Re-mind




 俺たちがこの学び舎でやってきたことは、今日渡されたたった一枚の紙で証明された。人はそれを、卒業証書と言う。
 そんな大事な紙を丸めて入れた、高級そうに見えて実はやっぱり安物なのであろう筒を手に、俺は夕焼けに染まる空を眺めていた。なんとなく、ノスタルジックな気分。違うか?
 なんにしても、この教室には格別の思い出と言って良いのかどうかは分からないが、まぁそんな感じのものがかなりある。俺の記憶容量に、必要な部分を削ってまで保存してあるのだから間違いないだろう。
 四角く並べられた長机。扉から入ってきた人間の顔をまず最初に確認できる、いわば上座の隣が俺の定位置だった。部屋の隅に設置された冷蔵庫はあの会長が予算を学校からぶん取って買ったもの。ただ教室を狭くしているだけの二十四インチ液晶モニター付のタワー型パソコンは俺たちが秋葉原までついていって、と言うか拉致か。まぁ、そこでパーツで買って、わざわざ組み立てた自作もの。さらに邪魔なことに、会長専用のソファーやら高級感を出す以外何の役にも立たない北宋の壷やらどこから手に入れてきたのか知らないが等身大カーネルおじさんやら。カオスな空間というのはまさにここのことを言うのだろう。
 その九割九分は、あの馬鹿女会長の我が儘で集めたものだが。
 唯一俺の陳情で設置された新しいオフィスチェアーのすわり心地も、これが最後と考えるといつもとどこか違って感じられた。
「よう、お前もやっぱここか」
 不意に扉の向こうから現れた詰襟の学生服の男は、なんの躊躇いもなく俺に向かって声を飛ばした。よそよそしいこいつってのも気持ち悪いが。
「俺としてはゴンの考えの裏を読んだつもりだったんだけどな」
「残念。オレはその裏の裏を読んでた」
「いや実は俺もその裏の裏の裏を読んでたんだけどな」
「本当は言いたくないんだが、オレはさらにその裏の裏の裏の裏を……」
「よし、まぁ座れ」
「おう」
 これはまぁ、挨拶みたいなもんだ。ちなみにゴンってのはこいつのあだ名。由来はなんだったかな……確か、名付け親のあいつが一度だけ話していたのだが。忘れちまった。
 ゴンは座席を一つ空け、俺の隣に座った。丁度俺たちの座っている長机は、真ん中の席だけが空いた形になる。仕方ない。主はもういないのだから。
「で、お前は何やってたん?」
「何って……卒業式の後だしな。ロリで可愛い後輩とかツンデレな同級生が告白しやすいような雰囲気作りを」
「やっぱりオレと同レベルだな。で、成果は?」
「聞くな。わざとだろ、お前」
「まぁな。オレも教室で保健教師の最後の保健体育特別授業の誘いとか勇気を持って乗り込んできた他校の女の子の登場とか待ってたんだが……」
「寂しいな」
「ああ、寂しい」
 無意味で、無駄な時間。
 これまでも過ごしてきたはずの時間は、一つだけピースの欠けてしまったジグソーパズルのように、小さいけれど、大きな違和感を伴っていた。
 永遠に埋まることのない、隣の指定席。一つだけやけに高級な座椅子は、あいつがわざわざ自宅から持ってきたものだ。なんでも、これに座っているときが一番自分らしくいられるとかなんとか。そんなことしなくとも、あいつはいつもあいつらしく生きていたと思うのだが。
 その向こうに座るゴンは、いつもに比べ無口なように思えた。隙あらば軽口が飛び出すその口も、重く閉ざされている。この男も、こいつなりに何か考えているのだろうか。
「……女子、泣いてたな」
 そのゴンが、口を開いた。
「そうだな。あいつの遺影持って、泣いてた」
「でもさ、あいつは一緒に卒業できなかったんだよな。結局」
「俺には、卒業するまで頑張るとか言ってやがったんだけどさ。ホント、肝心なところで根性見せなかった」
 死者を愚弄するわけじゃない。むしろあいつは、最期の最期まであいつだった。
 だからこそ、俺はこうやって落ち着いていられるのかもしれない。
 あいつがあいつを通す生き様は、見てて惚れ惚れするほどだった。
 限りある時間なのだから、私は常に本気で生きる――いつだか、そう言っていた。
「まぁそれより、俺はあいつに泣いてくれるような友達がいたって方に驚きだが」
「確かに。敵も多かったからなぁ……」
「そのせいで、どれだけ俺たちが走り回る羽目になったことか」
「オレなんか後ろからぐさりといきそうになったんだぜ?」
「んなこと言ったってお前、返り討ちにしてたろ」
「そう言うお前だって、行く先々で屁理屈振り回してたじゃねーか」
「そりゃ、それが俺の仕事だったしな」
「オレもそれが仕事だった」
 それは恐らく、学生が一課外活動として行うには相応しくないもの。
 けれどそれをいつの間にか当然のことのように思っていた俺たちが居て、俺とゴンは顔を見合わせ、笑った。
 いつも、三人で笑っていたときのように。


 すっかり世界がオレンジ色に染まってしまった中、俺たちは校門で立ち止まった。
 俺とゴンの家は、学校を挟んで正反対の位置にある。いつもは、ここでお別れだった。
 しかし、今日はちょっと事情が違う。
 このあとゴンは家業を継ぎ、俺は地元の大学に進学する。つまり、俺たちは道を違えることとなるのだ。そしてもう一人も、もういない。
「そういやお前」
 ぼーっと突っ立っていたところ、先に口を開いたのはゴンだった。
「第二ボタン。全くの無傷だな」
 そう言って、俺の胸元を指差した。確かにそこには、金メッキが眩しいボタンがしっかりと制服に縫い付けられている。そういや、この国にはそんな下らない風習があるんだったな。根っからの日本人である俺でも忘れそうになるようなものだが。
「当然。お前もな」
「馬鹿、これは死守したんだよ。別に誰からも欲しがられなかったわけじゃ……」
「はいはい、そういうことにしといてやる。で、第二ボタンがどうしたって? あいつの墓前にでも供えるか?」
 もっとも、そんなもの供えたところで逆に枕元に立たれそうな気がする。
「それは遠慮する。第一、あいつがこんなもの欲しがるようなタマか?」
 ゴンも同じことを考えていた。どうやら、というかやっぱり、俺とこいつにおける彼女の像はほぼ一致しているようだ。
 まぁ、それもそうか。どっちも、同じ方向に想いを向けていたのだから。
 俺はゴンの質問に、笑って首を振った。
 周囲に人の気配はもうない。学校に残っていた生徒も、既に皆自分の道を歩いていった。
 それはある意味、彼女が望んでいた姿であって、彼女自身が示していた道でもあった。
「……それじゃ、な」
「ああ、じゃあな」
 別れはあっさりと。
 俺とゴンは、背を向け合った。
 俺がここに戻ってくることは、もうないだろう。ここに来れば、嫌でもあいつの姿にすがってしまう。そんなこと、あいつが許すわけない。
 ただまぁ、最後に一回くらいはいいだろ?
 そんな甘えから、俺が振り向くと、丁度同時に振り向いたらしいゴンと、目があった。
 そして俺は、思わず吹き出した。見れば、ゴンも笑っている。
 ……結局どこかに残したまま、俺たちは歩くしかないんだな。
「ゴン、またな!」
 俺は手をメガホンのようにして、恥ずかしさなど微塵も覚えず、言った。言わずにはいられなかった。
 ゴンは数秒、きょとんとしたあと、右手を大きく振り、左手をメガホン代わりに叫んだ。
「ああ、また、いつかな!」
 俺はそれに応え、手を振った。大きく、振った。
 しばらく振って、そろそろ手が疲れたと感じ始めた頃、ゴンに背を向けた。
 そしてもうすぐ沈み、また明日昇るであろう夕日に思いを馳せながら、帰路を急いだ。


EXIT





  
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