷりと感謝しなさいよ。この貸しは、いつか十倍にして返してもらうんだから」
「それはちょっとつらいなぁ。ねぇ、どうすれば十倍返ししたことになるの?」
「あー、そうねぇ……」
 椅子から腰を上げ、ブラインドのかかった大きな窓へと歩み寄る。
 ブラインドをちょっと指で押し上げる。一瞬、眩しさに目を瞑ってしまった。
 ガラス越しに、青い海と、青い空と、白い雲が見えた。
 そしてその上を、箒に乗った人々が舞っている。
 そう、私たちは、こんな素晴らしい世界に生きているんだ。
「あんたもいつか、空を飛ぶこと。あれ以上楽しい事なんてないんだから!」











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