魔女の特急便




 空を自由に飛びたいなら、箒にまたがればいい。
 ただし、ヤヌハ製エーテル駆動式四気筒エンジン付の、ごっつい箒だけれども。
 それでもやっぱり、空を飛ぶのは気持ちいい。
 吹き抜ける風、ちょっとだけ感じる息苦しさ、そして何よりも、自分が世界の中心にいるような錯覚さえ覚えられる、最高の景色。
 私は今でも覚えている。父の背中にしがみついて、怖くて怖くて仕方がなかったけれど、勇気を振り絞って見たあの水平線は、白く輝く大海原は、私の一番の宝物だ。
「……ねぇソラ、ソラってば」
 ああ、目を閉じればはっきりと浮かんでくる、あの素晴らしい景色……
「ソラー。おーい……」
 景色に魅入られた私には、上空数百メートルの強風が耳を殴る音すら聞こえず、自分の心音と誰かが近付いてくる足音しか聞こえなくて……
 って、何故に足音?
「藤木……相変わらずいい度胸してるなぁ?」
「あはは……そりゃ、空を飛ぶのに一番必要なのは、何より勇気と気力ですから」
「今は授業中だ! 免許も取れないガキは、大人しく頭を使ってろ!」
 先生の怒鳴り声は、私の右鼓膜を刺激しただけでは飽き足らず、勢いそのままに左の鼓膜まで刺激して抜けていった。鼓膜破れたらどうするんだよ、ばか教師。

◆◆◆


 私こと藤木ソラは、十四歳だ。
 原付箒のプロライダーだった父は、五年前に事故で他界した。母は健在。父の遺産と母のパートの給料で、どうにか質素に食いつないでいる母子家庭の薄幸の娘が、私というわけだ。
 別に、大金持ちになって、豪邸でメイドを従えながら猫を膝の上に乗っけてソファーでのけぞり高笑いしたいとか、そんな野望は持ってない。
 ただ私は、空を自由に飛べれば、それでいいと思っている。
 けれど、ここで大きな、それはそれは大きな壁が、私のささやかな望みを阻んでいるのだ。
 原動機つき箒の免許交付は、満十六歳から。
 これが法律。これがジャスティス。
 あと二年。たったの二年。それだけ我慢すれば、私は晴れて自由の身――
 なんて思えるほど、私は大人じゃなかったわけで。
 たった二年なんだから、今から乗ったって構わないだろー! と、父親の遺した箒にまたがり、警察と知り合いの目をかいくぐりながら時速六十キロの空中散歩(?)を楽しむのが、私の日常だ。
 そういうわけで、今日も私は空を行く。
 特に、学校でこってりと絞られた日なんかは、飛びでもしないとやってられない。ストレス大爆発で精神にも美容にも悪影響だ。
 川に面した庭先で、箒に跨る。
 ミラー、オッケー。アクセル、初期位置。ブレーキ、そんなものはない。固定ベルト、ちょっときつめ。忘れ物、なし。
 最後に、おでこで留めておいたゴーグルを目までおろして、エンジンキーを回す。ふぉん、という音と共に、エンジンに火が入る。いや、実際に火がついてるわけじゃないけど。
 いつも思うんだけど、自動車とかのガソリンエンジンの音は下品だよね。もう少し静かにしろ、って毎回毎回怒鳴りたくなる。それに比べて箒のエンジンときたら。起動時に思い切り空気を吐き出すような音がした後は、冷却ファンが回る音くらいしか発しない。それこそ本当に魔法でも使ってるんじゃないかと思えるくらい。
 それなら、魔法の箒に跨って飛ぶ私は、さながら魔法少女といったところか。
 ……なんか性に合わないな、そういうのは。
 自分の勝手な妄想で萎えた気持ちに鞭をうち、柄に備え付けられたアクセルを握り締める。
ファンの回転音が増し、私を中心に風が起こる。足にかかる重さが段々と小さくなって――
「ソラー、今日も飛ぶのかーい?」
 ずっこけた。嫁入り前の大事な顔を地面に強打。どうしてくれる。
「なんてタイミングで話しかけてくんの! 空気読みなさいよ、空気を!」
「あはは、ごめんねー」
 いつもの窓から顔を出して、全く罪悪感を覚えていない顔で笑っているのは我が家の隣家の一人息子。その名を久賀ユウキという。その間延びした声でいつも私のペースを崩してくる、いかんともしがたい天敵だ。
「そういやあんた、起きてて大丈夫なわけ? いきなりぶっ倒れられたりしても、私は責任負いかねますけどー?」
「今日は割と調子良いんだー。それでも、ソラみたいに元気いっぱいに空を飛び回る、ってわけにはいかないけどねー」
「元気で悪かったわねー。調子よくても、大人しくしてなさいよー。今日も学校休んだんでしょ? 出席日数足りなくて、留年しちゃっても知らないからー!」
「はは、明日からはまた頑張るよー」
 精一杯の皮肉を込めた私の言葉も、ユウキはいつも通りの、見る人が見れば爽やかとも取れるらしい笑顔で流してくれた。とはいっても、あながち笑っていられるような状況じゃないような気もするのだけど。
 ユウキと私はお隣さんだけれども、通う学校は違う。
 政府の高官だかなんだかやっているおじさんのおかげで、久賀家は相当裕福な暮らしをしている。実際家に入ったことのある私が言うのだから間違いない。というか、あそこは別世界だった。ほんとに。
 そして一人息子であるユウキも、そういう家庭の教育方針からか、貧乏人お断りな有名私立学校へと通っている。整った環境、選ばれた友人たち。そんな中で、父親のような偉い大人に育って欲しかったのだろうか。
 けれど昔から、ユウキは体が弱かった。食後の薬なんて当然で、遊んでいていきなり発作が起こるなんてこともザラだった。
 そんなときのための薬も常備していたし、ちょっとでも調子の悪い日は、学校も休ませているようだ。大抵家に帰って私が飛ぶと、部屋の窓から手を振ってきたのが何よりの証拠だ。
 ということはつまり、どうしても学校を休みがちになり、色々と弊害が出てきている。
 庶民の学校に通う私には想像もできない問題ばかりだけれど、でもやっぱり、学校に行けないってことは、辛いものがあると思う。
 それに、あの体じゃ、空を飛ぶことも出来やしないだろうし。
 ――集中。私は再び、大地を蹴った。
 今度は誰にも邪魔されることなく、箒に固定された私の体は、重力の束縛から解放された。
 浮き上がってしまえばこっちのもんよ。すーっと窓の前まで移動して、相変わらずニコニコとしているユウキの顔をじっと睨む。くそぅ、こいつ、私より肌きれいだな。
「どうしたの? 行かないのかい?」
「……ユウキさ。いつか、一緒に飛ぼう。ね?」
 空を飛べないなんて、人生の半分以上損してる。
 正直な話、免許を取るための適正試験にだって、私は反対だ。
 向いてないからって飛べない人間なんていない。箒と努力と楽しむ心さえあれば、人は誰だって空を舞うことが出来る。私はそう教えられたし、もちろんそれが正しいと信じている。
 だから、体が弱いなんて理由で、飛ぶことを諦めてほしくない。
 私はこの世の誰よりも、飛ぶことが好きだから。
「うーん、出来る限りの努力はするよ。ソラを見てたら、僕だって飛びたくなるしね」
「ダメ。絶対、いつか飛ぶの。分かった? あーゆーあんだすたん?」
「あはは、その文法は違うよー。正確には、Did you understand? だって。あはは」
 ひ、人の揚げ足取るようなことを……! しかも、滅茶苦茶きれいな発音じゃない!
 私のイラつきが顔に出ているかもしれないというのに、ユウキはやっぱりへらへらと笑っている。ああ、こんな野郎にちょっとでも同情しちゃった私が馬鹿でした!
「もういい! 私行くよ!」
「うん、いってらっしゃい。気をつけてねー」
 言われなくても。私はゴーグルをかけなおし、アクセルを目いっぱい握り締めた。


 言うまでもないが、空中に交通渋滞など存在しない。
 そりゃ世の中に原動機付き箒なんてものが存在するのだから、多少は私と同じように飛んでいる人もいるわけだけれども、それだって辺りを見回したところで、片手で足りる程度だ。
 どうして飛ばないのだろう――空に魅せられてしまった私は、そう思わずにいられない。
 原動機付き箒は、分類上は軽航空機になるらしい。これをどう分類するかで昔のお偉いさん方が色々ともめたらしいけれど、私にとってはどうでもいいことだ。でも、そのおかげでクソ難しい試験と面倒極まりない適正試験を受けなきゃならなくなったのは、許しがたい愚行だけど。
 川沿いに飛んでいくと、海に近付くにつれて街が活気付いていくのが分かる。
 水平線と輝く水面が視界に入る頃には、陸地はもう大都会。上空数十メートルを飛ぶ私ですらぶつかりそうになるビルとか、車のクラクションとか、街頭スクリーンの声とか……私が住んでいる地区と同じ世界とは思えない。こんなところでこそ、箒は必需品だと思うんだけどなぁ。ここらへん、交通渋滞とかひどいらしいし。
 そういえば、ユウキの学校もここらへんだったっけ。毎日バスで送り迎えがあるとはいえ、ちょっとここまで来るのは面倒だよなぁ。片道一時間くらいかな? うわ、途中で発狂しそうだ、私。
 そんなことを考えつつも、眼下に都会のせわしない町並みを望みながら、私は飛び続ける。
 幾ばくもしないうちに、圧迫するように私を挟んでいた高層ビルが途切れた。
 そして目の前に広がるは――圧倒的な、青と白のコントラスト。
 その輝きに、私は瞼を開き続けることすらできない。空の中にいるというのに、吹き付ける風はやっぱり塩辛い。でも、そんな海の香りが、私は好きだった。
 私は今、自然の中にいるのだと。この星で、生きているのだと。
 お父さんの背中にしがみついてみたあの頃と、ここだけは何一つ変わっていない。
 アクセルを緩め、高度を下げる。波打つ水面が、大きな青色が、視界いっぱいに広がる。
 放り出した足が水に付くかつかないかというところで、一旦ホバリング。ゴーグルを外し、暑っ苦しいブーツも脱いで靴ヒモで柄に括りつける。足の裏に当たる水しぶきが、冷たくて気持ちよかった。
 下を見ても、上を見ても、蒼。
 白い雲は流れ、青い海は波打つ。
 海鳥の鳴き声も、船の駆動音も聞こえない。
 穏やかな海には波の音すら不必要で、今私を包むのは、優しい潮風だけだ。
 もう、他のことなんてどうでもよくなった。
 この素晴らしい世界に私は浮かんでいる。
 それだけで、十分だった。

◆◆◆


 空を飛ぶことを生業としていた父は、地上で車にはねられて死んだ。
 なんて皮肉だ、と最近になって私は思うようになった。
 翼を休めていた鳥は、自分の身を守ることすら出来なかった。
 そして父は、この業界で伝説として語り継がれている。
 ルールを無視した、立ち乗りライダー。
 本来跨るものであるはずの箒を、まるでサーブボードのように乗りこなすその姿は、未だ無謀に真似する輩が後を絶たないほど衝撃的で、芸術的だった。
 あの頃はただ無邪気にすごいすごいと言っていただけの私も、自分で箒になるようになってから、父の偉大さを再認識するようになった。
 防風フィールドで軽減されているとはいっても、飛行中のライダーを襲う風はそんな生易しいものじゃない。その上であの細い箒の柄の上に二本の足で立ち、さらに数々のトリックを決めるのだ。もはや人間の業とは思えない。
 私の箒のアクセルが手元にあるのもそのためだ。元々あれは手で握るためのものじゃない。立ち乗りするときに足で踏めるよう、父が特注したものだ。その証拠に、市販されている箒はアクセルが、もちろん跨ったときの足元に来るように設計されている。
 もちろんそちらの方が断然扱いやすいのだけれど、私はあえて父のお下がりを使っている。
 お父さんと同じ箒で、いつかお父さんに追いつきたい。いや、新しく箒を買うお金がないとか、こっちのがずっと性能いいとか、そういう打算的な理由も多々あるけれども……
 けれど、父を父として好きであると同じくらい、私はライダーとしての父を尊敬している。だからこそ、私はこの箒で、必ず空を自由に駆け回ってやる。
『飛ぶことを楽しめ。んで、空を信じろ。そうすりゃ、全部上手くいくさ』
 いつだか、父が言っていた。
 私は飛ぶことを楽しんでいる。というか、これ以上楽しいことを知らない。
 でも、空を信じるって……?

◆◆◆


「……で、ソラは今日も先生に怒られるのでした。ちゃんちゃん♪」
「私だって怒られたくて怒られてるわけじゃないよぅ……」
 今日もまた見事に意識喪失状態に陥った私は、それは偶然か必然か、昨日と同じ授業でやらかしてしまったらしく、復活と同時に鼓膜の心配をする羽目になった。しかし、そうまで笑いの種にするなら、起こしてくれたっていいじゃないか、我が友よ。
「ソラって、一度寝たらなかなか起きないタイプだよね。眠りが深いっていうか。何度呼んでも、びくともしないんだもん」
 ……さいですか。
「そうだ、そういえばさ。ソラのお隣さん、誰って言ったっけ。あの可愛い系の男の子……」
「ユウキのこと?」
「そうそう、ユウキくん。元気にしてる? 今日は学校行けたの?」
「あー、相変わらず病弱してるよ。今日は学校行ったみたいだけどね、珍しく」
「そっかぁ……元気なのかぁ……」
 そう言う友人の目は、なんと言おうか、いろんな意味でヤバ気だった。
 どうやらこの友人、昔私の家に遊びに来たときに一度だけ見かけてユウキに一目惚れしたらしい。いや、本人に言わせれば、『町内いい男リストver.6.01』に追加したということらしいのだけど。正直私にこいつの趣味は理解できない。
「色白、病弱、そしてお金持ち。この三連コンボが決められる逸材は、私が知る限りじゃ彼だけだからね。元気にはなってほしいけど、そうすると属性が一つ欠けちゃうんだよなぁ……うーむ、実に難しいよ」
「私にゃあんたの趣味のほうが難しいよ……」
 まぁ、齢十四歳にして法律違反な趣味を持ってる女の子もいるわけだし。他人の趣味にどうこう言うのはやめておこう。
「あ、そうだ。聞いてよソラ。今朝私さ、車にぶつかりそうになっちゃってさー」
「ぶつかるって、止まってる車に?」
「ちーがーうー。普通に道歩いてたら、向こうからすごいぐにゃぐにゃって走ってくる車が来てさ、歩道ギリギリまで来るから、思わず尻餅ついちゃったよ」
「でも、お尻の肉が厚かったおかげで無傷で済みましたとさ。ちゃんちゃん♪」
「ちょっと、それ私の台詞ー! 無事でよかったねー、とか言ってくれてもいいじゃない」
「世の中そんなに甘くないものだよ、ワトソン君」
「ワトソン君って誰―!?」
 そうやっておちょくりながらも、本当に無傷でよかったと、心の底から思う。
 また誰かを事故で失うなんて、金輪際ごめんだ。
 尻ネタで騒ぐ友人で遊びながら、ゆっくりと、昼下がりは過ぎていく。
 本当に、ゆっくりと……





  
次へ進む

小説トップへ

TOPへ