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第四章  紅き味覚




◆◆◆


 僕は玄関に立っている。隣のあの子の家に行くと言って、なかなか帰ってこない両親を迎えに行くためだ。
 インターホンを鳴らしても反応はなかった。扉の鍵は、開いていた。
 幼い僕は、躊躇わずに中へと入った。
 家の中は、人の気配がなかった。お父さん、お母さん! 必死に叫ぶけれど、その声は暗い廊下の奥に吸い込まれるだけだった。
 不安と恐怖。幾度なく立ち入った空間であるというのに、今日だけは初めて足を踏み入れる土地のようであった。夢だというのに、その恐怖だけはひしひしと伝わってくる。
 靴を脱ぎ、一歩踏み出す。
 そろり、そろりと足を進め、仄かに漂う異臭に眉をひそめる。
 怖かった。何かがある、けれど何かが分からない。
 そして、僕はその光景を目にした。
 居間へとつながるドアの向こうに広がった、一面の紅。
 叫びも、泣きもしなかった。それが何であるのか、一瞬では理解できなかった。
 フローリングに転がっていたのは、見覚えのある顔たち。父さん、母さん、おじさん、おばさん。顔だけ。体は? 手は、足は? あった。ばらばらになっている。元に戻さなくちゃ。
 自分の股間が冷たくなっているのを感じた。いつの間にか失禁していたらしい。
 お父さん、お母さん。真っ赤な部屋に足を踏み入れ、二人の首に手をかけようとした瞬間。
 部屋の真ん中に、彼女が立っていた。
 虚ろな目。全身に血液による紅いペイントが施され、ままごとをするたびに梳かされた美しい黒髪も、今は赤黒く固まってしまっている。
 そんな彼女を見て、僕は泣いた。彼女の音が、香りが、空気が、姿が。
 なんて、悲しいのだろう。それが手に取るように理解できる。だから僕は泣いた。泣けない彼女の代わりに、僕は泣いた。
 そんな僕に、彼女は無言で、血に塗れた真っ赤な手を振り上げた。

◆◆◆


「……っ!」
 なんて、ひどい夢だ。まさに悪夢。
 強烈な吐き気。そのまま口を押さえ、トイレに直行する。そしてそのまま、あるはずもない胃の中身を戻した。最後のほうは胃液しか出ていなかったけれど。
 僕は、両親の死に様を誰かから聞かされたことはない。物心ついたころには祖父の家で暮らしていたし、両親は居なかった。祖父も祖母も僕には良くしてくれたから、別段寂しさのようなものを感じたこともなかったし、両親が居なければいないで、そんなものなのだと僕は思っていた。つまるところ、僕は父さんと母さんにあまり興味がなかった。居るのが当たり前の時期に、その代わりとなってくれる人がいたのだから。孫の前で毎日のように真剣による素振りを披露し、しかもそれを体の芯まで教え込ませるような祖父が普通の親代わりだったかどうかはすこぶる疑問が残るところだけれども。おかげで僕は、戦国の武士さながらの真剣さばきを体で覚えてしまった。
 と、それは余談だけれども。だけど、あの夢はないだろ。あの、生々しい光景……
 冗談抜きで、気分が悪い。
 それでも、日常は僕の都合などお構いなしに繰り返される。学校へ行かなくてはならない。いつも通り、テレビのスイッチを入れる。もしかしたら、これで少しは気が紛れるかもしれない。
 ふらふらと、今にも転びそうになりながらキッチンに立つ。いつもの朝食、トースト作って、コーヒー淹れて……
 そのときだった。
『次のニュースです。昨晩の深夜二時ごろ、茨城県土田市の雑木林で男性の変死体が発見されました。被害者の男性は同県築波市の高校教諭、山峰幸助さん四十三歳。遺体には鋭い刃物で切りつけられた傷が数十箇所あり、身につけていた金品などもそのままであることから、警察は先日築波市で起こった連続殺人事件と同一犯とみて捜査しています。山峰さんは、昨日行われていた土田市主催の花火競技大会の見回り中に姿を消したという証言があり――』
 僕は耳を疑った。
 この町で起きた、二件の殺人事件はまだ記憶に新しい。どちらも現場は僕のよく知っている場所であったけれど、被害者との面識はなかった。ただ、見知った場所が警察に占拠されている、とか、危ないから気をつけないとな、くらいの感想しか持っていなかった。
 しかし、今回は違う。
 現場は僕が立ち入ったことのない場所だ。でも、僕は昨日どこに居た? 土田市主催の花火大会、その会場だ。下手をすれば、僕たちが祭りを楽しんでいたその時に、ほんの少し離れた場所で人が殺されていたのかもしれない。
 そして、被害者の山峯先生。そんなに印象に残っている教師ではない。僕の担任になったこともないし、授業を受けたことだってほんの数えるほどしかないけれども、前に委員会活動でちょっと話をしたことがある。良くも悪くも、普通の先生だ。だけども、先生はもう居ない。近くにいたはずの人が、もういないのだ。
 ――ダメだ。今ので完全に食欲なくなった。
 もし昼食前に空腹が我慢できなくなったら、そのときは眞吾から何か貰おう。まぁ、この精神状態じゃ空腹感を感じられる余裕すらもなさそうだけど。


 現場がここではないせいか、街中は思ったほど変わった様子があるわけではなかった。
 いつも通りの道を歩き、いつも通りの学び舎が視界に入る。しかし、そこは街中とは異なり、ちょっとした騒動となっていた。
 校門付近を占拠する、大きなカメラや集音マイクなどを携えた集団。テレビの取材班であることは一目瞭然だった。そしてそれを田舎者根性丸出しで囲うお気楽な学生と、そそくさと立ち去ろうとする学生。マイクを向けられたときの反応も、真っ二つに分かれていた。
 馬鹿みたいに喋りまくる奴と、何時自分が被害者になるか分からないという恐怖におびえる者。無論、僕は前者のような真似はしない。これ以上厄介ごとに関わるのは御免だ。
 その一帯を避けて、どうにか校門を抜ける。学校の敷地内にさえ入ってしまえば安心だ。
 後方から、レポーターと思しき女性が張り上げる声が聞こえる。とりあえず授業の邪魔にならない程度にして欲しい。どうせこの事件も、バラエティーみたいに伝えられて、何も関係ない部外者たちの興味が薄れたらそれで終わりなんだろ。無関係なら、無関心でいても問題ないしさ。
 昇降口で上履きに履き替え、沈んだ気分のまま教室へと入る。自分の席へ着くまでに、教室を飛び交う会話がいろいろと聞こえてきたけれども、やっぱり話題はその事件で持ちきりだった。
 腰を下ろして、一息吐く。まだちょっと気持ちが悪い。なんというか、心臓と脳味噌が鷲掴みにされているような。そして尚且つ、胃袋は内容物全てを拒み続けている。これは久しぶりにまずい。
「どうしたの? 顔色が悪い」
 その声に、僕ははっと我に帰った。そして声のした方向、つまり真正面へと顔を上げる。
「風邪でもひいた?」
 霧橋さんのほうから話しかけてくるなんて、珍しいこともあるもんだ。しかも僕の心配ときている。もしかすると明日は大雪と巨大雹のコンボかもしれない。
 しかし今はそんなことよりも、気になることが一つ。文字通り彼女の顔に張り付いていた。
「霧橋さんこそ、その絆創膏とか。どうしたの?」
 その頬にペッたりと張られた、ごく一般的な形状の絆創膏。それに加え、右の手首には包帯が巻かれていた。しかも、額の辺りまでもぐるりと包帯が、かなり適当に巻かれている。どうひいき目に見ても無傷とは言いがたいし、何より昨晩話をしたときはこんなものなかったはずだ。
「……転んだ」
「転んだ、って……それだけじゃそうはならないと思うけど」
「本当に転んだだけだから。気にしないで」
 ホントのところ、もう少し追求したいところだった。しかし、それはできない。彼女の放つオーラが、それを拒んでいた。それくらいは僕も感じ取れる。
 そして、始業を告げるチャイムが僕の鼓膜を震わせた。それにタイミングを合わせたかのように粕谷先生が入ってくる。僕はあわてて席に戻った。
 壇上で諸連絡などを淡々と告げる粕谷先生。その様子は、先日花火大会場で見かけたときよりも幾分か不機嫌そうに思える。
 同僚が亡くなって、暗い雰囲気を漂わせるなら分かる。僕だって誰か友達が死んだりしたら、普段どおりに振舞うことはできないだろう。その友達によっては学校に来ないかもしれない。
 でも、不機嫌っていうのはどういうことだろう?
 なんとなくその理由が気になって、粕谷先生の挙動をじろじろと観察してみる。こんなことしたって、分かる可能性なんて限りなくゼロに近いだろうけど。ならやるなよ、と自分で突っ込んでみたところで、ほかにやることがないのもまた事実。ちょっとした暇潰しにはもってこいってことだ。
 でも、その暇潰しで僕は意外なことを発見した。
 机の上のプリントや出席簿をめくる粕谷先生が、本当にごくわずかだが、左腕をかばうような仕草を見せているのだ。
 一度気づくと、それは僕の目に際立って映る。左側の書類を右手で取ったり、ページをめくるのに右手しか使っていなかったり。まぁ、だからどうしたってくらいの小事だけどさ。
 窓の外に目を移す。天気は良い。昨夜の夜空のまま、月の代わりに太陽が天頂に君臨していた。やっぱり、天気が良いと気分も良くなる。今朝の悪夢をまだちょっと引きずる僕にとって、これは非常にありがたい自然現象だ。
 そして、再びのチャイム。言うべきことは言った、とばかりに粕谷先生は足早に教室から出て行ってしまった。教室もいつもの喧騒に包まれる。みんな廊下に出て行くけれど……一限目って、移動教室だったっけ?
「おい、巽。何やってんだよ、さっさといこーぜ」
「行くって……どこへ?」
 眞吾は、はぁ? とでも言いたげに眉をしかめた。ついこの前、同じような顔を見たような気がする。
「お前、最近頭やばいんじゃねぇのか? 悪いことは言わねーから、病院行ってこい」
「そこまで悪くはない……と思う。ちょっと注意力が散漫なだけだって」
「ふーん。ま、本人がそう言うなら別にいいけどよ」
「うん、じゃあ納得したところで僕の質問に答えてもらおうか」
 既に教室内にほとんど人影はない。騒々しさも、彼方の先にある。眞吾の馬鹿に付き合ったせいだ。まぁ、二割くらいは僕の責任だろうけど。
「ああ、これから体育館で臨時集会だってさ。流石に先生がやられたんじゃねぇ、世間の目ってのもあるだろうしよ。正直俺らからすりゃかったるいだけだけどな」
 実に他人事のように言ってくれる眞吾。まぁ、大半の生徒が同じように感じているだろう。
 しかし、眞吾は知っているのだろうか。昨日僕たちが行動していた場所と、殺人現場の位置関係を。知りながら言っているのだとしたら、こいつも相当な大物だ。
 そんなことを思いつつ、僕はいつものように友人と馬鹿話をしながら体育館へと向かった。


 集会の内容に、特筆すべきようなことはなかった。登下校時には十分気をつけ、一人で出歩かないこと、などというごくごくありふれた、高校生ともなれば言われなくとも自覚するような話。正直な話、眠かった。すごく。
 とりあえずその場は睡眠補給の時間と決定し、そのおかげで後に続いた数学の授業は実に爽快な気分で集中して受けることができた。
 ただ、一つだけ気になったことがある。僕の隣の席、つまり甲江さんの席がずっと主不在の状態だったということだ。今まであまり気にかけなかったから分からなかったけれど、実は結構病弱で休みがちだったりするのだろうか。だったら昨日は悪いことしちゃったな。なんか罪悪感が当社比で三割増になった気分。
 そして放課後。やはり隣の席が埋まることはなくて、HRのために教室に入ってきた粕谷先生が左腕をかばっているのも相変わらずだった。そして、静かながら仄かに殺気を放っている霧橋さん。イラついてるのかな?
 粕谷先生の口から伝えられるのもやっぱり朝の全校集会で言われたことと大差なく、教室中が適当に聞き流しているような空気を感じた。まぁ、僕はいつも聞き流してるけど。
「――以上。用のない奴はさっさと帰るように」
 その言葉を合図に、教室はいつもの活気を取り戻した。よし、僕もさっさと帰るとしますか。殺人鬼にばったり出くわしたりしたら面倒だ。そう簡単に殺されない自信はあるけど。
 鞄を手に、立ち上がろうとしたときだった。
「巽、ちょっと付き合え」
 交際を申し込まれた――じゃなくて、悪友に呼び止められた。
「どこへ? なるべくなら、さっさと帰りたいんだけど」
「月愛ちゃんも連れて、飛鳥ちゃんとこへ見舞いだ。ちなみに拒否権は無い」
「ついこの前、似たような台詞を聞いたような気がするなぁ……」
 まぁ、今回はそれほど理不尽さを感じるような内容ではない。甲江さんのところへお見舞いに行く。彼女と仲の良い眞吾からすれば当然の行動といえる。霧橋さんは――きっと友達だからだろう。というか、霧橋さんが甲江さん以外の女子と一緒にいる姿を見たことがない。
「まぁ、構わないけどさ」
 昨日のことも、謝っておきたいし。
「けどさ、迷惑じゃない? いきなり押しかけたりして」
「俺を誰だと思ってんだよ。天下の八坂眞吾様が、そこまで考えてないとでも?」
「ごめん、派手に忘れてると思ってた」
 眞吾の顔が、苦虫を奥歯ですりつぶしたように歪む。よし、僕の勝ち。


 その建物を、僕はただお上りさんよろしく口を開けて見上げることしかできなかった。
 端から端まで走るのだけで息を切らしてしまいそうな、延々と続く塀。入ろうとする者全てを例外なく威圧する重厚な門。その先に臨むのは、どこかの歴史的建造物の庭を拝借してきたんじゃないかと疑うような、立派な庭園。
 眞吾の案内が正しいのならば、その純和風の家――というより屋敷こそ、甲江さんのご自宅であり、これから僕が足を踏み入ればならない場所である。
「おい、どーした。置いてくぞ」
 と、僕が日本建築の素晴らしさに鳥肌を立てていたところを、眞吾の一声で現実に引き戻された。ていうか、二人ともあっさり門くぐってるし。これじゃ、僕がただの馬鹿じゃないか。
 飛び石の上を本当に飛びながら、二人の背を追って、足に乳酸の蓄積を感じ始めた頃、やっと玄関らしきところに到着した。観音開きの、時代を感じさせる扉。思わず今が平成の世であることを忘れそうになる。しかし、申し訳なさそうに設置されているインターホンだけが唯一、今が科学文明の時代であることを主張していた。
 何のためらいもなく、眞吾はそのボタンを押す。するとたいした待ち時間もなく、扉の向こうから人が現れた。
 ここで出てきたのがバリバリ中世風のメイドさんだったりしたら僕は卒倒していたけれども、もちろんそんなことはなく、迎えてくれたのはごくごく普通のお婆さんだった。いや、見た目の年齢の割に雰囲気はだいぶ若々しい。まだまだ現役なんだろうな、と僕は勝手に想像した。
 眞吾とお婆さんが一言二言交わした後、僕たちはお婆さんに手招きされて、甲江家に足を踏み入れた。
 内装もやはり外見どおり、古きよき日本の家だ。ウグイス張りなんじゃないかと疑いたくなる廊下を歩きながら観察する……って、恥ずかしいな、何やってるんだ、僕は。
 そんな僕の様子を見たか見まいか、抑え気味の笑い声を漏らすお婆さんに連れられて到着したのは、僕の家丸ごとより大きいんじゃないかという和室だった。
 ど真ん中には高級そうな色合いのテーブルが置かれ、床の間には綺麗に生けられた花と、見るからに立派そうな刀が一セット飾ってある。
「少々こちらでお待ちください」
 お婆さんは柔らかな笑みを浮かべながら、襖を閉めた。これで、この部屋に残されたのは僕と眞吾、それに霧橋さんの三人ということなる。眞吾は眞吾で我が家のようにどっかりと座布団に腰を下ろしてお婆さんがいつの間にか淹れてくれたらしいお茶をすすってるし、霧橋さんは霧橋さんで、所在なさげに、かつどこか険しい顔して正座してるし。あ、馬鹿みたいに突っ立てるのは僕だけか。っていっても、どうも落ち着かないんだよな。ここまで広いと。
 それでも、僕の脚部は素直に疲労を訴えてくる。仕方がないので、適当に腰を下ろした。
 座ってはみたものの、やっぱり落ち着かない。なんとなく口にしてみた緑茶は、驚くほど苦かった。よくこんなものをごくごく飲めるな、眞吾は。ああ、ビールで慣れてるからか。
 しばし、沈黙。和風庭園には付き物なししおどしの軽快な音が、耳に届いた。
「ちょいと、便所行ってくるわ」
 不意に、眞吾がそう言って席を立った。そしてそのまま、襖の向こうに消える。なんか慣れてるな。前に来たことあるのか?
 でも、問題はそこじゃない。今僕がどうにかすべきは、この状況。
 つまり、眞吾がいなくなったこの部屋には、僕と彼女しかいないわけで。
 なんとなく、道端に捨てられてしまった子犬のような気分になった。いや、実際にこんな気持ちなのかどうかは分からないけど。
 ふと霧橋さんの方へ視線を向けてみる。
 ……目が合った。思わず視線をそらす。ああ、気まずいというか、むず痒い。
 ここは何か、話をすべきだろうか。といっても、彼女のほうから話しかけてくることなんてまず期待できないし、そうなるとやっぱり先手を打つのは僕の仕事になるのか。
 何かタイムリーな話題。何かあるだろうか。
 今日の朝飯。ダメだな、食べてない。テレビ番組。ダメだ、霧橋さんの部屋にはテレビがない。日本と北朝鮮の国交について。何考えてるんだ、僕は。
 考えること何分くらいだろう。ぐるぐると巡る思考の中で、一つ、ふと共有できそうな話題が浮かんだ。後になって考えてみれば、どうしてこんな話題を選んだのか僕の精神を疑いたくなりそうだけど。
「そういえばさ、なんか大変だよね。その……殺人事件。今日も集会あったしさ。犯人、早く捕まるといいけど。でも、どんな奴なんだろうな。犯人」
「犯人って、つまり、三人を殺した人間のこと?」
 いや、それ以外にどんな犯人があるんだよ。そう言いたくなるところをぎゅっと抑え、僕は至極冷静に彼女の言葉に耳を傾けた。
 彼女の口から放たれた言葉は、色々な意味で僕の期待を裏切ってくれたから。
「そういう意味の犯人なら、知っている」
「え?」
 我が耳を疑うとはまさにこのこと。おそらく、警察ですらまだ掴めていない犯人を、目の前の少女は知っているというのだ。
「ちょっと、それって――」
「おーい、巽ー」
 僕が核心に迫った瞬間。半分ほど開かれた襖の向こうから、間の抜けた呼び声がした。
 ……全く、なんてグッドタイミング。多分、眞吾に向けられる僕の視線は、どす黒い感情に満たされていたことだろう。
「……邪魔だったか?」
「別に。で、何の用?」
「ああ、縁起さんがお前のこと呼んでる」
 そういえば、ここが甲江さんの家であるということは、それ即ち兄である縁起さんの家でもあるのだ。半ば忘れかけてた事実だけど。
 でも、どうして僕なんだろうか?
 まさか、昨日の仕置き? 一晩置くことで相手を油断させ、ほいほいと来たところを一刀両断……
 まさかな。馬鹿な考えに自嘲した。
「分かった。どこに行けばいいの?」
「俺について来い。連れてってやるから」
 重い腰を上げ、僕も部屋の外へと向かう。仕切りである襖に手をかけて、一度霧橋さんのほうを振り返ってみる。じゃ、行ってくるから……と言おうとして、やっぱりやめた。僕の目に映った霧橋さんは、ちょっと不機嫌そうに見えたからだ。気のせいかもしれない、むしろ気のせいであって欲しいけど。
 やはりぎしぎしと鳴る廊下を、眞吾の背を追いながら進む。
 それにしても、広い家だ。歩いて回るだけで一日終わるんじゃなかろうか。かくれんぼとかやったら、物凄いことになるだろうな。鬼に対するいじめにもなりかねない。
 そんなことを考えてから、考えてしまう自分に一縷の悲しさを感じる。しょうがないさ、僕は田舎者で、ごくごく一般的な倹しい暮らしをしてきたのだから。
 ふと、交差した廊下の彼方に、白っぽい影が見えたような気がした。お手伝いさんか何かだろうか。まぁ、そんなことはどうでもいい。
 一番どうにかなって欲しいのは、全感覚を襲うこの違和感。気持ち悪い、とまではいかないものの、何かが変だ。
「なぁ、眞吾。なんかこう……変な感じがしない? 空気が、っていうかさ」
「はぁ? 何言ってんだよ。それよりホラ、ここだ」
 僕の意見を華麗にスルーし、眞吾はその部屋の扉を開けた。瞬間――言葉では表せない。強いて言うならば、太陽の下に長時間放置していた車のドアを開けたときのような感覚だろうか。さっきまで感じていた違和感が、当社比三倍で襲い掛かってきたような、そんな感触。
 そしてその中に、その人は見覚えのある柔らかな笑みをたたえて座っていた。
「やぁ、柳君。悪いね、わざわざ来てもらって」
「いえ……どうかしたんですか?」
「君に、ちょっと話があってね。八坂君、悪いがちょっと席を外してくれるかな」
 それが、眞吾を巻き込みたくないという彼の優しさか、それともただ単に邪魔者を追い払いたかっただけなのか。真意は読めなかった。
 もちろんそんなことは微塵も感じていないであろう眞吾は、二つ返事で部屋を出る。何か僕に言ったようだけど、全く頭に入ってこなかった。
 違和感と、頭痛。それに――
 本能が訴える、悪寒。
 何か、悪い予感がする。さっきまで考えていた鉄拳制裁とか、そんなおふざけじゃない。
 強いていうなれば、本気で命のやり取りになりそうな。
 でも、目の前の縁起さんからは微塵の殺気も感じられない。
「どうしたんだい? 立ったままでは疲れるだろう」
 促され、彼の真向かいに腰を下ろす。間には極普通のテーブル。距離にして、ほんの二、三メートルといったところだろう。
 その気になれば、一瞬で決着を付けられる距離。
 ……って、何を考えてるんだ、僕は。どこに縁起さんと争う必要があるっていうんだ。縁起さんは甲江さんのお兄さんだぞ? 少なくとも、命を奪うとか物騒なことを言っていた人より信頼できる存在――味方じゃないか。
 でも、僕は彼女を信頼していないわけじゃない。そうでなければ彼女と二人きりになることなんてできないし、もちろん、あんな思い出すのも恥ずかしいような台詞を吐くはずもない。
 ――結局僕は、彼女のことをどう思っているんだ?
「さて、単刀直入に聞こう。君は、自分のことについてどれくらい理解しているんだい?」
「え?」
 自分についての理解? どういう意味だ、それは。まさか、霧橋さんに対する感情とか? いやいや、そんな読心術みたいなこと。まぁ、普通に考えて――
「……僕のことは、僕が一番よく知っています。どれくらいか、と言われてもはっきりとした答えは出ませんけど、大抵のことは分かっていると思います」
「ああ、それは概ね正しい。だが――」
 縁起さんは立ち上がり、ごく自然に、本当に綺麗な流れで。
 僕の眼鏡を奪った。
 抗うこともできない。まるで、誰かに後ろから羽交い絞めにされているかのように、僕の体は動いてくれなかった。
「一体どのようなものなのだろうね、君の能力は」
 眼鏡を取る。それは即ち、五感の全てを解放するということ。
 多少広いとはいえ、このような密室であれば大したことはない。ちょっと頭が痛くなるか、調子がよければ何も影響はない。ただ、いつもよりも見え、聞こえ、触れ。それだけのはずだった。我慢して、押さえつければどうってことない。
 では、今僕が襲われているこの痛みは何だ。割れる、痛い、助けてくれ――!
 そして、脳裏を掠めるあの光景。
 真っ赤な部屋、父さんと母さんの首、悲しい彼女、振り上げられた手。止めてくれ。どうしてこんなものを見せるんだ。頼むから、こんな辛い思いをさせないでくれ。もう、見たくないんだよ。
『見たくないのなら、消してしまえ』
 誰かが言う。
『目の前にあるものを消してしまえ。破壊してしまえ。殺してしまえ』
 そうすれば、見なくてすむのか? 辛くならないのか?
『全てを俺に任せれば、お前は儚いユメを見続けることができる』
 ああ、それもいいかもな……
『ならば、俺がお前を――』
 その瞬間、不意に肩に置かれた何かの感覚で、僕は現実に引き戻された。顔を上げると、片膝を突いて、僕の肩に手を置く縁起さんの姿が目に映る。いつの間にか、頭を抱えてうずくまっていたらしい。
「素晴らしいよ、柳巽君。これほどとは思わなかった。全く、君のような逸材を亡き者にしようとは。やはり連中の考えていることは分からないね」
 意識がはっきりすると同時に、あの頭痛も消えていた。
「ああ、悪かったね。ずいぶんと苦しい思いをさせてしまったようだ。しかし、これは君のためでもあるんだ。許して欲しい」
 そういって縁起さんは、手にしていた僕の眼鏡を差し出してきた。半ば反射的にそれを奪い取り、装着する。ああ、やっと落ち着いた。まだ微妙に変な感じがするけど。
 縁起さんの、黒く深い眼が、僕を覗き込んでいた。
「このレベルの感覚強化は私も見たことがない。彼以上だ。本当に素晴らしい」
「……あなたは、何を言ってるんですか」
「君自身のことさ。霧橋月愛、シルフェリア・ヴァルド、そして私、甲江縁起……分からないかい? 我々が持つ、異端の力。あるべきながら、あってはならない力。私たちも、君と同じなのさ」
 僕は、何も言えなかった。
 しかし、僕は知っている。
 あの日、霧橋さんが見せたもの。
襲い掛かる不良、指を走らせる彼女。そして、噴き出す血液。
「唐突にこんな話をして、悪いとは思っている。しかし、時間がないんだ。既に駒は動き出した。事を万全に済ませるためには、イレギュラーたる君の存在をどうにかする必要がある。そして、あの組織の娘を潰せば、君は自由だ」
 その言葉を聞き逃すことはできなかった。
「霧橋さんを、潰す? どうしてそんなことを――」
「君は、あの組織と呼ばれる連中が何をしているのか、知らないのかい?」
 そう言われると、答えることはできない。
 霧橋さん一人の行動を見ただけで、彼女の所属する組織全体の行動理念が分かるほど僕の頭は切れていない。
 僕は無言で、首を横に振った。
「そうか。まぁ、それを知っていたらあの娘と共にいることなど不可能だろうね」
「教えてください。僕は、知っておきたいんです。いや、知らなければならないと思います」
「……霧橋月愛のような子飼いの異能を用いて、我々のように一般人として生きている異能の命を奪う。それが連中のやり方だ。いや、連中といっても――一人を除いて、ほぼ全員が彼女のような現場担当らしい。たった一つの頂点。それ中心に彼らは動いている。……まぁ、そんなことはどうでもいい。ともかく、私たちはただ生きているだけなのに。生きるだけで罪を背負うとでも言いたいのかね? それに、君も分かっているだろう? 霧橋月愛を見て、彼女が異能を殺めるためだけの機械だということを」
「そんなことはありません!」
 思わず、立ち上がって叫んでしまった。
 しまった。言ってから悔やむ。突然の反論に、向かいの縁起さんも驚きを含んだ目で僕を見ている。
 でも、それだけは聞き捨てならなかった。
「……すいません」
「いや、私も言い方が悪かったかな。取りようによっては、彼女たちもまた、被害者なのだからね。でも、とびっきり性質が悪い」
「――だけど、僕はまだ生きています。あなたが言うように、その、僕たちみたいな妙な力を持った人間を殺すのが仕事だというのなら、僕はとっくに死んでいるはずですよ」
「これは、私の推測だけどね」
 縁起さんは一呼吸置いたあと、再びその双眸で僕を覗き込んで、続けた。
「彼らは、君を同胞として迎え入れようとしているのかもしれない。彼女を受け入れるということは、それを承諾するのに等しい。そして君がその道を選んだときは――私は彼女だけでなく、君も殺さねばならなくなる」
 その時初めて、僕は縁起さんが放つ殺気というものを感じた。
 そしてこれは恐らく、最後通告。
 この人は、本気だ。
「あなたは――縁起さんは、その組織とやらに何か恨みでもあるんですか?」
 声を絞り出し、尋ねた。
 そして彼は、今までどおりの穏やかな笑みで、答えた。
「恨みではない。ただ、憎いだけさ」


 眞吾と霧橋さんが待っているはずの部屋に、半ば迷いながらなんとか戻ると、そこには部屋着姿で談笑する甲江さんの姿が加わっていた。
「お、やっと戻ってきたか」
「ああ……甲江さん、お邪魔してます」
「え、あ、や、柳くん?」
 彼女からすると真後ろから現れたことになる僕と、横に座る眞吾の顔を交互に見て、面白いほどの動揺を見せる甲江さん。全く持っていつも通りな彼女を見て、僕も少し安心する。
 ――相変わらず、気分は重いままだけど。
「ど、どうしてここに柳くんがいるの? き、聞いてないよ……」
「あー、悪い悪い。言うの忘れてた」
 はっはっはと、思わず拳を叩きつけたくなるような笑い方をする眞吾を横目に、僕は心なしか穏やかな顔をしている霧橋さんの横に腰を下ろした。でも、僕の考えが顔に出ていたのだろうか。僕を見た途端、彼女の表情は普段のような――いや、普段よりも幾分厳しいものとなった。
 そんな彼女から、僕は目をそらしてしまった。
「甲江さん、もう大丈夫なの? こんなところに出てきちゃって」
「ふぇっ、あの、その……」
「朝調子が良くなかったから、大事をとって休んだだけなんだと。な?」
「う、うん。今はもう調子良いから……明日は、またいつも通り学校行けると思う」
「そっか、それは良かった」
 こんな状況の下で、それはとても些細なことだけど、数少ない朗報だった。思わず頬も緩む。
「あの……どうかしたの? 元気、ないように見えるけど……」
「え?」
 まずい、また顔に出てたか。まぁ僕自身も、こんな心境で心から笑えるとは思ってなかったけど。それでも、見舞いに来た方が病人に心配されるようじゃシャレにならない。
 だからここは、無理をしてでも、虚勢を張ってでも、普段どおりに振舞おう。
「大丈夫、なんでもないよ。そりゃ、眞吾みたいなのが元気なかったらすぐに救急車呼ぶべきだろうけどさ。僕だってたまには暗い顔するって」
「おい、人を年中脳味噌馬鹿っ晴れみたいに言ってんじゃねぇよ」
「あれ、その通りじゃないの?」
「ほざけ、この先天性毒舌症候群が」
「単細胞よりはマシだと思うよ」
「あの、二人ともそんな喧嘩しないで……」
「だ、そうだ。どうする、ここは一時休戦か? 続きは明日ってことで」
「いいよ。ただし、僕に時間を与えたことを後悔しないようにね」
「は、言ってろ」
 ほら、これでいつも通り。そう客観的には見えるはずだ。眞吾には感謝しないと。
 その眞吾は、甲江さんから隠すように、こっそりと親指を立てて見せていた。全く、やっぱり分かってたか。流石、とでも言っておいたほうがいいのかな。
いつもだったらただの日常茶飯事でしかないこの行為も、今はとてもありがたかった。
 心落ち着けたのは、僕も同じだったから。


 翌朝。僕は霧橋さんの部屋の前に立った。
 待ち伏せといえば待ち伏せ。彼女に、どうしても聞いておかなければならないことがある。
 そのために、いつもより早く準備して、いつもより早く家を出て、彼女がこの扉の向こうから出てくるのを待っている。といっても、昨晩はほとんど眠れなかったんだけど。
 そして、彼女が姿を現した。
 僕を確認すると同時に、ほんの少しだけその顔に驚きの色が浮かぶ。けれど、それはまたすぐに消えてしまった。
「おはよう。ちょっと、話があるんだけどさ。一緒に学校行ってもいいかな」
 もしかして、こうなることが分かっていたのだろうか。
 霧橋さんは、無言を持って僕の提案を肯定した。


 僕は、自分の意気地なさに自己嫌悪を覚えかけていた。
 言わなくては。彼女に、聞かなきゃいけないんだ。そう思い続けているのに、肝心の一言を放つことができない。
 そしてまた、彼女も無言だった。これはいつも通りといえばいつも通りだけど、今だけは何か話していてほしかった。そうすれば、勢いに任せて言うこともできるだろうに。
 ……なら、仕方ない。勢いは自分で作るしか。
「あ、あのさ」
「何?」
「今日も、いい天気だよね」
「そうね。確かにいい天気」
 ああ、何を言ってるんだ僕は。しかも、霧橋さんも真面目に答えてくれちゃって。
「それで? 言いたいのはそんなことではないでしょう?」
 ――瞬間、息を呑んだ。
 一転して鋭い眼光を浴びせかけてきた彼女から感じられるのは、仄かな殺気。
 背筋に冷たい線が走る。
 しかし逆に、それが僕の口を軽くした。
「――霧橋さんは、まだ僕を殺すつもりなのか?」
 決定的な一言とも取れる言葉。
 しかし、この質問は必要不可欠だった。
 僕が、彼女を信じるために。
 僕が、僕として彼女との約束を果たすために。
 この季節には珍しい、冷たい風が僕たちに吹きつけた。
 少々の間を空け、霧橋さんは口を開いた。
「今のところ、その予定はない。けれど、可能性がゼロなわけでもないことは覚えておいて」
「そうは言っても、やっぱり僕みたいに普通の人間とは違う人たちを殺すのが仕事で、今までも……沢山の人を殺してきたんだろ。なら、どうして僕は生かされてるんだよ」
 縁起さんの言葉が正しいのならば、僕が生かされている理由はただ一つ。
 僕にも、人殺しをさせるため。
 彼女と共にいるために、僕がその道を選ばなければならない時が来るかもしれない。けれど今は、そんなこと真っ平ごめんだった。これは胸を張って宣言できる。
 霧橋さんの口が、ちょっと開かれては閉じ、開かれては閉じを繰り返していた。どこか、言葉を捜しているかのように。
「……貴方よりも、優先順位の高いモノができたから。貴方のことは、それが片付いてからになる。それが、あの人からの命令」
 意外な答えだった――いや、待て。そうでもない。
 どうしてその可能性に気がつかなかったんだろう。
 霧橋さんが狙うのは異能のヒト。
 そして、昨日僕に真実の一部を教授してくれた縁起さんも、僕と同じ異能のヒト。
 この二つの条件から導き出される解は。
 霧橋さんが、縁起さんを狙っている可能性――
「まさかその優先順位の高いモノって――」
「悪いけれど、部外者である貴方にこれ以上教えるわけにはいかない。それに貴方なら、それを知るや否や私の邪魔をするでしょう?」
「それは、そうだけど……」
 反論できなかった。けれども、その言葉は半ば肯定のようなもの。
 僕にはそれを止められる自信があるし、二人が殺しあうなんて場面は見たくもない。そして何よりも、彼女にこれ以上そんなことはして欲しくなかった。
 でも、二人が殺しあうのを事前に止められなかったら。
 僕は、どちらの味方をするのだろう――?
「……貴方には、もうこれ以上関わって欲しくない。私は貴方を、殺したくないから」
 白い頬を微かに紅く染めながら、しかし彼女ははっきりと言った。
「個人の感情で動かせるほど、あの人の命令は軽くないけれど」
「うん。僕も、それはちょっと保障できないな」
 関わるなといわれたのなら、努力はするさ。ホントは僕だって、そんなことは知らずに今まで通りに生きていきたかったんだ。
 けれど、その平和に彼女という侵入者が来てしまった。
 そしてそれを許容してしまった僕に残された選択肢は、もう少ない。
 瞳が何故? と問いかけてきている彼女に、僕は答えた。
「霧橋さんと約束しただろ。僕は、君を支える。だから、知ることが必要となったときには――僕は迷わず、足を踏み入れる。その資格は、僕にもあるんだろ?」
「……こういうのが、大馬鹿者っていうの? 本当に、馬鹿」
「そうだね、僕もなんでこんなこと言ってるんだろ。うわ、恥ずかしいな」
 けれどこれは、本心だ。
 すみません、縁起さん。僕はいざというとき、貴方の味方にはなれないかもしれない。
「でも、これだけは言っておくよ」
 だからせめて、これだけは彼女に伝えておこう。
「相手がどんな奴でも、殺すのはやっぱりダメだよ」
 昨日の縁起さんを思い出す。心の奥底から湧き出る、深い憎悪と悲しみ。
「その連鎖は、止まらないだろうから」
「……分かってる。私も、それに縛られているから」


 その後の僕たちは、互いにそのような話題には触れず、ごく普通の高校生のように学校へと向かった。いつも通り霧橋さんはほとんど笑わなかったけれども、時より見せる微笑が僕にはなぜか嬉しかった。
 そして教室に入り、クラスメイトに適当な挨拶を投げかける。霧橋さんも、やっぱり普段通りに自分の席へと無言で向かっていった。
 窓際には、眞吾の姿があった。そして、僕の隣の席――甲江さんの机の上には、彼女のものと思しき鞄が置かれている。けれど、本人の姿はなかった。眞吾がいるなら一緒にいそうなものだけど。
「よ、眞吾。おはよう」
「……おう、やっとお出ましか。てめぇ、ちょっと面貸せ」
「え?」
 そこで見た親友の顔を、僕は二度と忘れることはないだろう。
 鬼気迫るというよりも、鬼そのもののような形相。そう僕に感じさせるほどの感情を、眞吾は露にしていた。
 もちろん僕がそれに逆らえるわけがない。ただでさえ眞吾の怒りの理由が分からないのだ。しかも朝っぱらから。僕が何かしたとも思えない。
 それでもやっぱり僕に非があるのかと、無言で前を行く眞吾の背中を眺めながら思い出そうとしたけれど、それは徒労に終わる。どこまで掘り下げても、身に覚えはない。
 靴を履き替え、昇降口から出て行こうとする眞吾にどこまで行くのかと問おうとした。しかし、それもできなかった。
 あんな目をした眞吾を見たことなかったし、止められるとも思えなかったからだ。
 仕方なく僕も愛用のスニーカーに履き替え、外へと出る。
 そうして僕が連れてこられたのは、人気のない校舎と校舎の間――通称、中庭だった。
「おい、どうしたんだよ。こんなとこに連れてきて――」
 言おうとして、その言葉は遮られた。
 伸ばされた眞吾の手は僕の胸倉を掴み、勢いそのままに僕の体をコンクリートの壁に押し付けた。背中に衝撃が走る。
 僕の目に映る眞吾の顔は、あふれ出ようとする怒りを必死に押し殺していた。
「お前、知っててやってるのか。あの娘の気持ち、分かってるのかよ……!」
「な、何のことだよ。離せって、冗談にしては度が過ぎる――」
「飛鳥ちゃんは、お前のせいで泣いてたんだぞ! 今朝、お前たちが一緒にいるのを見て。それで……!」
 今朝……霧橋さんと一緒に学校に来たことか?
「そんなこと僕に言われたって……どうしてそれで甲江さんが泣くんだ。理由が分からないんじゃ、どうしようもないだろ」
 吐き捨てたその言葉に、眞吾の顔から一瞬、表情が消えた。そして、僕を掴む手も緩む。
 眞吾が何を思ってこんなことをしているのかは分からないし、本当に、どこに僕の責任があるのかも理解できない。
 全く、こっちは他人の事情にこれ以上顔を突っ込む余裕はないのに……
「巽、歯ァ食いしばれ」
「へ?」
 無論、突然そう言われたところでできるわけがない。
 問答無用で叩き込まれた眞吾の拳。僕の左頬を捉えたそれは、明らかに本気の痛みだった。思わずよろける。
「な、なにするんだよ!」
「……約束は、コンクリ詰めで霞ヶ浦だったんだけどな。今のお前はそんなことする必要もねぇよ。さっさとどっか行っちまえ。そんで、二度と俺のダチを名乗るな」
 先ほどからの怒りとは打って変わって、その言葉はどこか寂しさを孕んでいた。
 そしてそれは、決別を表していたのだろうか。
 こうして眞吾に殴られたのは三度目だ。
 一回目は、理由も覚えていないような喧嘩で。二回目は、僕が喧嘩の仲裁に入って。
 どちらの一撃も、むしろ僕たちの友情を深めるようなものだった。
 けれど、今回は違う。
 向けられた背中が、それを物語っていた。
「何なんだよ。おかしいのは、お前のほうだろ……!」
 やり場のない苛立ちを、僕は冷たいコンクリートの壁にぶつけた。


 殴られた頬の痛みを気にしながら、放課後を迎えた。
 あの後、甲江さんと同様に眞吾も教室に戻ることはなかった。一方的に喧嘩を売られたとはいえ、心配じゃないといえば嘘になる。
 と、騒がしい教室に粕谷先生が現れ、HRが始まった。皆自分の席に戻り、とりあえずの沈黙を保つ。そんな作り物の静寂の中、先生は淡々と連絡事項を告げていく。
「――以上だ。最後に、霧橋。用があるから、HRが終わったら職員室まで来てくれ」
「……はい」
「よし、ではこれで終わる。気をつけて帰るように」
 そして沈黙が砕ける。僕も彼女の元へと歩み寄った。
「呼び出しだね。何か悪いことでもした?」
 わざとおどけたような口調で言う。今の自分のテンションを上げたかった。
 これに合わせて返事をしてくれれば理想なのだけれども、相手が霧橋さんではとてもじゃないけどそんなこと期待できない。せめて普段通りに反応してくれれば良かったのだけれども。
 返ってきた声は、いつも以上に冷たく、鋭いものだった。
「たぶん、これで決着がつくと思う」
「――決着?」
「いえ、なんでもない」
 僕は首を傾げざるを得なかった。どうして職員室に行くことが決着に繋がるんだ? そもそも、誰と、何の決着をつけるのだろう?
 それを問う前に、霧橋さんは教室を出ようとしていた。呼び止めようと、一歩踏み出した時。
「柳くーん。悪いんだけど、このゴミ捨ててきてくれない?」
 僕が呼び止められた。声の主であるその女子は、脇に大きなゴミ袋を抱えている。見るからに重そうだった。
「どうして僕なのさ。他に当番の奴いないの?」
「いないから頼んでるの。ね、お願い!」
「しょうがないなぁ……」
「ありがと! じゃ、そういうことでよろしくね」
 そういって、彼女は自分の持ち場へ戻っていった。全く、元気なものだ。その元気をちょっと分けて欲しいと思うくらい。
 目の前にどっかりと置かれたゴミ袋を前に、僕は軽くため息を吐いた。


「……これでよし、と」
 校舎裏のゴミ捨て場に袋を放り込んで、僕の任務は完了した。これもう僕は自由、さっさと帰って、気合入れてゴロゴロしよう。
 ……それにしても、今日の眞吾の行動は、一体どういうことだったのだろうか。一日ぼんやりと考えてみたけれど、答えはまだ出ていなかった。
 そして、姿を見せなかった甲江さん。眞吾の言葉の中にもあった。
 甲江さんは、僕のせいで泣いている。
 それは何故? あの祭りの日、僕が彼女を見失ってしまったからだろうか。いや、それはない。だったら昨日の時点であんな顔は見せてくれないはずだ。
 そうすると、なおのこと意味が分からない。
 ……全く、自分の無知にあきれる。
 縁起さんや霧橋さんのせいで、隣にあるはずなのに知らなかった世界を知る羽目になったというのに。
 今までいたはずの世界のことすら、理解できないなんて。
 ホント、悪いのは全部僕なんじゃないかと本気で思いたくなってくる。
「……とりあえず今は、帰ろう」
 一度教室に戻って、鞄を取ってこないと。外履きに履き替えてしまった今、教室へ戻るにはもう一度靴を履き替えねばならない。
 下駄箱のある昇降口へと向かいながらも、僕はずっと考えていた。
 何が、どうなっているのか。
 何が、どう動こうとしているのか。
「ん……?」
 その時、僕は妙な臭いを感じ取った。どこか、頭痛を引き起こすような不快な臭い。
 ……鉄だ。鉄臭い。
 けれど何故だろう。気分が悪いはずなのに、その臭いに惹かれる。
 僕はふらふらと、夢遊病者のようにその臭いをたどって歩いた。
 そして、今朝眞吾と一悶着やった、中庭に来た瞬間。
 目の前を黒い影が横切ったと思った瞬間、生暖かい液体が僕の頬に飛び散った。そしてそれは、ぽかんと間抜けに開けられた口の中にも飛び込む。
 ――血だ。
 鉄臭く、紅い味。その味に、僕はどこか安心感を覚える。何故だろう?
 そして黒い影が、僕の目の前で実態を現した。
「霧橋、さん……?」
 流れるような黒髪と、学校指定の制服。見覚えのあるその後姿に、僕は思わず呟いた。
 さっき僕が浴びた血は、彼女のものだろうか。右肩を左手で押さえているが、かなり出血している様子がその上からでも見て取れる。
 肩で息をしながら、あくまで目の前にいるものを睨み付ける彼女は、まだ僕の存在に気付いていなかった。まぁ、それはいい。
 僕は、彼女と同じ方向に視線を向けた。
 身に纏うは、紅い水玉模様のワイシャツに、黒のスラックス。先ほど見たのと同じ格好だ。そして、中年と青年の狭間のような、これといって特徴のない顔に凶悪な笑みを浮かべて立つそれは――
 僕たちの担任であるはずの、粕谷先生その人だった。
 その右手に握られているのは、ごく普通のナイフ。しかし、紅い血を吸ったそれは凶器としての本能を取り戻したかのように、刃を怪しく輝かせている。
 恐らくは、彼女の血を吸ったがために。
 僕が言葉をかける間もなく、二人は再び斬り合った。舞う、血飛沫。
 それは霧橋さんが流したもので――彼女は、僕に背を向ける形で片膝を突いた。
「さて……そろそろ止まってもらおうか」
 その言葉にも、彼女は無言で相手を睨み付けるだけだった。
 目の前に突如として現れた殺し合いに、僕の足は動かない。しかし、頭のどこかで、誰かが言っている。
 動けと。俺もあの輪に混ざろうと。あそここそが、俺が本当に居るべき場所なのだと。
 粕谷先生がナイフを構える。動けないらしい彼女に、止めをさすつもりだろうか。
 ……死ぬ? 彼女が、こんなところで。
 僕は眼鏡を外した。同時に、足の鎖も解ける。
 十メートルほどの距離を、五歩で詰める。そして跳躍、振り上げられた粕谷の右手を、僕は蹴り飛ばした。ナイフが地面に転がる。
 勢いそのままに粕谷の後方へ着地。振り返ると、そこには驚く二人の顔があった。
 頭を切られたのだろうか。霧橋さんの顔は、右半分ほどが血で汚れていた。
「邪魔をするな!」
 粕谷が腰からもう一本、ナイフを抜く。
 ……まっすぐ突っ込み、右から斬りつけ、握りなおして左から突くつもりか。
 なぜか僕には、それが分かった。いや、それが聞こえていた。
 まるでスローモーションのような粕谷の動き。右から来たナイフを体を反らして避け、左から来る前に、その腕を蹴りつける。
 その後も次々と繰り出される攻撃を――僕はまさに、赤子の手を捻るような感覚で避け、無効化していった。そのたびに、焦りと苛立ちから歪んでいく粕谷の顔が、これ以上ないくらいに滑稽で仕方がなかった。実際に僕は、嗤っていたかもしれない。
 そんな一方的な攻防が、数分続いた。
 ……もうそろそろ、いいだろ。流石に、飽きた。
 真っ直ぐに突き出された腕を受け流すように避ける。そして逆にその腕を取って、そのまま粕谷を投げ伏せた。
 僕の手の中には、奴の持っていたナイフ。敵に馬乗りになったこの状況。
 勝者は、明らかだった。
 粕谷の目が、恐怖に見開かれる。僕にとって、その恐怖は優越感を覚えさせるものでしかない。そして、このナイフを突き立てて、全てが完成する――
「やめて!」
 瞬間、目が覚めた。
 僕は今、何をしようとしていた? この血に濡れた刃物で、何を?
 粕谷先生の上から、今にも泣きそうな表情で僕を見ている霧橋さんの許へと飛ぶ。
 立ち上がり、逆上して襲い掛かろうとする粕谷先生の足元へとナイフを投げる。地面に突き刺さったそれは、僕の目的通り彼の足を止めた。
 その一瞬があればいい。僕は、動けずにいる彼女を抱きかかえて、その場を離れた。


 僕が逃げ込んだのは、今の時間はほとんど人がいない保健室だった。恐らく粕谷先生の目には僕らが学校の外へ逃げたように映っているだろうから、ここなら少々の時間は稼げるはずだ。誰も無関係の人が入ってこないよう、念のために鍵もかけておいたし。
 重傷の霧橋さんをベッドに寝かせ、そこにあった消毒液やら包帯やらで応急処置を施す。やり方なんてほとんど直感だ。でも、やらないよりはマシだろ。
 傷は、深いのが右肩と左足。ざっくりと裂けており、ちょっと僕の力じゃどうしようもない。だから病院へ行こう、と提案するもそれは即答で却下された。しばらく食い下がっても、やっぱりダメなものはダメ。まぁ、流石にこの傷は「転んだ」じゃすまないだろうし。
 頭の傷はそうでもなかった。血も止まってたし、とりあえず包帯だけ巻いておいた。
 途中、どうしても服を脱がさざるを得なくなって……霧橋さんに許可を求めるも、無視されてしまい、でもやっぱり脱がさないとダメだし、やましい気持ちはカケラもないと心の中で主張しながらどうにか乗り切った。
 霧橋さんの表情は、曇りっぱなしだった。そして僕も、激しい自己嫌悪に襲われている。
 あの時、霧橋さんが止めなければ――僕は確実に、粕谷先生の胸にナイフを突き立てていただろう。迷うことなく。
 意識も記憶もあるのに、まるで別人が体を動かしているような感覚だった。あれは僕じゃない。そう思えれば、どれだけ楽だろうか。でも、あれは僕に他ならない。
「……どうして邪魔をしたの」
 冷たい声だった。
「安っぽい正義感とか、そんな理由なら二度とこんなことはしないで。足を踏み入れたら、二度と戻れない世界だから。これ以上、私を迷わせないで。これ以上、私を悲しませないで――」
 その言葉を残し、彼女は眠りに落ちた。
 この言葉も眞吾のものと同じ、拒絶なのだろうか。
 全く、今日はなんて日だ。厄日にも程がある。
 親友だと思ってた奴には殴られて、女の子には振られて。
 暗然とした気持ちで、僕は霧橋さんの看護を続けた。


 日が落ち、完全に人の気配が消えたのを見計らって僕は学校を出た。もちろん、霧橋さんを抱えて。それまで、保健室に全く人が来なかったのは嬉しい誤算と言えるだろう。
 行く先は僕の家だ。学校よりも多分安全で、一通りの救急用具もそろっている。
 細心の注意を払いながら、道を歩く。時間と殺人事件のせいだろう、人影は皆無と言っていい。ほんの少しだけ、本当に不謹慎だけど、事件に感謝した。
 そうして誰にも見つかることなく無事に家へと辿り着いた僕は、まず霧橋さんを僕のベッドに寝かせた。学校を出てから今まで、全く目を覚ます気配がない。やっぱりこの傷じゃ、動くどころか意識を保つことすら辛いのかもしれない。
 そして僕も、看護用具を一式用意して、着の身着のままベッドの横に腰を下ろした。
 目の前の彼女の寝顔は、安らかというよりも、静寂そのものだった。
 見た目だけでは、とても彼女があんな殺し合いをするような人間とは思えない。むしろ、どこにでもいそうな少女のような印象だ。
 いや、あんなところにいるほうがおかしいのだろう。
 僕や、眞吾や、甲江さんのように。この平和な日常こそが、彼女の本当にいるべき場所だ。
『安っぽい正義感とか、そんな理由なら二度とこんなことはしないで。足を踏み入れたら、二度と戻れない世界だから』
 保健室での、彼女の言葉が蘇る。
 この言葉は、縁起さんの推測――彼女を含む、組織とやらが僕を引き込もうとしている、ということと矛盾している。これはどういうことなのだろう。
 組織とやらは、損得勘定考えずに、僕を生かそうとしている?
 いや、例えそうだとしても。組織とやらのやっていることを許容することもできない。
 けれど、組織とやらに刃向かうということは、即ち彼女も裏切ることで――
 難しい。
 そんな無限ループを繰り返しているうちに、僕の意識は薄れていった。

◆◆◆


 目の前には、彼女と、僕がいた。
『もう、後戻りはできない』
 僕が言った。
『お前と俺は、異にして同。そしてお前は、同であることを望んだ。俺もそれに応えた』
 ああ、そうか。これはいつもの性質の悪いユメ――
『お前はユメを見ることを棄てた。ユメではなく、形ある世界を選んだ』
 ああそうだ。僕はユメではなく、彼女といる世界を選んだ。
『ただユメを見ていれば良かったものを。それは一番辛い選択を強いるかもしれないぜ――』
 構わないさ。それが、僕の約束だから――

◆◆◆


 ……不覚。僕も寝込んでしまっていた。
 霧橋さんがまだ眠っているのを確認し、枕もとの目覚まし時計を見ると、午前一時。深夜もいいところだ。
 それにしても、また奇妙な夢だった。
 この前見た、あの夢ほどではないけれど――あまり気分のいいものじゃない。
 どこか、自分の見たくない部分を見せられているような。そんな感覚があるのだ。
 でも、そんなときでも人間の体というのは素直だった。
「……腹減ったな」
 実際に言葉にしてみることで、それはさらに現実感を増す。
 何かないかと、霧橋さんの許を離れて冷蔵庫を漁る。けれどそこに、僕の食欲を満足させてくれそうなものは何一つなかった。それどころか、ほとんど空と言っても良い。
 あるものといえば……
「食パンか、冷えた白米か……」
 ある意味究極の選択だった。どちらかを取れといわれても、すぐに答えを出すことは難しい。
 なら、選択肢を増やせばいい。
 深夜といえども、現代には二十四時間営業のコンビニエンスストアという究極の便利ツールがあるのだ。なにか、適当な食べ物を買ってこよう。霧橋さんだって、目を覚ましたら何か食べるだろうし。
 よし、善は急げだ。
 僕は財布を掴み、沈みがちな気分に活を入れて部屋を出た。


 本当に文明というのはありがたい。こんな物騒なご時勢にも、きちんとコンビニは営業してくれていた。おかげで出来合いの幕の内弁当を二つゲットできた。さっさと帰って、腹を満たすとしよう。
 ――しかし、神様って奴はどうしても予定通りにことを進めさせるのがお嫌いらしい。
 毎朝通過する商店街の一角。丁度、八百屋と金物屋の前あたりだった。
 びしゃっ、という水をぶちまけたような音が、夜の空気を伝わってきた。音の源は、二軒の間の暗い路地裏。
 なんだろうか。こんな時間に、まさか打ち水をしているとも思えない。
 関わるな、と理性が言う。
 行け、と本能が言う。
 気にならないといえば嘘になる。けれど、近付くべきではないような気も……
 と、その時だった。
 僕の後ろから気配もなく近づいてきた黒い影が、やはり音もなく僕の脇を通り過ぎ、その路地裏へと入っていった。
 でも、本当に驚くべきはそこじゃない。
 一瞬僕の目に映った、その黒いマントに身を包んだ人物の横顔。それは僕にとって見覚えがあるの一言では済まされないもの――
 甲江飛鳥、彼女のものに見えた。
 どうして彼女がこんな時間、こんなところに?
 そんなことを考える前に、僕の足は動いていた。もちろん、彼女を追って件の路地裏へと。
 しかし、その先に僕が予測した人物はいなかった。その代わりにいたのは、黒マントに銀髪の、少女――
 そして、その視線の先にあったのは、真紅の壁。
 いや、真紅に染められた壁だった。その前に置かれた染料の素と、色を塗ったペンキ職人によって。
 死体の前に佇むのは、これもまた見覚えのある影――粕谷先生だった。たった一つの、弱々しい電灯に照らされた真っ赤なその姿は、むしろ自分から血を浴びに行ったとしか思えない。
 鉄の臭いが、さっきから嫌というほど鼻についている。頭も痛い。気分も最悪だ――
 思わず僕は、手にしていたコンビニの袋を落としてしまった。
「何の用?」
 その音で、初めて僕の存在に気付いたらしい。シルフィは、苛立たしげに言った。
「あんたも殺されに来たの?」
 心臓の鼓動が早い。紅い血。真っ赤。この臭い。頭が割れそうだ。
「あたしは、あんたを殺したくて仕方がないんだけどね」
 彼女はいつの間にか、その細い腕には似合わない業物を手にしている。しかし、さほど強い殺気は感じられない。それとも、僕にそれを感じ取れるだけの余裕がないだけか。
「…甲江さんは……」
 ああ、全く。声を出すのも辛い。
「甲江さんは、どうしたんだよ」
 一瞬、シルフィの顔に驚きが浮かんだのは気のせいだろうか。
 振り向き、僕と見合う彼女の向こうでは、粕谷先生が死体を殺していた。
 最早動きもしない、ほんの数刻前まで人間だったものを、入念に。いや、既に原形を留めていないそれは、誰のものかはおろか人であったかどうかすら分からない。地面の落ちている真っ赤な布――こうなる前は服だったらしいもののおかげで、かろうじて人間だったのだと推測できる。
 シルフィは刀を納めると、視線をそちらに移した。
「アレ、あんたのせいだからね」
 ……まただ。また、僕のせいにするのか。
「今までの連中はみんな組織の差し金だったけどさ。アレはあんたに邪魔されたことに対する八つ当たりだよ。殺された人は、全くの通りすがり。あのままツキメを放っておけば、あの人は死ななかったのにね」
 白黒の少女は、クスリと嗤う。
「あたしはあんたを殺れないんだ。兄貴がダメって言うんだもん。それに、あの娘もこれだけは嫌がってるしね。ま、それもいつまで保つか分からないけど」
 さも楽しげに言うけれども、僕はその言葉の中に、感情が感じられなかった。どこか、淡々としている。
 ……彼の中で、破壊行為が終わったのだろう。さっきまで僕が粕谷先生と呼んでいたモノが、こちらを向く。
 その顔に、表情はない。前面は背中以上に血に染まっている。というよりも、もともと紅かったと言われたほうが納得できる、それ程だった。正直、吐き気を覚えなかった自分を褒めてやりたい。
 数秒こちらを眺めた後、それは真っ赤な壁を飛び越え、世闇の中へと消えていった。
「あーあ、分かりやすいことしてくれちゃって」
 それ同様、真っ赤な壁のほうへと歩み寄るシルフィが、振り返って言った。
「全てを知りたいのなら、学校においで。現実を教えてあげるから」
 そして彼女もまた、夜闇へと消えていった。
 何も考えることができなかった。
 目の前で、人が死んでいた。尊厳もクソもない、ただの破壊行為の結果として。
 そしてそれは、僕の責任らしい。
 僕はしばらく、その場に佇んでいた。
 空に浮かぶ月だけが、僕を嘲け笑っていた。







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