第五章  悲しき視覚




 ふらふらと戻り、部屋の扉を開けた僕はある違和感に襲われた。
 人の気配が、全くない。
 これが普段だったら全く問題はない。逆にあったらあったで大事だ。
 けれど今は、僕の部屋で彼女が眠っているはず。ならば、その気配がなくてはならないのに……
 まさか。僕は部屋に直行した。そして、暗い部屋の中でベッドを覗き込む。
 ――悪い夢なら、覚めて欲しい。
 そこに、在るべき彼女の姿はなかった。
 あの傷でどこへ行ったのだろうか。もしかして、自分の部屋に戻った?
 単純な思いつきでしかなかったけれど、今の僕にはそれ以外に頼れるものはない。部屋を飛び出し、すぐ隣の、彼女の部屋の扉を叩く。もちろん、ここで反応があるとも思っていない。
 ドアノブは、何の抵抗もなく回った。そして僕も、躊躇せずに足を踏み入れる。
 ここでいきなり、天地が反転し……たりはしなかった。
 真っ暗な部屋。ここにもやはり、人の気配はない。
 それでもやっぱり信じられなくて、悪いとは思いつつも家捜しをさせてもらった。
 けれど、いない。ベッドの上にも、ソファーの下にも、冷蔵庫の中にも。
 そしてもう一度、自分の部屋へ戻った。
 彼女は一体、どこへ姿をくらませたのか。あの怪我だ、そう遠くへはいけないはず。
 それに加え、今外を出歩くのは危険極まりない。闇の中へ消えた、粕谷先生だったモノ。あれがどこにいるのかも分からない状況の中を歩くのは、自殺行為に等しい。
『全てを知りたいなら、学校へおいで』
 ――ふと思い浮かぶ、シルフィの言葉。そして、姿を消した彼女。
 今になって思い出した。霧橋さんは、決着をつけるといっていた。でもそれが、僕という闖入者によって妨げられてしまっていたこと。
 霧橋さんと僕、それに粕谷先生の間にある唯一の共通項目――それが、学校だった。
 けど、僕が行ったところでどうなるんだ?
「そんなこと関係ないだろ、馬鹿野郎」
 考えてしまった自分を叱りつけた。
 確かに今の僕は、頭痛も酷いし先ほどのショックから完全に立ち直れているわけでもない。
 第一、こんなに長時間眼鏡を外していたのは久しぶりだから――大分、抑えるという感覚が麻痺してきている。これがどんな作用を及ぼすのか予想もつかない。
 けれど、彼女を放っておくことはできない。
 支える、と約束してしまったから。
 僕は家を飛び出し、無心に静かなる街を駆け抜けた。


 毎日のように見ているはずの学校。しかし今目の前にあるそれは、全くの別物のように思えた。なんと言うべきか、言葉で表すことが難しい、違和感のようなものがある。
 そしてそれが、頭痛を引き起こしていることも。
 でも、この中に霧橋さんはいる。なぜかは分からないけど、そう感じた。
 彼女のほかにも、知っている感じが二つ。一つは、僕を呼び寄せたシルフィのものだろう。もう一つは、分からない。けれど確かに知っている。思い出せない。
 というよりも、体を動かさずにいることが辛かった。頭を使おうとすると、脳味噌が焼けそうになる。――いや、それだけじゃなかった。
 頭の中よりも、もっと深くにある何かが、僕の体を動かそうとしている。
 僕は嗅覚を頼りに、尋ね人の姿を求めた。こういう場所なら臭いを辿るのが一番早い。
 これが犯人の足跡を追う警察犬の気持ちだろうか。と、そんなことを考えられる余裕があることに少し安心した。まだ僕は、理性を保っている。
 とりあえず、僕は階段を駆け上がった。誰のものだか判らない臭いを追って。
 一階から二階へ。ここじゃない。まだ上だ。
 二階から、三階へ――
 上がりきろうとしたところで、僕の目の前に白黒の人影が現れた。
 どうして、こんなはっきりとした殺気に気付けなかったのだろう。
 何故、彼女の声が聞こえなかったのだろう。
 嗅覚に集中しすぎた愚かさを、僕は悔やんだ。
「あーあ、やっぱり来ちゃったね」
 その声は、どこか残念そうな響きを含んでいた。
 月明かりに浮かぶシルフィの姿は、その銀髪も相まってかどこか神秘的な雰囲気を醸し出している。そしてその顔は、今まで見せていた軽い笑顔とはどこか違う、微妙な冷たさをもった笑みだった。
「君、そんなにツキメのことが大事なわけ?」
「……約束しちゃったからね。僕が、彼女を支えてあげるって」
 やっぱり、霧橋さんはここにいるのか。いなかったらいなかったで困るけど。
 安堵した僕とは正反対に、シルフィの顔はより一層冷たいものとなった。その冷たさは空気を伝い、僕の皮膚に直接刺激を与えてくるかのよう。
「ふぅん、そういうこと真顔で言っちゃうあたり、ホント気にくわないね。でも、この娘の前でも言えるかな?」
 シルフィが曲がり角の向こうに消える。反射的に僕はその姿を追いかけた。
 その間に感じた、大きな違和感。今まで嫌というほど感じていたシルフィの殺気が消えている。いや、殺気だけじゃない。彼女の思考、匂い、気配。その全てが一瞬のうちに消え去っていた。
 それと入れ替わるようにして現れた、もう一つの気配。
 ……僕は、その五感の全てを認めたくなかった。
「甲江、さん……?」
 だが、その身に纏っているのは漆黒のマント。いつも見ている色白の顔は悲しそうに伏せられていて――
 彼女の目から頬にかけて、涙のようなものが伝ったのは、僕の気のせいだろうか。
 おおよそ、こんな暗い世界には相応しくない姿。甲江さんは、甲江さんみたいな普通の人は、こんなところに居てはいけない。ここから先は、否、すでにここは、僕たちの世界だ。
 足を踏み入れれば、二度と戻れない世界。
 多分、――これは僕の予測だけど――死したる後も、僕たちを縛り続ける、先天的な呪い。
 それを持たない彼女がここにいてはいけないし、何より、こんなところに居るはずがなかった。
 それが、何も知らなかったときの僕の考え。
 けれど、今は分かる。
 甲江さんもこちら側なのだ。いや、正確には――
「……甲江さん」
「い、嫌! 来ないで!」
 その言葉に、恐れは含まれていなかった。ただ純粋な、拒絶。何故?
 彼女は今、僕の顔など見たくない、今すぐにでもこの場から逃げ出したいと思っている。
 僕の伸ばした手が、甲江さんに届くことはなかった。
 背を向け、暗闇の向こうへと走り去る彼女を、僕はただ呆然と見つめることしかできなかった。月明かりに照らされた涙のきらめきが、やけに印象に残る。
 僕は追いかけようとも思わなかった。
 恐らく、僕が行かずとも、彼女の方からやってくる。
 また、さっきと同じように、逆転した気配。あったはずのものが消えて、なくなったものが現れる。
 ――出現した気配が近付くのは、一瞬だった。
 一呼吸も置かない間に、その白黒の影は僕の眼前まで間合いを詰めている。
 そして、僕の鼻先に突きつけられた一本の業物。
「ホント、あんたってあの娘を泣かせることしかできないんだね」
 冷たい言葉と、冷たい表情。それはまるで、僕の目の前の刃そのもののようだった。
「……僕が甲江さんを傷付けるようなことをしたのなら謝るよ。けど、僕が何をしたんだ。それが分からない限り、僕は何もしてあげられないよ」
「それを偽善って言うんだよ。人ってのはね、自分でも気付かないうちに他人を傷付けてるわけ。あんたにそのつもりはなくても、現に甲江飛鳥って女の子は泣いてるんだよ。これが結果。これからあんたが何をしようとも、これだけは変わらないんだ!」
 寸止めだった刃が、僕の顔目掛けて突かれる。
 しかし、これだけ殺気を露にし、なおかつ怒りに身を任せているシルフィの攻撃をかわすことは造作もないことだった。それはどこか、八つ当たりのようで。計算も何もあったものじゃない。ただ、僕を傷付けたい。壊したい。その思いだけが、痛いほど僕に伝わってくる。
「あたしには分かるんだよ。この娘の悲しみとか、寂しさとか、痛みとか……それに耐えるしかできないことが、どれだけ辛いのか!」
 がむしゃらなようで、シルフィの斬撃は確実に僕の急所を狙ってくる。読めているとはいえ、一瞬でも気を抜けば僕は血の海に沈むだろう。
 けれども、かといって彼女を無力化するようなことも考えていなかった。
 話し合いで解決できないだろうか。まだ心の中で、そんな甘い考えを持っていた。
 だから、僕は彼女の独白に耳を傾け続けた。そして、何も言わなかった。
 と、不意に剣の舞が止んだ。互いに距離を置き、様子を伺う。
 次にどんな攻撃がくるのか。残念ながら、こんなときに限って彼女の声は聞こえない。
 シルフィは刀を下ろし、僕は身構える。
「ちょっとこれ、持ってて」
「え?」
 言うや否や、シルフィは懐から取り出した棒のようなものを、僕に向かって投げつけてきた。あまりに突然だったので、反射的に受け取ってしまった。触った感じでは、妙なざらつきがある。金属とかそういった類のものじゃない。長さもそんなにないし、第一真っ直ぐというわけでもなかった。
「枝……?」
「ちゃんと持っててね。結構重いから」
 重い? 何が重いっていうんだ?
 とりあえず僕はそれに従い、その枝をしっかりと握り締めた。
「1、2――3!」
 その掛け声と共に、彼女が指を鳴らした瞬間。
「な……!」
 手に伝わる、圧倒的な重量感。この薄暗い中でも、わずかな光を反射する最強の美術品。
 さっきまで僕の手の中にあったはずの木の枝が姿を消し――代わりにあったのが、シルフィが手にしていたのと同じ、一本の日本刀だった。
 なぜかしっくりと手に馴染む、この感じ。久しぶりに握ったはずの凶器は、自分でも信じられないくらい違和感なく僕の手の中に納まっていた。
「驚いた? 種も仕掛けもない。これが、私がこっち側である理由。あの娘と共存してるのはあくまで副産物に過ぎないんだよ」
 本当に驚いた。僕とは違う、本当に超能力っぽい能力を見せ付けられて。
 それを知ってか知らずか、シルフィの口調がちょっと得意げなものになる。
「リンクさえ張っておけば、どんなものでもこんなふうに交換できるんだよ。あんたの部屋にも、いくつか枝(アンカー)を置かせてもらったけど。悪く思わないでね。そのおかげで、こっちはすごく行動しやすかったんだから。あんたたちの行動筒抜けだし」
 ……そうか。部屋の掃除をしていたときに出てきた、あの木の枝。酔った眞吾が持ってきたもんだとばかり思ってたけど、そういう裏があったのか。
「ああ、最後にもう一つ。あんたのお友達――ヤサカシンゴだっけ? 彼にお礼言っておいてよ」
「……何だって?」
 どうしてここで眞吾が出てくる。まさか、あいつまで巻き込まれてたって言うのか?
「彼、ホントによく働いてくれたよ。甲江飛鳥に少なからず好意を持ってたみたいだからね、無意識下で行動を操作するのは割と簡単だったよ。あたしも、そういうのはあまり得意じゃなかったんだけどさ。あんたの部屋に枝(アンカー)持ってったのも、甲江の家に呼んだのも、全部仕組んでやったんだ。中々に楽しい茶番だったよ?」
 なんてことだろう。
 僕の唯一の親友。決別を言い渡されたはずの友。
 僕が日常にいるための、数少ない命綱。
 それまでも、偽りだったなんて。
 僕を殴った、あの拳まで嘘だったのか。
「でも、もうそれも終わりにしよう。言ったよね? あたしは、あんたを殺したくってうずうずしてるってさぁ!」
 瞬間的に爆ぜる殺気。
 ショックを受ける暇さえ与えてくれないのか。その見え見えの突きを、僕は軽く身をひねってかわした。勢いを殺すことなく、横なぎにされる刀。しかしその連続も、読める以上僕に当たることはない。
 一度詰められた間合いを、再び開く。距離にして十メートルほどだろうか。とりあえず一歩で踏み込むことはできない。
 こんな軽い運動のはずなのに、僕の心臓は早く脈打っていた。いや、運動のせいじゃない。
 彼女の殺気に同調して再発した、この頭痛。原因はこれだ。
 面倒くさい。今すぐにでも目の前の小娘を切り刻んでこの苦痛を終わらせたい。
 何でもいいから、壊したい。
 ――何を考えてるんだ、僕は。
「全く、それじゃ武器を渡した意味ないじゃん。本気でやってくれないと、殺し合いにならないよ」
「……僕は、そんなことするつもりは、ない」
「どこまでそんな強がり言ってられるかな。もうかなり辛そうだよ。それに――」
 来る。早い。
「本気でやらないと、あたしがあんたを殺しちゃうよ!」
 視認ぎりぎりの速度で襲いくる袈裟切りを、刀身で受け止める。散った火花が目に残った。
 体格では圧倒的にこっちに分がある。鍔迫り合いの状態から、力任せにシルフィを弾き飛ばした。再び開く間。
 しかし今度は、先程のような会話はない。刹那の間もなくシルフィが地面を蹴った。
 それはまるで、銀色の弾丸。何が来るのか分かっていたところで、体が追いつかないのでは意味がない。ギリギリと余裕の丁度中間。防御はできるが、反撃はできない。
 否。反撃したがる自分を抑えているから、反撃できない。
 刃が眼前を掠める。その向こうに望む彼女の瞳は冷たく、そして悲しい。
 こうやって命のやり取りをして、初めて気付いた。甲江飛鳥とシルフェリア・ヴァルド。この二人の少女は、本当に同一人物だったのだと。確かに顔も似通った点が多いが、それよりも何と言うのだろうか、人として根本的な部分で繋がっているような感じがする。
「君は――甲江飛鳥、なのか?」
「違うよ。あたしはあたし、シルフェリア・ヴァルドさ!」
 上段から振り下ろされる刀。受け止めなければ、脳天から真っ二つだっただろう。
 そして間髪空けずに、次の一撃。上下左右、ありとあらゆる方向から刃が飛んでくる。
 その全てをかわし、流し。一撃一撃が重く、僕の心に圧し掛かってきた。
 けれど、僕はここで立ち止まるわけにはいかない。目の前の少女を殺してでも、前に進まなくちゃ――
 違う。何故だ。こんなこと、考えたくもないのに――!
 袈裟切りを払うと、シルフィが一歩間を空けた。それと同時に、懐に右手を突っ込んでいる。何かを取り出すのだろうか。それが何であれ、僕に攻撃するためのものには違いないだろうけど……
 彼女の右腕が振りぬかれる。と、それと共に数本の棒状のものが僕に向かってきた。
 枝? と、半ば拍子抜けしながら、受け止めようと手を出して自分の迂闊さに気付いた。
 僕が今手にしている刀は、どこから出てきたのか、と。パチン、というおおよそこの場には似合わない軽快な音と共に、その枝は銀色の光を放つナイフへと姿を変えた。
 僕の、手の直前で。
 実際の痛みはあまりなかった。どうやら体に刺さったナイフはないようだ。その代わり、ナイフを受け止めた手からは、真っ赤な血が景気良く流れ出している。それを見て、やっと自分が傷付いたのだと理解した。そして、気付くと同時にじわじわと痛みも広がっていく。直撃はなかっただけで、ほとんどの刃が僕の体を掠めたようで、腕やら足やら脇腹やら、体全体から地味に痛みが伝わってくる。
「どう、結構痛いでしょ? でも、飛鳥の痛みはこんなもんじゃない。あの娘を傷付けたあんたの罪は、もっと重いんだよ。だからあたしがあの娘の代わりにあんたを消す。自分を傷付けるものを消したくなるのは当然でしょ? それが、あたしとあの娘との約束だから。おまけに、あたしはあんたに好意の欠片も持ってないからね。もう、これ以上は我慢できないんだよ!」
「くっ……!」
 血塗れのナイフを投げ捨て、刀を握り直す。だがそれと同時に、激しい痛みが神経を駆け上った。それはまさに、失神するんじゃないかというほどの痛みで。
 銀色の弾丸を受け止めることすら、ままならなかった。
 背中に衝撃。突進の勢いを殺すことが出来ず、僕は床に叩きつけられた。
 こんな好機を、狩人が逃すはずがない。
 何か黒い影が、僕の上に圧し掛かったな、と思った次の瞬間に目に飛び込んできたのは、刀を振り上げたシルフィの姿だった。
 本当に、混じりっけなしの死というものが目の前にある。
『殺せ』
 五月蝿い、こんなときくらい黙ってろ。
『殺らなきゃ殺られるぞ』
嫌だ。どんなことがあろうとも、あいつの言う通りになってたまるもんか。
 ――あいつって、誰だ?
「これで、やっと終わりだね」
 月明かりにきらめく刃が、眼前に迫る。いくら相手の行動が分かったところで、こうもがっしり押さえ込まれていては避けようがない。
 しかし不思議なことに、目の前の光景がスローモーションで流れたり、これまでの人生が走馬灯のように脳裏を駆け巡ることもなかった。
 ――何か温かいものが、僕の頬に当たった。
 がきん。
 人体に刺さったのであればまずありえない、硬い物と硬い物がぶつかりあった音。
「……どうして、どうしてなの?」
 その疑問は、僕の口から出たものではない。
 その時僕は、やっとはっきりと感じることが出来た。
 彼女が本当に持っているのは、恨みなんかじゃない。深い、深い悲しみだった。
「どうして死なないの! どうして殺させてくれないの! あんたが、あんたさえいなければこんなことにはならなかったのに!」
 再び振り上げられる刀。しかしそれは、何度やっても僕の顔の脇に突き刺さる。何度も、何度も。涙を流しながら、彼女は床を突き続けた。
「――僕は確かに、人の気持ちを理解できるかもしれない。ただそこにいるだけで、その人の気持ちが分かってしまう」
 確かに聞こえた、あの言葉たち。それは確かに、人々の心だったのだろう。
「けれど、本当に知ってほしいことは、言葉でちゃんと伝えて欲しかった。きっと、僕のは盗み聞きと大して変わらない。そんなので知ったって、ダメなんだ。言葉に表すってことは、それに責任を持つと同時に、事実にするってことなんだよ。本当の気持ちを伝えてくれれば、僕だって何かしら応えることはできたのに――」
「うるさい!」
 叫びと同時に、がぎん、という今までとはちょっと違う音。がむしゃらな突きに、得物のほうがもたなかったらしい。散った欠片が、頬に当たった。
「私は何度も伝えようとしたよ! けれど、柳君は分かってくれなかった。この苦しみがあなたに分かるの? ねぇ、早くこの苦しさを終わらせてよ! あたしがあんたを殺せないなら、あんたがあたしを殺してよ!」
「……ごめん、それはできない」
「どうして! なんで! そんな同情いらないよ!」
 駄々をこねる子供のように、シルフィは拳で僕の胸を叩く。今度こそ本当に、痛みも何もない。ただ、彼女の涙と弱々しい拳は――やっぱり痛かった。
「……同情なんかじゃないよ」
 ましてや、安っぽい正義感なんかでもない。ただ、僕は――
「僕はこれ以上、大切な友達を失いたくない。こうなってしまった責任も、僕が全部背負う。だから、もうこれ以上背負いたくないんだ。僕は、君が思ってるほど立派な人間じゃないからね。正直、そろそろ限界なんだ」
「……そんなの、理由になってないよ」
 泣きながら、彼女は文句ありげな顔で言った。
「ま、こんなだからこの娘も惚れたのか……」
 そして、自嘲気味に笑った。
 本当なら僕も、ここで平身低頭謝罪したいくらいだった。その痛みを知ってしまった以上、それくらいさせられても当然のことだと思う。
 けれど、本当に謝るべきはシルフィじゃない。もっと深く傷付けてしまった人がいるなら――どんなことをしてでも、それは償わなくてはならないこと。
 果たしてそれが出来るかどうかは、今の僕には分からないけれども。
「行きなよ、ツキメが待ってる。この埋め合わせは、必ずしてあげてよね」
 僕の上から退き、彼女は窓際の壁に寄りかかって言った。
 立ち上がって、体の各部をチェックする。うん、とりあえず正常に動く。問題ない。
 床に落ちた刀も一応拾っておく。こちらも問題どころか、刃こぼれ一つしていなかった。本当は、どこかの名刀なのかもしれない。
「……そういえば、あんたが殺してくれないなら、自分で死ぬって手もあるんだよね。どうせ負け犬はもう、用済みだろうしさ」
「何を馬鹿なことを……!」
「あはは、冗談だよ、冗談。飛鳥との約束は守れなかったけど、約束を守る以上にあの娘のためになることを考えるよ。飛鳥が傷付けばあたしも苦しいけど、それと同じで、飛鳥が幸せなら、あたしも幸せだからね」
 シルフィはけらけらと笑った。
 そういえば、甲江さんがこんなふうに笑ってるのは、一度も見たことなかったな……
 もう一度会えたら、必ず謝ろう。そう、僕は僕自身に約束した。
「さ、早く行きなって。女の子をあんまり待たせるもんじゃないよ」
「うん……ごめん」
「あたしに謝ったって仕方ないでしょ、全く」
 最後の最後まで、彼女の口調は軽かった。
 だから僕は、彼女の涙に触れず、背中を向けた。


 あの日、彼女は泣いていた。
 彼女はどこか遠いところへ連れて行かれ、僕も疎遠だった祖父の家に引き取られることとなった、その日。
 その泣き様は、今まで見たことがなかった。僕の記憶の中の彼女は、いつも幸せそうだったから。そして僕も、それが当たり前のものだと思っていたから。
 けれど、それも最早崩れ去ってしまった。
 僕に、彼女と話せるほどの気力はなく、まさに茫然自失といった体で、これまた感情というものを忘れてしまったような彼女を見ていた。
 ただ、空虚な瞳で。
 その時僕は、なにを考えていたのだろう。
 片時も離れず、まるで兄妹のように育ってきた彼女と、これっきり会えなくなるのに。
 いや、そんな質問自体が無意味だ。
 僕は、なにも考えていなかった。
 麻痺した心に浮かぶものなど何もない。日が暮れるまで遊び、日が暮れてもやっぱり遊んだ日々とか、一緒に食べたお菓子の味とか、また明日、という約束とか。
 傍から眺めている僕の頭には、こんなにはっきり浮かぶというのに。
 ――そう、だから僕は走る。
 明日≠ヘこんなに遠くなってしまったけれど。
 まだ間に合う。間に合え。その希望だけに、縋り付いて。


 その場所にたどり着くのに、気配を辿ったりする必要はなかった。
 闇が支配する廊下に残った、赤黒い滴りの跡。気を抜けば見落としてしまいそうなそれも、今の僕の目に留まらぬはずがない。そして、それは間違いなく彼女のものだ。
 どうしてそう分かるのか、僕自身も不思議に思う。でも、その鉄っぽいにおいとか、空気を伝わってきたその味とかが、それが彼女の血であるということを告げていた。
 知るはずのないもの。けれど僕は知っている。
 そう、あの想い出の中で、口に含んだ味。
 ――ぎり、という音が、頭蓋を伝わって鼓膜を震わせる。気付かぬうちに歯軋りしていた。
 そして、血痕は一つの扉の内へと吸い込まれていた。
 よりによって、ここか。いや、ここだから最後の場所に選んだのかもしれない。
 闇に包まれていても分かる。見慣れた廊下、開き慣れた扉、その先に広がっていなければならない、穏やかな日常。
 不思議と、教室の中から殺気は感じられなかった。いや、ずっとそれの中に居たせいで感覚がマヒしているのか。けれどやっぱり、この扉の向こうには何もなくて、明日もやっぱりみなと一緒にいつも通りの一日を送れるんじゃないか――そう、期待せずにはいられなかった。
 しかし、もうそれもできない。
 僕は全てを壊してしまった。壊せと言う声に抗い、できない、出来ないと叫び続けてきたのに。結局、大事な友達も、僕を好いていてくれた彼女も、そして――僕自身も。
 それらは元に戻すことが出来るのだろうか? 時計の針を戻して、これまでのように笑い合えるのだろうか?
 答えは是。できる。ただ一つの条件を付けることで。
 ――壊すものさえなければ、世界は自ずと再生する。
 分かっているのに、僕はどこかで拒み続けていた。だって、僕が居なくなるということは。
 僕が、彼女の隣に居られなくなるということ。
 それが嫌で、僕はここまで走った。約束を守るために。古い、古い約束を。
 冷たい鉄の扉に手をかけて、僕は目を閉じた。再会は短い時間だったけれど、こんなにも僕の中で輝いている。
 それだけで、十分満足。
 今はもう、頭痛すらも感じない。尖りすぎた神経は、空気に触れるだけで全身に鋭い痛みを訴える。当然だ。全身に切り傷があるのだから。
 一つ、深呼吸。そして僕は、その重い扉を開いた。


 そこは、異界だった。
 埃っぽい空気に混じった、強い鉄の臭い。扉を開けると同時に襲い掛かってきた無軌道な殺気が、肌をちくちくと刺激する。
 そこには整然と並べられた机も、友人とだべったり、授業の予習をしたり、睡眠を補給するクラスメイトの姿も、あの穏やかな空気すらもない。最早この教室は、僕の知っているそれではなかった。そう、それはあっちの世界。
 そしてその狭過ぎる世界の主は、笑顔で僕を迎えた。
「やぁ、君か。よく来たね」
 フレームレスの眼鏡に、鈍色のコート。今はもう、その笑顔も仮面としか思えない。
 甲江縁起は、この異常の中においても――正常だった。
 いや、彼にとっての正常が異常だったのだろう。異常の中での異常は、正常。
 なら、今の僕も十分正常か。普通の人間なら、入った瞬間に腰を抜かすか、胃の中のものをぶちまけるだろう。
 磔にされた、ある男の末路。まるであの日見た花火のように、生徒を襲った担任は彼の向かうべき場所――黒板に、赤黒い花を咲かせていた。その胸を穿つ一本の棒だけを支えに、体を宙に浮かべている。
 僕がそちらにちらりと視線をやると、甲江縁起は体ごとこちらに向き直り、どうということはない、世間話のような雰囲気で語りだした。
「彼は、よくやってくれていたのだけれどね」
 過去形の言葉。
 空気は不思議とさらさらしていて、けれど時々鋭い。その鋭さが誰のものであるのか分かってはいたけれども、僕はあえて何も言わなかった。言いたかったけれど、言わなかった。
「ちょっとやりすぎたんだよ。三人目までは、純粋に敵だった。私たちを抑えるために来た、組織の回し者だ。そう――君が求める、霧橋月愛と同じさ」
 その単語に、ダメだと分かっていながらも体は反応してしまう。
 そんな僕に満足したのか、縁起さんは眼鏡の奥の目を細めた。
「彼らは排除しなければならなかった。私は為すべきことを成すまで、止まるわけにはいかなかったからね。彼を手駒に加えられたのは幸いだったよ。本来なら、君にも同じ役目を負ってもらいたかったのだが……まぁいい。同じように暴走して、わざわざ処分するのも面倒だ」  彼の笑顔は軽い。しかし、軽い故に分からなかった。
 剥いでも剥いでも同じ顔。それは一直線の金太郎飴を思わせる。
 変わらない。どこまでも不変。そういう生き方しかもうできないのだと、僕は思った。
「今晩のアレは、一般人だった。何の特異性も持たず、ただ平凡な世の中を生きていた者だった。彼はそれを潰してしまった。己が快楽のためだけに。だから私が罰を下した――いや、私自身がただ許せなかっただけか」
「だから、殺したと?」
 返事はない。しかし、相変わらずの笑みが肯定の証だった。
 ふと、あの夏祭りでの会話を思い出す。まともな会話はあれが最後だった。
 良くも悪くも、一教師。だけど、決して。
「……悪い人ではありませんでした」
「それは君の主観だろう。私の主観では彼は悪人だし、客観的に見ても殺人者である彼は悪人だ。その罪は命を持って償え。それ故の極刑だろう?」
 反論は、出来なかった。いや、出来たとしても――あれを見てしまった僕がどこまで先生を先生として見ていられるか。強烈な印象は脳に焼き付き、目を閉じるだけで自動再生をする。今また思い出してしまった、彼女の罪のように。
 ちりちりとした痛みを感じる。その痛みは安心でもあった。
 だってこれは、彼女が生きているという証拠だったから。
 生きていれば、助けられる。それが僕の最終目標。そのためだけに僕は来た。
 ――だっていうのに、縁起の言葉はそれを根底から覆す。
「私が霧橋月愛を殺さねばならないのも、同じ道理だ。そして柳巽くん、これは君にも通ずること。君もまた、霧橋月愛を恨むべき存在だ」
 初めは意味が分からなかった。僕が霧橋さんを恨む? 支えると約束した彼女を、僕が恨んで、あまつさえ殺すだって?
 そして縁起は――霧橋さんも、人を殺した過去がある、そう言いたいのか。
「――ああ、全く。思い出すだけでも腹が立つよ。自分の母親を殺しておいて、自分はこうやってのうのうと生きている。それどころか、同胞を殺しまわっているなんて。これじゃ、姉さんが浮かばれるはずもない」
「けど、それでも僕は――!」
「普通の人間だった君の両親を殺したのも彼女だろう? まさか、親殺しを無条件で許せるほど君は馬鹿な人間でもあるまい」
「――っ!」
 どうしてこいつがそんなことを知っているのか。
 僕でさえ、繋げるのを恐れていたことを。
 彼女が――幼き霧橋月愛が僕と彼女の両親の命を奪った事実は、確かに僕の記憶の中に記録されている。消したつもりで消えていなかった、深い傷跡として。
「それとも、彼女もまた弁護するつもりかい? 悪い人ではない、と」
「……分かってましたよ、そんなこと」
 そうだ。だからどうした。そんなこと、とうに分かっていたじゃないか。
 昔のことを差っ引いたって、あの約束が果たさねばならないものであることに変わりはない。
 僕から父さん母さんを奪ったことを怨まぬわけではない。けれどそれは、恐らく彼女が望んでやったことじゃない。
 月愛はきっと、あの言葉に従ってしまったんだ。
 今も僕を侵し続ける、本能とでも言うべき声。本当は僕だって、今すぐこの手の中の刀で縁起を八つ裂きにしたい。おおよそ聖者とは程遠い磔にされた亡骸も、この親しみ深い空間も、恐らく彼の向こうにいるであろう彼女も。
 彼女に罪がないわけではない。そもそも僕らは、自分を偽って生きている時点で咎人だ。生まれながらに背負っている罪。そこに自らの意思は存在せず、神様の悪戯だけで僕たちの運命は大きく揺さぶられる。いや、神様にとっても僕たちは予想外なのかもしれない。
 世界という大きなシステムの中に生まれた、ほんの小さなバグ。プログラムに影響を及ぼすことはほとんどないけれども、放っておくことはできない突っかかり。
 しかしそれは、互いに食い合うものでもあった。だから神様は何もしない。それらが生じること自体を止めようともしない。そのバグに、心があることも忘れて。
 だったら僕は、僕が思うような行動を取らせてもらおう。
 彼女は生きる。僕が生かす。生かして、幸せになってもらう。
 そして僕は、そのとき初めて彼女を許そう――
「だから、何があっても、僕は彼女の味方です。そして僕は彼女を迎えに来た。それだけなんですよ、縁起さん」
「そうか……残念だよ。君なら分かってくれると思ったんだけどね……よもや、本当に敵対することになろうとは」
「いえ、それは違います。言いましたよね、それだけだって」
 ここで初めて、縁起の笑顔が消える。代わりに浮かんだのは思案の表情。
「僕は彼女を返してもらいに来た。だから、それが済んだら帰ります。あなたと敵対するつもりはありません」
 なるほど、縁起の中では敵の味方は敵。そういう二分されたものの見方しかできなくなっているのだろう。だから、鳩が豆鉄砲と見せかけて五十口径デザートイーグルを突きつけられたように目を丸くしていた。
 でも、それが彼にとって驚くべきことであっても、僕にとっては当然の事実でしかない。
 僕には縁起さんと争う理由がないのだ。それが限りなくゼロに近い可能性であっても、これ以上誰かが血を流すのは見たくないし、独善的といわれるかもしれないけど、僕自身が他人を傷付けたくなかった。
 恐らく、一度血の味を覚えれば、僕はもう戻れなくなる。
 今になって、僕に剣術を教えたあの爺さんを恨みたくなった。どうして活人剣ではなく、殺人剣を教えたのか。いや、それしか知らなかったのかもしれないけれど、人を殺す剣など、今の僕に一番必要のないものだ。僕が、僕である限り。
「ふ……はは、はーっはっはっは!」
 その狂ったような笑い声は、縁起さんのものだった。
 右手で顔を覆い、声を上げずともクックと声を漏らしながら体を痙攣させる。
 その奇妙とも取れる行動は、おおよそこれまでの縁起さんの印象とはかけ離れたものだった。
「いや、君は実に楽しいことを言ってくれる! なるほど、君らしい考えだよ」
 それは果たして僕に対する皮肉だったのか。
 でも、例えその通りだったとしても構わない。決めたはずだ、最終目標は彼女なのだと。それまで僕がどんな目にあおうとも、僕だけが傷つけられる分には問題なし。
 願わくは、そのとき防衛本能が働かないことを。
「よし、霧橋月愛は君に返そう。君の考えはよく分かったよ」
「え――?」
 望んでいたはずなのに、思ってもいなかった答え。
 驚く僕を他所に、いつの間にか彼の手には誰かの腕が握られている。
 考える必要はない。それは彼女のものに他ならないのだから。
「だが――」
 縁起がその手を振る。意識がないのか、それとも抵抗する力がないのか、成されるがままに彼女の体は宙を舞う。
 何故だろう。その一瞬が、スローモーションのようだった。
 受け止めなければ。刀を放り、足を動かし、手を伸ばす。
「――甘ったるい、子供の独り善がりなんだよ」
 その一瞬の動作が、どうして間に合わなかったのか。
 そう、一瞬。
 僕が認知したのはどちらが先なのだろう。
 降り掛かった彼女の血か。何かに貫かれる彼女の姿か。
 受け止めた彼女の顔は、蒼白。今の傷だけではない。体中には無数の傷跡。おまけに治療中だった傷までが開き、その痛みは想像を絶するものであろうことが予想できた。
「あ……あぁぁぁ……!」
 そのうめき声は僕のものではない。月愛のものだ。生きていて、意識がある。
 彼女が虚空より現れた槍のようなものに貫かれたのは左の肩。即死に至る傷ではないが、軽傷で済むようなものでもない。恐らく、粕谷先生を殺したのと同じ手段。そう感覚が告げた。
 意識がある、ということはその痛みに耐えなければならないということ。
 月愛の顔は苦痛に歪み、呼吸も荒々しい。しかしそれでいて、彼女の放つ殺気は変わらなかった。
「や、なぎ……手を離して……!」
「あ……」
 どうしてそれでも立つのだ。そんな傷で、痛みで。声を聞いてる僕のほうが苦しい。頼む、もうやめてくれ。帰ろう。僕の獲物を奪わないでくれ――
 ふらつく彼女の足は、その体重すら支えることが出来なかった。倒れる体を、僕は反射的に支える。強靭な意志に、体がついていっていないようだった。
精神が肉体を上回るとはよくある言い回しだけれども、あくまでそれは肉体が存在しているときのみ。意識を保っているのが不思議に思えるほどの傷を負った彼女の体は、精神力云々でどうなるものじゃない。
 痛みにあえぐ彼女の顔。しかし月愛の思いはそこだけではない。
動けない。相手に勝てない。そんな自分に対する不甲斐なさを、こんなになってまで感じていた。そんなこと、もうどうだっていいだろう――!
「縁起さん……!」
「そう睨まないでくれ。これでも結構大変なのだよ? 意識を保たせながら、行動力を奪うというのは」
「どうして……彼女さえ無事なら、僕は――」
「君は関係ない。これは霧橋月愛と甲江縁起の問題なのだよ。私は死を選びたくなるような生き地獄を彼女に与え、果てに殺す。それが私の生きる理由だ」
「生きることもまた償いになるはずでしょう! その罪が死で贖えなかったら……それ以上はもう何も出来ないんですよ?」
「生が償いになる? はは、いい加減君の甘い考えは聞き飽きたよ。彼女の死以外、なにが私を満たしてくれるというのだ。十年間、それだけを求めてきた。そしてそれが目の前にあるのだよ? これを逃すということは、これまでの人生を否定するに等しい。そして同時に……姉さんへの侮辱になる。君も同じだろう! 両親の仇が目の前にいるというのに、何故それを守ろうとする!」
 縁起の言葉は恐らく正しくて、確実に間違っている。
 けれどこっちだって、約束したんだ。
 二日前と、十年前に。
「それだけの力を持ちながら、どうも君は考えが幼稚なようだからね。おおかた、安っぽい正義感でも振りかざしているのだろう?」
 僕をあざけ笑う縁起の言葉。それは以前、月愛に言われたのと同じもの。
『安っぽい正義感とか、そんな理由なら二度とこんなことはしないで。足を踏み入れたら、二度と戻れない世界だから』
 ああ、もちろんそんな理由なんかじゃない。第一、僕にそんなご立派なものが備わっているはずがない。
 馬鹿で愚かな僕に出来るのは、自分がやらなければならないことをするだけ。
 大事な人との約束を守ることだけだ。
 ……まったく。これを惚れた弱みって言うんだろうな。
 腕の中の彼女は、弱い。十年という歳月は人を変えるに十分なものだけれども、やっぱり彼女は彼女のままだ。僕が知っている、あの女の子のまま。
 その子が今、死に瀕している。
「図星かい? なら、君は道を選ぶしかない。二つの正義――私と共にその悪を滅するか、その馬鹿な正義を抱いたままその女とともに死ぬか。三つ目の選択肢など私は認めない。美しいままの世界で生きるなど、絶対に認めるものか……!」
「それでも僕は、三つ目の選択肢を選びます」
 戦いは即ち、命のやり取りになるだろう。
 勝敗が決するのは、どちらかの灯が消えたとき。
 でも、誰かが死ねば、必ず誰かが悲しむ。特に、人の中で生きてきてしまった僕たちは。
 僕の手を汚す覚悟はとうにできている。けれど、これ以上誰かを泣かすことなど出来ない。あの二人の少女の涙を、これ以上流すわけにはいかないんだ。
 だから僕は、傷付けないし、傷付けさせない。
 偽善であり、届かぬ理想であることは分かっている。本能に逆らう選択であることも。
 でも、僕は負けられないんだ。誰にも、僕にも。
「だから――」
「もういい」
 冷たい一言。
 同時、縁起の背後から何かが放たれた。それはまるで、一本の矢。しかし早く、大きい。しかも進路は月愛に向かって一直線――
「っ!」
 刀――間に合わない。盾になりそうなもの――一つしかない。
 僕は動けぬ彼女の上に覆いかぶさった。丁度、縁起に背を向ける形で。
 鋭い痛みが、一瞬右肩を襲った。そしてじわじわと、鈍い痛みが広がっていく。
 しかし、いつもだったら気絶するくらい痛いんだろうな、などと思えるほど、僕の感覚はおかしくなっていた。痛みは耐えるものではなく、慣れるものに変わっている。それがどこか可笑しく感じられた。
 しかしそれでも、体に何かが刺さっているのは気持ちのいいもんじゃない。手探りでそれを掴み、力ずくで引っこ抜いた。
 血に濡れたそれの触覚は、明らかに直前で見たものとは異なっている。あまりに細く、小さい。まるで木の枝のようだ。そんなものが人間の体を貫けるはずがない。
 しかし僕は、枝で人を殺せる少女を知っている。
 そしてあの男は、彼女の兄。認めたくないけれど、血の繋がった家族なのだ。
 なら、似たようなことが出来ても不思議はない。
「どうしたんだい? まさか、その程度の傷で動けなくなったわけではないだろう」
 何が可笑しいのか、振り向いた先に立つ縁起は相変わらず笑っている。この時初めて、僕はその笑顔をぶん殴りたくなった。殴って、殴り飛ばして――
殺してやろうか。
「やめろ!」
 僕は思い切り、板張りの床を殴りつけた。骨を伝わる、鈍い痛み。老朽化を始めた校舎の床板は僕の拳に耐えられず、その形どおりの穴を開けている。
 そしてその一言は、誰に向けたものか。無論縁起と、僕自身。
 僕は右手で、落ちていた刀を掴んだ。穴の開いたあたりが火傷しそうに熱い。けれどそんなことを気にしてられる余裕なんてものもあるはずなかった。
「……月愛、ごめん」
 一言謝り、覚醒と気絶の狭間で苦しむ月愛をなるべく丁寧に床に寝かせた。何に対して謝罪したのか、僕自身にもよく分からない。けれど、誤らずにはいられなかった。
 刀を杖代わりに、立ち上がる。そして、僕は真っ直ぐに縁起を見据えた。
 ――終わらせよう。
 その距離はせいぜい五メートルほどだというのに、縁起からは何の情報も流れてこない。それは恐らく、この空間そのものが彼の支配下にあるから。それとも、僕自身の感覚が彼の支配下にあるからか。どの道、シルフィの時のようにはいかない。縁起からは思考どころか――殺気の欠片すらも感じられなかった。
 音もなく、縁起の手が動いた。同時に僕は右方向――窓のほうへと跳躍する。月愛から距離を取ると同時に、逆光を味方にする。効果があるかどうかはわからないが。
 頬を何かが掠める。廃墟となった教室の中にありながら原形を保つ机の上に着地すると同時に、頭上から三本の槍が降り注ぐ。右手の刀を無造作に薙ぎ、それらを叩き落した。確かな手ごたえが、柄を伝ってくる。
 しかし、そんな感覚に浸っている余裕はない。次、正面。ナイフが六本。うち四本は体を捻ってかわし、真正面だった二本は左手で払った。
 それと同時に、後方からも何かが飛んでくる感覚。空気の流れと、空気を切る微かな音。それだけを頼りに、刀を振るった。当たり。何かがぶつかる手ごたえ。
 全方位に向けて五感をフル動員させる。どこに何がある。何がどこに向かって動いている。音は、空気の乱れは。半径たった一メートル。僕の空間に関するあらゆる情報を収集し、処理する。頭がパンクしそうだ。知恵熱なんかも出ているかもしれない。
 けれど、それがなんだ。どうしたって言うんだ。
 三百六十度、三次元的に飛んでくる凶器を全て弾く。弾く。弾く。殺す。弾く。
 一撃一撃が、痛い。頭が割れそうになる。
 金属音に混じって、声が響く。痛い。苦しい。殺せ。殺せ。痛い。苦しい。死んでくれ。殺せ。殺せ。殺せ。死ね。
 聞きたくない。けれど、聞くしかない。だから僕は刀を振るい、足掻き続けた。拒絶し続けた。認めない、そんなこと絶対にするもんか――!
 武器の豪雨の隙を見て、縁起を睨み付ける。そこには相変わらずの笑顔。が、どこか歪んでいる。何かがさっきまでとは違う。まるで、何かに耐えているような。
 段々と、縁起の放つ凶器の雨も大雑把になってきていた。ナイフなどの割と小さな武器を数多く、多方向から放つ攻撃から、大槍や鈍器のような大型のものを力任せに振り回すような、そんな傾向が強まっている。
 恐らく、縁起も疲れているのだろう。彼とて不死の化け物じゃない。体力に限界があるはずだ。けど、それは僕も同じこと。しかもこっちは、はじめから手負いというハンデを背負っている。
 それでも僕は、払い続けた。斬り続けた。
「さすがだね、柳君。まさか、実体のない幻覚相手にここまでやるとは思わなかったよ」
 言葉の間にも、雨は止まない。だから僕は、動き続けるしかなかった。
 正直、ここまで来ると根競べだ。縁起が力尽きるのが先か、僕が負けるのが先か。
 いつの間にか、縁起の手は全く動いていなかった。ただ鈍色のコートに突っ込んだまま、目だけで僕を追っている。道理でやりにくいわけだ。シルフィみたいに物を飛ばしてくるんじゃない。何もないところに何かを生み出す。それができる縁起は、シルフィよりもずっと厄介だ。
「具現化された幻覚……全く、そんなもの相手に防戦を続けるのだから。実に惜しいな、君という存在は。しかし――」
 縁起の顔から、笑みが消えた。代わりに浮かんだのは、あまりに色のない、まるで人形のような無表情。
 こんな時だというのに、背筋が震えた。
「君は敵だ」
「違う! 僕はあなたの敵なんかじゃ……!」
「では何故武器を取った! 何故シルフェリアと戦った! 私は君を殺すつもりで戦っている! なら君も、私を殺す覚悟で来い! 殺されるのが嫌ならば、私を殺せ!」
 ――この人も、自分を殺せと言うのか。
 腕がうずく。脳が灼熱する。
 反対するのは、残った最後の理性だけ。殺してはならない、そんなこと、絶対にしてはいけない。そう心は叫ぶのに、体が言うことを聞かない。
 故に、その幻を斬り続ける。少しずつ増えていく体の傷よりも、心のほうが痛かった。
 刀を振るうたび、それを斬る度に、どうしようもない悲しみが、僕を襲う。
「そんな覚悟もない者が、他人の事情に首を突っ込むな! 私の生き方を否定するな! 臆病なだけの君は、大人しく日常の中に居ればいい!」
「――黙れっ!」
 分かってる。そう出来たらどれだけ幸せだったのか。
 あの普通すぎる日々に。眞吾が絡んできて、甲江さんが隣で控えめに笑っていて、太陽の光があったかくて、優しい空気が流れている、そんな日々。ずっとあそこに居られたら。いや、居られるものだと思い込んでいた。
 けれど僕は、ずっと僕だった。あそこに居た僕も、今ここに居る僕も、やっぱり僕。
 幼き日に、霧橋月愛という少女と出会ってしまっていたのだから。
 だからこれからも、僕はずっと僕であり続ける。僕が僕である限り、なんてことは言わせない。僕は僕の意思で、僕を殺し続けよう。
 手にした業物を、両手で思い切り床に突き立てた。
 そして、縁起を真っ直ぐに見据える。満月のせいだろうか、やけに明るい月明かりは、彼の姿を夜の教室にはっきりと浮かび上がらせている。そしてそれは、相手にとっても同じこと。
 交錯する視線。けれど、絶対に逸らさない。負けたくない。
「僕は、確かに矛盾した臆病者ですよ。殺したい、殺したいって言ってるのに、それをしたら僕が僕じゃなくなるような気がして、それが怖いからずっと抑えてきた。彼女を守るためには、縁起さんを殺すのが一番だというのに。けれどそれだけはやっちゃいけない。僕が僕でなくなれば、約束を守れなくなる。僕が僕でなくなることは怖い。けれど、それと同じくらい約束を守れないことが怖いんです。そして、誰かが傷つけられることも。もう後戻りできないくらい、臆病な僕は罪を重ねてしまった。だから僕は、臆病な僕として、全てを償います。僕が僕であるためにも、僕は喜んで臆病者になる!」
 さぁ、言いたいことは全て言ってしまった。
 言葉にしてしまった以上、これらは全て真実になってしまう。
 ――そのせいだろうか。不思議と頭痛が治まっていくのを感じた。
「……だったら、死んでしまえ」
 それは一瞬だった。僕に反撃の意思はない。防戦それ自体が、彼を傷つけることになる。
 体は反射的に回避を試みる。しかし、避けきれない。
 あるナイフは左目をかすり、ある刀は死にかけの右肩を貫き、ある両刃の大剣は左の太腿の肉を深く抉った。ちょっと、これは痛い。
「どうした。君はそんなあっさりと死んでしまっていいのかい? 死ぬわけにはいかないんじゃないのか? なら、もっと足掻くべきだろう」
「……あなたの心を、傷付けたくありませんから」
 この幻想は、誰が生み出したものか。誰が形作っていたものか。誰の、心の形なのか。
 心を削って作ったものを壊される。それは即ち、創造者の精神の破壊。
 斬る度に感じたあの悲しみは、縁起さんの声だったのだろう――
「気付いたのか」
「はい。それに……もう限界なのでしょう?」
 縁起さんの顔が、ほんの少しだけこわばる。
 あれだけ放ち、あれだけ失ったのだ。肉体的な疲労はともかく、精神的には限界に近いはず。大味な攻撃がその証拠。無意識のうちに、さっさと方をつけたがっていたのだろう。
 けれど、それは僕も同じこと。
 痛覚が麻痺していたのが仇となった。体に穿たれた穴から流れ出した血は、ちょっと多すぎた。頭はぼんやりするし、視界も少々霞み始めている。
「ああ、確かにその通りかもしれない。だが、だからこそ、私は確実に君を仕留める――!」
 来る。空気で感じた。明らかに今までとは違う流れ。縁起さんが右手を掲げる。
 左目はもう役に立たないけれど、僕にはまだ右の目が残されている。その残った目で、僕はしっかりと縁起さんを中心に捉えた。五感はまだ生きている。故にそれは訴え続けた。避けなければ、防がなければ死ぬと。
 けれど、それはどっちも難しそうだ。動こうにも足がもう言うことを聞かないし、防ごうにも右腕は最早ぶら下がってるだけ。
 恐らくそれは、縁起さんの全身全霊を込めた最後の一撃。防がなければ僕は死ぬ。逆に、倒れなければ僕の勝ち。なんだ、簡単な話じゃないか。
 まっすぐ、見据える。僕も縁起さんも、目の前の相手だけを見ていた。
 何の因果か、直交してしまった僕たちの生きる道。共存が不可能ならば、どちらかを屈服させるしかない。けれど、僕はこの道を曲げない。絶対に曲げたくない。
 上がった腕が振り下ろされる。同時、黒く、尖った物体を目が捉える。

 どす。

 音が、聞こえた。痛みはこない。けれど、何かが食道を逆流してくる。堪えきれず、口からぶちまけた。びしゃっ、と黒っぽい液体が床に撒き散らされる。
 意識が遠のく。視界が白に染まっていく。ああ、僕は死ぬのか。そりゃそうだ、腹にぶっとい槍が刺さったんだから――
「――そんな、わけない……!」
 けれど、踏みとどまった。倒れそうになる体を、片足と片手だけで踏ん張る。
 それはもう、気合とか根性とか、そんなレベルのものじゃない。執念、本能。僕の奥底に刻まれた何かと、刺さった槍から伝わってくるどうしようもない感情が、僕を立たせた。
「僕は、僕を貫く――!」
 僕が生きていることは、即ち僕の勝利を意味する。
 けれども。
「あんたを一発殴るまで、終われないんだよ!」
 腹に重いものを抱えたまま、右足で床を蹴った。縁起さんはさっきから全く動いていない。力尽きて死んでいるわけじゃないだろうが、動く気力すら残っていないのだろう。
 その顔面を、僕は思い切り殴りつけた。


 弱々しくもがく月愛を片手で背負い、教室を出た。とうに限界は超えてるけど、家までもってくれればそれでいい。
 廊下には、シルフィの姿があった。壁に背を預け、薄暗い空間で膝を抱えて座っている。
 ちょっと、今は何を言っていいか思いつかなかった。
「……兄貴、どうしてる?」
「え、あ……中で気を失ってる。たぶん、あのくらいじゃ、死んでないと思う」
「そ。結局あんたは、誰一人として殺さなかったってわけか。死んだのが学校の先生一人……なかなかに面白い皮肉だね」
 言って、シルフィは弱々しく笑った。
 僕と彼女がこうやって居る以上、彼女たちは敗者なのだ。
「縁起さんのこと、頼むよ。ちょっと僕は、そこまで面倒見きれそうにないから」
「分かってる。あんたはツキメの事を見てやって。ま、その前にあんたが死んだんじゃどうしようもないけど」
「……うん。実際はそっちのほうが問題かも」
 シルフィにも分かったのだろう。そりゃそうだ、腹に大穴が開いているのだから。
「だから、その……ごめん」
「謝らないの。あたしが謝られたってしょうがないよ。生きて、絶対あの娘に謝りなさい。いい、絶対だよ? ちゃんとチェックしてるからね、あの娘の中から」
 実に真剣な顔で言う。
 それがどこかおかしくて、僕の口元は自然と緩んでいた。
「シル……フェリア……」
 と、背中から今にも消え入りそうな声が。
「おー、ツキメ。派手にやられたねー。ま、おかげで柳の背中独り占めできてるんだから。プラマイゼロってところかな?」
「……そういう問題じゃないと思うんだけど」
「シルフェリア……私……」
「いいよ、もう喋らなくて。あんたは頑張りすぎ。ちょっと休みなよ」
「で…も……!」
 僕の背を掴む月愛の手に、力が込められる。けれど、シルフィの言葉は僕が言いたかったことにほぼ等しい。だから、僕はそれ以上何も言わなかった。
「馬鹿。何のためにタツミが死にかけたのかと思ってんの。他ならぬあんたのためでしょ? タツミが来なけりゃ、あんた死んでたんだよ? だったら、少しくらいタツミの言うこと、聞いてやってもいいじゃん」
「でも、それは……私が、居る意味……」
「あーもう! めんどくさいなぁ。タツミ、後は任せた」
「へ?」
 なんかよく分からないが、任されてしまった。いや、だから僕にどうしろと。
「ほら、急がないと死ぬよ。冗談抜きに」
 そう言って、シルフィは月愛の背中を押した。月愛は僕の背中に負ぶさっているのだから、当然僕もそれに押される。
 ちょっとつんのめって転びそうになりながらも、何とか一歩を踏み出す。
 そう、僕たちは帰らなければ。
 また明日、会うために。
 最後に一度だけ、振り返った。
 背中越しに見えた白黒の少女は、笑顔で手を振っていた。


 部屋に辿り着いたとき、月愛は既に眠っていた。というよりも、それまで起きていたほうが奇跡に近いだろう。縁起さんにやられた傷からはかなり出血してるみたいだし、僕が応急処置した傷のあたりも、血が滲んできている。
 数時間前と同様に、彼女を僕のベッドに横たえる。残りの包帯やら何やらで出来る限り、思いつく限りの応急処置は施したけれど、所詮は素人の仕事だ。後は本業の人に任せるか、月愛の回復力に頼るしかないだろう。
 しかし、その寝顔は意外なほどに穏やかだった。あの時とは異なる印象。静寂ではなく、穏やかだった。
 さて、僕はどうするべきだろう。
 やるべきことをすべて終えたら、いきなり体が重くなった。
 引きずるようにして歩いてきた左足はもう感覚がないし、無意識のうちに動かしていた右腕も既に冷たささえ感じ始めている。血は止まったけど、左目は相変わらず見えないままだし。
「……私は」
 と、不意に月愛が口を開いた。起きたのか。
「私は、どうすればいい? 私は、また貴方を裏切った。なのに、貴方はまだ私を助ける。助けるのに、邪魔をする。私のしてきたことを正しくないと言う。私自身も、あなたの考えを否定できないでいる――ねぇ、私はどうすればいいの?」
 それは半ば、懇願だった。
「……好きなように、すればいいんじゃないかな」
「自由ということ? でも、そんなものどうすればいいのか分からない。もう、十年前の私とは違う。貴方の知っている霧橋月愛はもう居ない。あの日、死んでしまったから」
「死んでないよ。月愛は確かに、ここにいる。そりゃ、見た目は全然違うよ。けれど、なんていうのかな、僕にとっては、同じなんだよ。あの女の子も、今、目の前にいる霧橋月愛も」
「――もし、私の自由にしていいと言うのなら」
 一呼吸。月愛は僕から目を逸らした。けれど、僕は不思議と落ち着いた気分。というか、もう余計なことを考える余裕すらもないのかもしれない。
「私は、ここにいたい。そんな資格が無いのは分かってる。でも、八坂眞吾がいて、甲江飛鳥がいて……隣に柳巽がいる生活は、短かったけれど……つらく、なかった。監視任務は初めてだったから、最初はこんなものなのかと思っていた。けれど、本当は違った。貴方たちがいるから、だから……楽しかったのかもしれない」
 月愛は淡々と語った。そして僕は、それを黙って聞いた。
「そんな感情、私は認めたくなかった。私はいつか、貴方を殺すかもしれない。彼らの笑顔を奪うかもしれない。そうなったとき、そんな感情は邪魔だから。そう思って、今までずっと抑えて、忘れようとしていた。私は罪人だから、人のようであってはならない。そう教わった。けれど、思い出してしまった。貴方と再び会ってしまったから。また――あの頃に戻ったような気になれたから」
 十年。その間に、彼女がどのような生き方をしてきたのかは想像しかねる。
 けれど、あの時同じ境遇にあった僕とは、全く違う方向だったということは分かった。
 そう、だからこそ。僕の言うべきことは決まってる。
「――私は、ここにいてもいい?」
「もちろん。言ったろ、僕は君をずっと支えるって。そのためにも、ずっとここにいてもらわないと困る。それに、あの日約束したよね? また明日って。僕も守るから、月愛も守ってよ」
「……うん。でも、そんなこと覚えていたなんて」
 覚えてたと言うか、思い出したんだけど。まぁ、普通は思い出すこともないのか。十年も前のことだしなぁ。強いて言うなら、つまりはそういうことか。
「そりゃ、好きな女の子との約束くらい覚えてるよ。今でも、月愛のことは好きだけど」
「――っ! そんな感情、向けられても困る……!」
「いいよ、僕が勝手に想ってるだけだから。さ、今は休みなよ。疲れたろ?」
「……そんなこと言われた後に、そう簡単に眠れるわけない」
 頬をちょっと染めながら、ジト目で言ってくる月愛。正直、その姿はものすごく可愛らしかった。うん、全くもって眼福。
「それでも、寝ないと。ほら、じゃないと、傷、が……」
「柳?」
 あれ?
 突然、画面がブラックアウト。
 やべ。
 声が聞こえる。体がゆすられている。
 でも、力が入らない。
 床がものすごい濡れている。もしかして、僕の血?
 後で掃除するのが大変だなぁ。眞吾にでも手伝わせるか。
 眞吾……そういえば、あいつには殴られっぱなしだったな。今度会ったら、どうしてやろうか。とりあえず不意打ちかな。
 次があれば、の話だけど。
 あー。まぁ、いいか。
 あれだけ喋れたんだ。月愛はもう大丈夫。
 ちょっと、僕は寝よう。
 それじゃあ月愛。また明日――






次へ進む

前へ戻る

小説トップへ

TOPへ