僕は、口うるさい幼なじみが嫌で嫌でしょうがなかった。
 中学生になってからだと思う。こんな風に思うようになったのは。
 たまたま家が隣で、たまたま同い年で、たまたま男の子と女の子だった。姉弟のように育ってきたあいつが、何でか煩わしかった。
 僕に話しかけないで欲しい。僕に近寄らないで欲しい。いつまでもいつまでも、姉御面しないでよ。
 友達にからかわれるのが嫌だった。みんな、何でも色恋に結び付けようとしてさ。残念ながら、現実の幼なじみはそんなにいいもんじゃない。おせっかいで、うるさくて。
 今日だって、授業が終わって僕が帰ろうとしたら、昇降口で呼び止められた。
「あ、今帰り? だったら一緒に帰ろ」
 向こうとしては、悪気が全くないのは分かってる。長い付き合いだし。でも、僕はこういうのが嫌なんだ。こういうことしてると、すぐに「お前ら付き合ってんの?」とか根も葉もない噂をたてられる。
 僕は、鞄の中の手袋を探すフリをしながら目をそらした。
「いいよ、一人で帰る」
「でもさ、ちょっと話したいことがあるんだけど」
「帰ってからだっていいだろ。どうせ隣の家なんだから」
「なんでそんな言い方するの? 全く、憎ったらしいなぁ!」
「ほっといてよ」
 なるべく顔を見ないようにしながら、僕はその場をそそくさと立ち去った。
 思えば、僕はどうしてこんなにまで意味のない意地を張ったりしてたんだろう。あとで後悔することになるのは、心のどこかで分かっていたはずなのに。


 十二月の空気は冷たかった。今朝の天気予報では、放射冷却がどうこうとか言ってた。詳しい理屈は分からない。でも、とにかく冷え込んで手袋とコートが手放せなくなるのは確かだった。
 十分ほどの道のりを、白い息を眺めながら歩く。田舎町だから、寄り道できるようなところもない。あたり一面、畑と田んぼが広がっている。
 すれ違う小学生たちは、寒さなど知らないかのようだった。二、三年生くらいだろうか。元気に駆ける女の子の後を、ちょっと気弱そうな男の子がついていく。どこかで、見たことのあるような光景だった。
 と、相当いっぱいいっぱいだったんだろう。男の子のほうが、僕の脇を抜けようとした時、あっ、という小さな悲鳴を上げて転んでしまった。なんだか、放っておけない様な気がして、僕はその子に手を差し伸べた。
「大丈夫?」
 男の子は、ぼくの手をしっかり握って、首を縦に振った。
「よし、よく泣かなかったな。偉いぞ」
 どうしてだろう。この子には、親近感みたいなものを感じる。今にも泣き出しそうな顔をしている男の子の頭をなでながら、ふと思った。
「あー! あっくんまた転んだー!」
 前方を突進していた女の子が、大急ぎでこちらに走ってくる。口ではこう言いながら、表情は彼のことを心底心配していることを教えていた。
「大丈夫? 痛くない?」
「……うん」
「こんどからは気をつけるんだよ。それと、お兄ちゃん、ありがと」
「ん? ああ……」
 こんな小さな女の子にお礼を言われるとは思ってなかった。あまりに不意で、ちょっと情けない答えになってしまう。
「ほら、あっくん。行こ!」
「うん」
 女の子は、男の子の手をしっかりと握り締め、さっきよりもゆっくりとしたスピードで走っていった。あれなら、あの子も転ぶことはないだろう。ただでさえ小さいのに、さらに小さくなっていく背中を目で追いかけた。しばらくして、その背中が消えたのを確認してから、僕は再び歩き始めた。
 相変わらず、空気は冷たいけれども、澄み切っていた。


 ベッドに横になり、天井を眺める。
 一様に見えるようで所々違う木目が、目に入った。昔、理由もなくその模様を恐がっていたのを思い出す。そして、そんなときは決まって窓の外を見ていた。
 窓の外には、窓があった。隣の家―しかも、あいつの部屋の窓だ。ほんの一、二メートルくらいしか離れていない。これは明らかな設計ミスであると思っている。
 この部屋をあてがわれた頃は良かった。暇な時はあいつと話していられたし、宿題を写させてもらったりもした。逆に、向こうから呼んでくることもあった。
 でも、今は違う。
 ごろん、と件の窓の方へ寝返る。明かりがない。ということは、まだ帰っていないのだろうか。いや、それはないな。もう六時を回っている。この季節、流石にこの時間まで外をふらつくというのはあり得ないだろう。仮にも、女の子なわけだし。
 再び寝返り、窓に背を向ける。と、扉の向こうから僕を呼ぶ声が聞こえた。
「ご飯できたわよー! 下りてらっしゃい!」
「分かったー!」
 頭にこびりついたあいつのイメージを振り払い、僕は立ち上がった。


 今日の晩飯はカレーだった。その香辛料の香りと、そそり立つ湯気が食欲を誘う……なんてどこかのグルメ番組で聞いたような台詞を心の中で吐きながら、僕はひたすらに食べ続けた。割と、というかかなりの好物だ。カレーは。
 その所為だろうか。僕は、食卓を囲む雰囲気がいつもと違うことに全く気付いていなかった。
「まさか、いきなり引っ越すことになるなんてね……」
 最初、母さんのこの言葉の意味が全く理解できなかった。
「引越しって……うちが?」
「何言ってるの? うちじゃなくてお隣のことよ。まさかあんた、聞いてないの?」
 そのまさかに決まっている。全く聞いていない。寝耳に水もいいところだ。
「急に転勤ですって。明日にもここを出るって」
 食卓を囲む母さんや弟はこの話題で盛り上がっていた。しかし、僕はそれを横目に一人、黙って下を向いていた。食欲もすっかり止んでいる。
 引っ越す? そんな、馬鹿な……
 その時、はっとした。今日の帰り、学校の下駄箱で。あいつ、「話したいことがある」って言っていた。それがまさか、このことだったのでは。
 多分、あいつにとってそれは一大決心だったに違いない。確かにこれは、家で、あの窓を開けて話せるようなことじゃない。
 発つのは、明日。いくらなんでも急すぎる。
 あいつがいなくなる覚悟をする暇すら与えられないというのか。
 適当に席を立ち、部屋に戻る。
 最早、何も考えられなくなっていた。入ってくる情報ばかりが膨大で、それを処理することができない。頭の中が真っ白だ。
 僕は、何をすればいいんだ……?
 明かりも付けずに、ベッドに腰かける。互いの部屋の間は短い。しかし、僕とあいつの距離は……? いや、僕が一方的に離れただけなんだ。あいつはいつだって僕のそばにいようとしてくれた。それを突き放したのは他ならぬ僕自身――
 激しい後悔と、自己嫌悪。気付くのが、遅すぎたのだろうか?
 いや、まだ間に合う。間に合ってくれ――!
 僕はあいつの部屋に明かりが灯っているのを確認し、コートを掴んで部屋を飛び出した。


 殴るようにインターホンを鳴らす。
 程なくして、扉の向こうからおばさんが現れた。
「あら……」
「おばさん、あ、あの……!」
 ああ、くそ。思ったように話せない。しかし、僕の必死の形相を見て、おばさんは言葉なくともぼくの意図を汲み取ってくれたようだった。さすが、付き合いが長いだけのことはある。
「ちょっと待っててね。ねぇー!」
 階段の上に向かって、あいつを呼ぶ声を投げかける。返事は僕の耳にも届いた。居ることは分かっていたけれども。
「じゃ、後はがんばってね」
「……ありがとうございます」
「ふふ」
 おばさんは不思議な笑みを残し、去っていった。しかし、その笑顔の意味を考えてられる余裕なんかなかった。あいつが階段を下りる足音に全神経を奪われていたからだ。
 その途中で僕の姿を確認したらしいあいつは、怪訝そうに眉をひそめた。それでも部屋に引き返すようなことはなく、僕の前までやってくる。内心、冷や冷やしていた。もしここで背を向けられでもしたら……。結局は杞憂だったけれども。
「何の用……?」
「あ、う、その……」
「…………?」
 ここまで来て、どうして僕はこうなんだ。全く、言葉というのは難しい。僕みたいに語彙力の無い奴は、自分の気持ちもろくに表せないじゃないか。
 こうなればヤケだ。
「ちょっと、来て!」
「え? ちょ、ちょっと!」
 相変わらず疑問符を浮かべたままのあいつの手を取り、僕は駆け出した。離れないように、しっかりと握る。頬に当たる風は冷たかったけれども、握った手は暖かかった。
 あいつは黙って僕についてきてくれている。振り返って顔を見たかったけど、いろんな意味で、恐くてできなかった。
 やけに明るい夜道を、二人で走る。行くあてがないわけじゃない。大体の目的地は決まってるけれど――
 今は、もう少しこの暖かさを感じていたかった。
 でも、時間というのは律儀なもので、いつだって同じペースで進み続ける。僕らは目的地――近所の公園に辿り着いた。
 昔、二人でよく遊んだ場所だ。それほど広いわけでもなく、ブランコなどの定番遊具が少しと木製のベンチがあるだけで、しかも時刻が時刻なだけに、あたりには人っ子一人見当たらなかった。
「……手、離してくれる?」
「あ、ごめん!」
 手を離し、飛びのくように距離をとる。
 僕は喋れずあいつは喋らず、気まずい沈黙が辺りを支配した。
「……で、何の用?」
「え……?」
「え……ってあんた、用も無しにこんなとこまで連れてきたわけ?」
 いやはや、この嫌な空気を打ち破ってくれたのはありがたいけれど、思い切り図星をつかれてしまった。ここに来ようとは、直感的に決めていた。理由なんかあるわけない。でも、何をしたいのかまでは、全く考えていなかった。
 心なしか、月明かりに浮かぶあいつの顔は怒りに染まっているように見えた、
「え、えっと、その……」
「今日帰るとき、あんなこと言っといてそれはないんじゃないの?」
「ぐ……」
 全くもってその通りだった。
 正面に相手がいることも忘れ、何か話題はないものかと周囲を見回す。
「つ、月が!」
「月が、どうしたの」
「き、綺麗だなぁって思って」
「……まぁ、確かにそうだけど」
 怒りを通り越して、呆れ顔になった。良かった、あのまま険しい顔されてたんじゃ話せることも話せない。
「とりあえずさ、座らない?」
 そう言って、設置されているベンチを指差す。
「…………」
 あいつは無言で、僕の提案を受け入れてくれた。
 あいつはさっと手ではいてから腰かけ、僕はそんなことお構いなしに腰を下ろした。木のベンチは、異様に冷たい。今になって、自分が防寒装備ゼロであることを思い出した。唯一持ってきたコートは渡しちゃったし。
 正直、凍える。馬鹿と罵られても仕方ない。けれど寒いのもまた仕方がない。僕は腕を組み、情けなくも歯をガチガチと鳴らした。
「全く、馬鹿なんだから」
「へ?」
 寒さが和らいだ、と思ったらあいつがすぐ隣にいた。僕が渡したコートを、二人で一緒に羽織っているような形だ。確かに、これなら凍えずにすむ。さらに、触れ合う肩から伝わる温もりが相乗効果で寒さを打ち消した。いや、逆に顔が火照ってきたくらいだ。
「……やっぱり、あたしがいないとダメじゃん。あんたさ」
「………………」
 その台詞は、暗に自分がいなくなるということを意味していたに違いない。
 何を言えばいいのか、僕は分からなかった。決心したつもりでいて、僕の気持ちはまだ揺らいでいる。自信が持てない。
「あたしだってさ、本当は嫌なんだよ?」
「…………………」
「でも、どうしようもないじゃん。あたし一人だけ残るなんてできないもん。一人で生きるなんて、できない。まだ、中学生だから。あーあ、どうして今なんだろうなぁ……。もっと、大人になってからだったら良かったのに」
「お前……」
 顔を見て、はっとした。
 月明かりに浮かぶ、一筋の涙。
 僕は、何も言えなくなった。
 彼女は何とか笑顔を保とうとしているけれども、溢れ出る液体は留まるところを知らない。
 しかしそれは、どんな飾らない言葉よりも、彼女の心を如実に映し出していた。
 ああ、答えは簡単なことだった。分かっていた。足りなかったのは、僕の勇気。
 彼女は無言で僕の手を握った。僕も、それを握り返した。
 どうして今まで、この手を取ることができなかったのだろう。でも、もうそんなことはない。
 重なり合った手から伝わる温かみが心地よい。
「………ごめん」
 自然と、この言葉が出た。
「うん……」
 これで僕は、許されたことになるのかな。今まで散々、大切なものをないがしろにしてきたことを。
 彼女が僕の肩に寄りかかってきた。髪から漂ってくる香りは、僕の記憶にあるものとは違い、異性を感じさせた。
 いつもなら絶対に嫌がるだろうこの状況も、今は不思議な安心感を覚えさせるものでしかなかった。


 ――月光に照らされる公園で、二人の子供がはしゃぎまわっていた。
 気弱そうな、それでいて優しさも兼ね備えた男の子と、夏の向日葵のような元気な笑顔をたたえた女の子。ああ、これは僕たちだ。胡乱な頭で理解する。
 あ、男の子が転んだ。はは、鈍いのは昔からなんだな。僕は。
『だいじょうぶ?』
『……うん』
 差し伸べられた手を、泣き顔で掴む。強がりを言うのも、今と変わらない。
 彼らを見ているうちに、僕は自身の口元が緩んでいることに気がついた。そして、胸に去来する不可解な感情にも。
 悲しくもないのに、涙が出てきそうになる。こんな、幸せな空間にいるというのに。
『お兄ちゃん、泣いてるの?』
「ああ……」
 僕が話しかけてくる。何も知らない、純粋無垢な瞳。
『変なの。お兄ちゃん、笑いながら泣いてる』
「ああ……」
『うれしいなら、笑えばいいのに』
「そうだな……」
『かなしいなら、泣けばいいのに』
「ああ、その通りだね……」
『がまんは体に悪いって、おかあさんが言ってたよ』
「うん……体だけじゃなくって、心にも悪いな」
『こころ?』
「……大きくなれば、分かるよ」
 もっとも、その時はもう手遅れなのかもしれないけれど……
 と、僕の名を呼ぶ声が聞こえた。
『あ……じゃあ、ぼくもう行くね』
「ああ……元気でね。もう転ぶなよ」
『うん』
 僕は満面の笑みを浮かべ、幼き日の彼女の方へと走っていった。二人は手をつなぎ、光へと向かっていく。眩しすぎて、僕は見ていられなかった。
 だけど、最後に一言加えておくのを忘れない。
 その手を、二度と離すんじゃないぞ、と。


 彼女のいない年末年始はあっという間に過ぎ、気がつけば春の足音が聞こえる季節となっていた。
 今年度最後の登校日を終え、いつもの帰り道を一人で歩く。道端には緑が増え、時の流れというのを嫌でも認識せざるを得なかった。
 二度と明かりの灯ることのない隣の部屋は、見るたびに僕を淋しくさせた。でも、見られずにはいられなかった。
昔みたいに、突然話しかけてきそうな気がしたから。
 いつか、帰ってくるような気がしたから。
 足元を見つめながら歩を進める。すると、前方から子供の笑い声が聞こえた。顔を上げてみる。
 あの時の、男の子と女の子だった。相変わらず、女の子が先行し男の子がそれを追う形になっている。
 また転びそうだなぁ、とのん気に見ていると、案の定、転んだ。
 ただし、女の子のほうであった。きゃっ、という可愛らしい悲鳴が耳に届いた。
 やれやれ、と心の中で言っていると、男の子がすっと、女の子に手を差し伸べた。
 女の子は、笑顔でそれを握る。それにつられてか、男の子もやや頼りなさげな笑みを浮かべた。
 そして二人は、しっかりと手をつなぎ、走り去っていった。
 僕の出番は、無しか……
 自嘲気味に笑って、僕は再び歩き出した。
 小春日和の空気はやけに暖かくって、自然と欠伸が出た。





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