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第三章  優しい触覚




 この前までは夢見が悪かった。だが、それがどれだけマシなことだったのかを僕はこの数日で知ることとなった。夢を見る、ということは僕の体がレム睡眠状態――つまり、睡眠に入ってから九十分程時間が経過しているということだ。普通に考えれば、それくらいの睡眠は当然かつ常識の範疇だろう。
 だけど、今の僕にはそれすらない。
 あの日――霧橋さんが隣人となったあの日にうとうととした中で見た遠き日の夢。あれを最後に、僕は夢を見ていない。というか、見られていない。
 隣の部屋で彼女が暮らしていると考えると、恐怖とはまた違う、言葉では言い表せないような感情が心の底から湧いてきて、とてもじゃないけど寝ていられるような心境じゃいられないんだ。もちろんこんな体験は初めてで、学校で授業を聞きながらこれほどの睡魔に襲われたこともなかった。強さ的には、通常の三倍以上だ。
 おまけに、睡眠不足の所為か妙な頭痛もする。ぶっ倒れてしまったあの日ほどではないが、この時間になってちょっとだけ悪化したような気もする。
 そのため、鼓膜に響くチャイムの音は、終わりの世界を救うために現れた勇者の足音のように感じられた。
「おい、なんかやけに眠そうじゃねぇか」
「……うるさい、頼むから放っておいてくれよ」
 もちろん足音の主は勇者の物などではなく、むしろ破滅をもたらす魔王の産物であった。いや、こいつと一緒くたにしちゃ魔王に失礼だ。魔王の城に乗り込む前の、二つくらい前のダンジョンで戦う中ボスくらいでいい。取り巻きってのもありかな。
 昼休みだというのに勉強熱心な生徒たちの質問に答える担任の粕谷教諭の勇姿を視界の端に映しながらそんなことを思う。相変わらず頭は痛いけれど。
「で、だ。今週末の連休のことについてなんだが……飛鳥ちゃん、どうだって?」
「えっ?」
 やはり今回も突然話を振られ、甲江さんは片付けようと手にしていた教科書とノートを派手にぶちまけてしまった。眞吾、明らかにお前の責任だぞ。
「大丈夫?」
「ご、ごめんなさい……」
 まったく自分に非はないと思われるのに(僕主観での話だが)、しゅんとなって謝罪する甲江さん。こういう人って、なんだか人生損ばかりしてそうな気がする。言っちゃ悪いからあくまで心の中での妄言にとどめておくけれど。
「ごめんなさい……やっぱり、お父さんが駄目だって……」
「やっぱりな。いや、別に飛鳥ちゃんが悪いわけじゃないんだぜ? なんつーか、親父さんの気持ちも分かるからよ」
 さらに小さくなる甲江さんを、眞吾はフォロー(?)する。といったところで、僕には何の話なんだかまったく見当がついていないのだから傍観者でいるしかできないんだけど。
「男二人と大事な娘を一緒に遊びに行かせるなんざ、普通の親父なら正気の沙汰じゃねぇよな」
 へぇ、眞吾のその台詞からするに、眞吾と甲江さんは今週末どこか出かける、と。いつの間に二人はそんなに仲良くなっていたのだろうか。そういうことは一応親友の僕にも話しておくべきだろ。後でネタにするために……じゃないけど。
 しかし眞吾がそのイベントを楽しみにしていたのは間違いないようで、都合がつかないことに苦悩の表情を浮かべている……いや、違う。訂正。あれは苦悩じゃなく、何かよからぬことを考えている顔だ。大方、如何にしてその厳しい親父さんを出し抜くか思考をめぐらせているのだろう。
 そんな眞吾を思ってか思わずか、甲江さんが「あ、でもね」と付け足す。
「女の子があたし一人じゃなければいいって」
「なんだ、やけに簡単な条件じゃねぇか。それなら、月愛ちゃんでも誘えばいいだろ。巽が行くんだ、来るに決まってるって」
「ちょっと待て、突っ込みたいところが二つある」
 とりあえずなぜかショックを受けたような顔をしていた甲江さんは悪いけど後回しにして、僕の質問を投げかけた。
「一つ、僕が行くってどういうことだ。まったく聞いてないぞ」
「そうか、まぁ、そういうことで決まったんだ。今週日曜の夕方六時に駅前集合、そこから土田の花火大会会場に行くからな。遅刻するんじゃねぇぞ。ついでに参加辞退なんてのは以ての外。んなことぬかしやがったら精神的にお前を殺す」
 しれっと、なんの悪びれた様子もなく言う眞吾に、僕はただ溜め息を漏らすしかできなかった。
「……二つ、僕が行くなら霧橋さんも……のくだり。なんだそりゃ。言っておくけど、僕と霧橋さんは――」
「出会った当日に部屋で乳繰り合うような仲」
「違う!」
 思わず上げてしまった大声に、教室中の視線が僕へと注がれた。遠慮なしに。未だ七十五日爆進中な僕は当然小さくなるしかない。誰が好き好んで拷問期間を延長するかっていうんだ。
「……ともかく、僕なんか餌にしたって霧橋さんが食いつくはずが――」
「私がどうかした?」
「!」
 不意に沸いた声に、そのまま関節が一回転してしまうのではないかと思うほどの勢いで振り返る。あ、なんか首から嫌な音がした。
「お、ちょうど良かった」
 首筋を押さえて冷や汗をだらだらたれ流す僕を無視して、眞吾は今週末の出遊について説明した。最後に、今ならもれなく柳巽がついてくる、と付け足していたのを僕が聞き逃がすはずがない。畜生、僕はお菓子のおまけかよ。いや、でも今の時代お菓子がおまけになってるなんてものもあるらしいからな……
 一通りの説明を受けた後、霧橋さんは特に考えた様子もなく言った。
「そう。分かった」
 こうなればもう、僕はただ机に突っ伏して袖を濡らすしかあるまい。
 諸悪の根源かつトラブル量産工場の眞吾と微妙に涙目で耳打ち相談している甲江さん、それに七十五日の延長が確定して半ば死体のようになっている僕を感情のこもっていない目で見下ろす霧橋さんは、傍から見れば単なる変人四人組に違いない。
 否定は不可能だと分かっていながらも、僕は自分が勘定に入っていることを心底嘆いた。いくら嘆いたところで、僕の目の前に歩く傍迷惑がいる限りどうしようもないのだけれど。


 家に帰るなり、僕は鞄を放り出し、着替えすらもせずに制服姿のまま隣の部屋の呼び鈴を叩いた。程なくして、眞吾に付き合わされてておそくなってしまった僕よりもずっと先に帰宅していた家主が顔を出した。今度は続けざまに殺されかけるなんてこともない。
 しかし、僕はまた別の意味で殺されるかと思った。
 顔を出した霧橋月愛の格好――流れるような黒髪はそのままに、下着の上に半袖のTシャツを一枚だけ着たという実に男殺しなその姿。いくらまだ夏の暑さが残ってるからって……これはないだろ。ていうか、この格好で応対に出るか?
 だが、彼女に常識を説いたところで馬の耳に東風、糠に五寸釘をぶち込むようなものだ。深く気にしてはいけない。
 思わず目をそらしたけれども、彼女のすらりと伸びた白い足とか、薄いTシャツを押し上げる胸の膨らみとか、一瞬しか見えていなかったはずのものがしっかりと網膜に焼き付いてしまっていた。落ち着け、落ち着け僕。
「何?」
 精神の安定を図る僕に、霧橋さんが端的な疑問を投げかける。最も、今の僕に理解できたのは「な」と「に」という音声記号だけで、それが表す意味まで頭に入ってきていたかというとまた別の話である。
「どうしたの?」
 再びの問い。だが今度はきちんと理解する。いつまでもパニックでいるほど僕のスペックは悪くない(と思う)。とりあえず目の前の光景はひたすらに無視することに決めて、口を開いた。
「単刀直入に言わせてもらう。今日の眞吾の話、なんであんな馬鹿な話を二つ返事で――!」
 怒りというか、どちらかというと世の中の理不尽さに対する無力感、あるいは単に自分の思い通り――いや、自分に都合がいいように動かない世界に対して駄々をこねているだけか。とりあえず、そんな感情がむせ返してきた。自然と語尾が強まるのを、自分でも感じる。
 だが、そんなふうに熱くなる僕を彼女はあざけ笑うかのように、
「監視するなら、対象のそばにいるのは当然でしょう?」
 僕は、何も返せなかった。
 それは既に、隣に引っ越すという暴挙を以って実践されているのだ。それを考えれば、監視のために一緒に出かけるなんてこと、かわいすぎて涙が出てくる。
 同伴せずとも、昔ながらの刑事ものや探偵の如く、対象の後をこそこそと追いながら電柱の影より覗き見る――なんてのも、立派な監視だろう。だが、現代社会においてそんなことしていたら、間違いなく青い制服のお巡りさんに声をかけられる。個人情報を吐かされた後、厳重注意ではい帰宅、監視は見事失敗に終わるだろう。
 しかも、無理矢理の同行ではない。眞吾の誘いという、立派な大義名分があるのだ。これを逃す手はない。実際僕が逆の立場でもそうする。
 冷静に考えると、これだけの肯定証拠が挙がってしまった。ああ、もう反論できるはずがないじゃないか。
「そのことのためにわざわざ来たの?」
「……うん」
 たぶん、彼女の目には僕が意気消沈しているように見えたのだろう。相変わらず感情の薄い声だけど、ちょっとだけ憐憫の色が混じっているように感じられた。
「私も、ちょうどそのことについてシルフェリアに話を聞いていたところ。こんなこと、初めてだから」
 そういう彼女は恥ずかしがるというより、ただ純粋に困惑しているようだった。見知らぬ土地に一人置き去りにされた、子犬のように。
「どうしたの、ツキメ? やけに長い立ち話じゃない……ってなんだ、タツミか」
 廊下の奥、居間につながる扉の向こうからしゃしゃり出てきた銀色は、シルフェリア・ヴァルドその人だった。今日も、あの黒い外套を羽織っている。ていうか、家の中でも着てるのか? あれ。
「あんたもツキメが心配で飛んできたってクチ? 着の身着のままじゃん」
「ち、違う! 断じて違う!」
 それだけはない、と胸を張って言い切れる。まぁ、心配事を断ち切りに来たという風ふうに考えればあながち間違いではないけれども。
 しかし、そんな僕の叫びを無視してシルフィは言葉を続ける。
「まぁ、心配なのは分かるよ。なにしろ、ツキメったら何も分かってないからねー。あたしだって、ツキメから連絡もらったときは驚いたよ。『日曜日にタツミたちと出かけることになった。人込みで目立たないようにするにはどういう格好をすればいい?』って――」
「シルフェリア……!」
 ぺらぺらとしゃべり続けるシルフィを霧橋さんは強い口調でとどめる。
 しかし僕は――不謹慎だと分かっていながら――彼女の話を聞いて、緩む口元を押さえずにいられなかった。
 霧橋さんも、僕たちに合わせようと努力している。彼女なりに、必死なんだ。
 それが例え任務とか、使命とか、そんな逃れられないことが理由だったとしても、僕はなんとなくうれしかった。何故なのかは自分でも分からない。
 だけど、微笑ましい。
 とても、優しい気分だった。
 それに――やっぱり不謹慎だし、こんなこと口に出したら頚動脈を掻っ切られても文句は言えないけれども――着飾った霧橋さんを見てみたいというのも正直な気持ちだった。なにせ、元は抜群に良いのだ。話の流れ的にそういう感性も持ち合わせていると思われるシルフィのアドバイスで、制服姿と現在の危険極まりない格好しか見たことのない霧橋さんがどのように様変わりするのか……純粋に、男としての興味で拝んでみたくなるのは当然だと思う。眞吾なら、二つ返事で同意してくれるだろう。うん。
 そう――あれほど頭にきていた件のイベントも、いつの間にか一つの楽しみへと昇華していたのだ。
「ところでさ、タツミ。このツキメの格好、どう思う?」
「どう思うって……」
 改めて見ようとして、やっぱり一瞬で目をそらす。霧橋さん自身は己の過失に気づかず頭上にクエスチョンマークを浮かべたままであるが、それがまた危険性を格段にアップさせていた。
「……いろんな意味で、危ないと思う」
「危ない? シルフェリアの言っていたことと違う」
「どういうことだよ?」
「シルフェリアが、『この格好で出て行ってみなよ。相手が男だったら、顔真っ赤にして大喜びするから』って」
 ……あんたの差し金かよ。
 前言撤回、シルフィのセンスに任せたら、霧橋さんはただの着せ替え人形にされそうだった。


 幸運なことに、僕の最悪の予測は見事に外れた。
 集合場所の駅前。どうやら着いたのは僕が最後だったらしく、すでにそこには見覚えのある顔が三つ、並んでいた。集合時間に遅れたわけではない。ちゃんと五分前行動をしている。ただ、みんなが早すぎるんだ。僕は悪くないぞ。
 と、無意味な言い訳を考えつつ歩を進めると、いつもの三人のほかにもう一人、あまり馴染みのない顔が混ざっていることに気が付いた。割と体育会系な眞吾よりも頭一つ出た、長身の男性。眼鏡をかけているから、ここからでは顔の細部まで見ることはできないけれども……
 近づく僕に最初に気付いたのは、こちらを向いていた霧橋さんのようだった。というか、彼女と一緒に来ても良かったのだけれども。実際に家を出た直後に隣の部屋の呼び鈴を押してみた。けれど、彼女はすでに在宅ではなかった。それで仕方なく一人で歩いてきたのだ。とぼとぼと。まぁ、彼女と二人きりになったところで、ろくな話もできずに緊張で胃を痛めるしかできないだろう。……そう分かっているのに、なんで彼女と一緒に行こうとしたんだろ?
 眞吾たちに報告することもせずじっとこちらを見ているという、微妙な変化に気付いたのは甲江さんで、いつもどおりあわあわとした様子でそれを眞吾に伝える。そうして全員に僕の到着が知れ渡ることとなった。
「おせーぞ、早く来い! 駆け足!」
「はいはい……」
 眞吾はああ言って急かすけど、僕の足が速まることなどもちろんあるわけがない。そのままのんびりと歩く。いつもの冗談だ。真に受けていたら身が持たない。
 きっと甲江さんならものすごくまじめな顔でホントに走ってしかも転びそうになったりするのだろう。霧橋さんなら……ダッシュだろうな。しかも、ものすごく速く。
「お、おはようございます!」
「……甲江さん。今はこんばんは、だと思うよ」
「ふえっ」
 そんな素晴らしいボケをかましてくれた甲江さんは、夏の風物詩を見に行くのにふさわしい、薄水色の浴衣を着ていた。カランコロンと心地よい音に、音源である彼女の足元を見やる。浴衣に合わせて下駄を履いてきたらしい。けど、どちらかというと今にも転びそうで、別の意味で涼しさを醸し出していた。
「霧橋さん、こんばんは」
「こんばんは」
 必要最低限の答え。しかし、僕は内心で安心すると同時に深く息を吐いた。
 前述の通り、僕の最悪の予測は見事に外れた。シルフィの着せ替え人形にされるかと思った霧橋さんの格好はごくごく普通のもので、地味すぎず派手すぎず。膝丈よりちょっと長い薄色のスカートに、ちょっと胸元が広めな同系色のインナーと上着のシャツ。いつもはそのままである黒い艶やかな髪を一本にまとめた彼女は、見た目だけであれば、青空の下に咲き誇る秋桜のような、まぶしい美しさを持つ紛うことなき美人であった。あくまで、見た目だけならの話だけど。だけど、その問題の中身を知っている僕でも一瞬目を奪われてしまうくらいに、彼女は綺麗だった。シルフィもいい仕事をしている。欲を言うなら、甲江さんみたいな浴衣姿も拝んでみたかったけれども……いやいや、ここは我慢しよう。
 続いて眞吾にも適当な挨拶を投げかけ、あの見覚えのない顔に目を向けると……
「やぁ、また会ったね」
 その言葉通り、実は見覚えある顔だった。
 ファッション性を重視した眼鏡の下の柔和な顔立ち。この前は鈍色のコートに身を包んでいたけれども、今日はごく普通の若者といった格好をしているので、気付くのが遅れてしまった。
 しかし、どうしてこの人がこんなところに?
 その答えは、大した間もなく甲江さんが与えてくれた。
「こ、この人が私のお兄ちゃんなんだけど……知り合い、なの?」
「一度だけ、ちょっとお世話になってね」
「いやはや、まさかあの時の青年が柳巽君とはね……世の中は意外と狭いものだ」
 自嘲気味に笑った後、彼はさらに付け足した。
「おっと、そういえばまだ、私は名乗っていなかったね。私の名は甲江縁起。そのまま、縁起が良いの縁起だ。珍しい名前だろう?」
「はは……」
 そう言われても、思いっきり同意するのも失礼な気がするし。それに僕だって人のこと言えないからなぁ。というわけで、軽く笑って流すことにする。
「まぁなんにせよ、よろしく頼むよ。柳巽君」
「はい」
 差し出された手を取る。彼の雰囲気と反して、結構ごつごつとした手だった。
「さて。挨拶も済んだことだし、出発しますか。どこかの誰かさんのせいで時間も押してるしな」
 いやな感じの笑みを浮かべて眞吾がこちらを見るけれども、逆に睨み返してやった。どこかの誰かさんが指しているのはもちろん僕なのだろうけど、僕は何も悪いことはしていない。文句を言われる所以はないはずだ。
 でも、なぜか敗北感。


 全国的にもそれなりに有名らしいこの花火大会。メイン会場、すなわち打ち上げ場となっている河川敷の周辺は、既に大勢の人であふれかえっていた。
 その様は、花火大会というよりも一種の祭りに近い。実際、花火というのは祭りの一環として打ち上げられることも多い。しかし、今日は花火のほうがメインだ。一応名目上は全国花火競技大会ってことになってるし。
 で、会場近くの駅まで辿り着いた僕たちはというと。
「こりゃちょっと……進めねぇな」
 頭をかきながら眞吾がぼやくのも無理はない。
 群集は河川敷どころか駅前まで延び、正直歩いて進むのも困難になっていた。まだ陽も沈んでいないというのに、ご苦労なことである。まぁ、どこかの大きな花火大会では人口四万の町に五十万以上の観光客が来るらしいし。それに比べたら、これもまだ可愛いほうなのだろう。
 しかし、ここで一つ大きな心配事が出てくる。
「まず誰かしらはぐれるなぁ、こんな中歩いたら」
 何しろこちらは五人という大所帯なのだ。まさか、フォーメーション組んで練り歩くわけにもいくまい。それに加え、こちらには縄でくくりつけておかないと確実にいつの間にかいなくなっているお方がいらっしゃるのだ。これは解決しがたい問題である。
「しかたねぇな。二人と三人の組に分かれようぜ。ちょっと寂しいけど、はぐれた誰かを探して時間食われるよかマシだろ」
「だね、少人数ならばらばらになることもないだろうし」
 珍しく建設的な意見を述べる眞吾に、素直に同意する。ていうか、なんだかんだで乗り気じゃん、僕も。まぁ、やっぱりこの空気だろうな。皆が皆、浮かれた気分でいる。欠伸が人に伝染するように、そんな心持が僕にも伝染(うつ)ったのだろう。
「とりあえず、甲江さんと縁起さんは一緒に行動したほうがいいよね。縁起さん、甲江さんのこと見てなきゃいけないでしょうし」
「そうだね、そうしてくれると有り難い」
 で、問題は。
「眞吾、僕たちはどうする?」
「あー、そうだな……」
 霧橋さんと行くか、甲江さん兄妹と行くか。眞吾はちらちらと二人の少女を見比べている。
 僕個人の意見としては、眞吾は甲江さんたちのほうに行ったほうが彼女も気が楽だろうし、僕は霧橋さんについていく、というか彼女を見張るべきだと思う。霧橋さんも僕を見張らなくてはいけない、とか言ってたし。それでも一応、彼女の希望もたずねてみると、
「私は――」
「よっしゃ、月愛ちゃん。俺と行くか!」
 霧橋さんが意見を表明する前に、眞吾が声を張り上げた。
「で、巽は飛鳥ちゃんのことよろしくな。よし、行くか!」
「あ……」
 と、彼女にしては珍しく困ったような声を上げ、そのまま手を掴んだ眞吾に引きずられていってしまった。こりゃ、なんか裏がありそうだな。いくら眞吾のことだとはいえ、少々強引過ぎる。後で聞き出してやろう。
 そしてもう一人の被害者(?)、甲江さんへと目を向ける。彼女はただただ困惑の表情を浮かべ、兄である縁起さんはその横で柔和な笑みを浮かべている。
「それじゃ、邪魔者はここで去るとするよ。そうだな、二時間ぐらいしたらまたここで落ち合おう。それまで二人で楽しんでくるといい」
「え? ちょっと縁起さん……!」
「はは。まぁ、全ては君次第だよ。柳巽くん」
 おいおい、意味分かりませんって。そんな意味深な笑顔と言葉を残しつつ背中を向けて、僕に何をしろって言うんですかお兄さん。
「あー……」
 ぽりぽりと、頭をかきながら浴衣の少女を見やる。と、視線がぶつかった。間髪あけずにものすごい勢いで目をそらして下を向く甲江さんは、正直見ていて微笑ましいものがあった。面白いっていうのも一割くらいあったけど。
「……とりあえず、見て回ろうか?」
 甲江さんは、黙って頷いてくれた。


「…………」
「…………」
 とりあえず、僕は焦っていた。
 見て回るとは言ってみたものの、本当に見てるだけで会話の一つすらも成立していない。いや、僕だっていろいろ努力はした。定番の金魚すくいだとか、ヨーヨー釣りだとか、浴衣の甲江さんに似合いそうなものをいくつか発見してネタを振ってはみたけれど、彼女はただ赤い顔でごにょごにょと何か言ってるんだか言ってないんだか。これが眞吾とかだったらあまりの気持ち悪さに一発殴るとか出来るんだけど、相手は女の子、しかも甲江さんなのだ。故に僕は、どうにかして場の空気を和ませようとしているんだけど。
 やっぱり、どうにもならないのが現実って奴だった。
 とりあえず溜め息をひとつ吐いて、極力ゆっくりと歩く。そうしないと甲江さんを置いてきてしまうからだ。恐ろしいまでに彼女の歩みは遅い。かといって彼女に急がせたら、確実に転ぶ。これは言い切れる。ならば、僕が合わせるしかないだろう。これぐらいしか甲江さんにしてあげられそうにないし。
 そうしてとことこと、甲江さんの姿を確認しながら歩いていたときだった。
「柳、甲江」
 声が、僕たちの名を呼んだ。どこかで聞いたことのある男声。はて、誰だったっけかな……?
「お前ら、こんなところで何してるんだ」
「げ……」
「こ、こんばんは……」
 やべ、思わず声に出してしまった。よりにもよって、どうしてこんなところで会わなければならないのだろう。学生百人に聞けば、おそらく九十人がプライベートで会いたくないと答えるであろう職業の人。
 人ごみから姿を現したのは、クラス担任、粕谷教諭だった。
「おいおい柳、いくらなんでも『げ』はないだろう、『げ』は。そんなあからさまな」
「す、すいません……」
「まぁいい。俺だってホントはお前らなんかに会いたくなかったからな」
「はぁ……」
 話によると、高校の教師陣は見回りという名目で半数以上がこの会場に来て、歩き回っているらしい。もっともそれは生徒たちの不順な交友とかを監視するためではない。
「最近、このあたりも物騒だからな。お前たちみたいに複数で歩いているなら問題ないが、絶対に一人歩きはするなよ。特に柳、甲江をちゃんと見ていてやれ。男なんだからな」
「……先生たちは一人で歩いていて問題ないんですか?」
「妙なところに突っ込むな、お前も」
 やせ気味の中年教師は険しい表情を崩した。
「まぁ、俺たちも危険といえば危険だな。だから一応、二人一組で行動することになっている。もっとも、俺も相方とはぐれたんだがな。まったく、どこに行ったんだか」
「はは……」
 実に笑えない笑い話だ。
「じゃあ、お前らも適当に楽しんでいけよ。くれぐれも馬鹿なことはしないようにな」
「はい、それじゃ」
 軽く一礼して、先生に背を向ける。
 しかしまぁ、こんなところで先生に会う羽目になるとはなぁ。これだけ人がいるのだから、運が悪いといえばそれまでだけど。
 それにしても、本当に凄い人出だ。近場の花火大会とはいえ、僕は今まで来たことがなかった。せいぜい窓からきれいだなぁと眺める程度だったし。そうそう、去年は眞吾が酒持って乗り込んできたんだな。飲まされて、翌朝二日酔いで死にそうになったのを覚えている。
 あれ以来僕は、眞吾の馬鹿飲みには付き合わないようにしている。というか、あいつの許容量がおかしいんだ。未成年の癖に一升瓶一気飲みとか普通にやるし。最早あれは人間のなせる業じゃない。しかもそれを他人に強要してくるから性質が悪いんだ。そんなことできるのはあいつだけだっての。
 そういえば、眞吾は霧橋さんと一緒に行動してるんだよな。大丈夫なのだろうか。どっちも。
 眞吾はまた馬鹿をやらかしているかもしれない。まぁ、それはそれで多少ドンマイ。気にしていたら体がもたない。
 問題は、霧橋さんのほうだ。
 正直な話、彼女には悪いけれど、霧橋さんはかなり人付き合いが苦手な部類に入ると思う。教室にいても、同級生と仲むつまじく談笑している姿なんて見たことないし。してたらしてたでちょっと怖いものがあるけど。というか想像に難い。
 そんな彼女が、ただのクラスメイトに過ぎない眞吾と歩いている。これは結構苦痛なのではなかろうか? いや、そんなこと微塵にも感じてない可能性のほうが圧倒的に高いけどさ。
 もっと心配なのは、霧橋さんが僕に対して行った過剰防衛のようなことを再びやらかさないかということだけど……まぁ、多分これは大丈夫だろう。一応今のところ騒ぎにはなってないし。うん、きっと問題ない。そう思わないとやっていけない。
 ふと、出店から漂う、焼きそばのソースの香りが鼻を刺激した。うーん、そういえばまだ晩飯食ってなかったな。ちょうどいいや、ここで何か食っておこう。
「甲江さん、何か食べ……」
 僕はそこで絶句し、全身の血の気が引いていくのを感じた。なんかそんな効果音が耳元で聞こえた気がするし。
 とりあえず、お約束といえばお約束だけど、僕が振り返った先に甲江さんの姿はなかった。
 はぐれた。はぐりん。はぐれメタル。
 まずいぞ、これは非常にまずい。どれくらいまずいかといえば麦茶をソーダ水で割ったくらいまずい。炭酸と麦でビールになるかと思ったら大間違いだ。
 とりあえず、今来た(と思われる)道を引き返す。明らかに、無駄な考え事に思考を奪われてしまった僕の責任だ。くそ、こんなことになるならしっかりと掴んでおくべきだった。
 黒山を掻き分け、彼女の名を叫び続ける。もちろん見つかるはずがない。
 ……眼鏡を取るか?
 その選択肢が、僕の頭に浮かんだ。
 そうすれば、視覚・聴覚・嗅覚から得られた情報を統合して甲江さんの位置を割り出せるかもしれない。いや、多分出来る。それくらいはやってのける自信がある。
 しかし、それは諸刃の剣でもある。この人口密度だ、下手をすれば流れ込む情報に僕自身が押しつぶされてしまうかもしれない。そうなったら甲江さんを探すどころではなくなる。
 どうする、どうする……!
 ぐるぐると無限ループに陥る。頭が熱い。普段使っていないものを無理に働かせているからだろうか。
 探さないと、いや、でも……
「柳?」
「え?」
 その冷たさを感じる声に、僕は振り返った。
 人ごみのちょうど切れ目、ぽっかりと空いた直径一メートルほどの空間に立っていたのは霧橋月愛であった。残念ながら僕の探し人ではない。
 しかしながら、熱くなっていた脳が急速に冷めていくのを感じる。
「何をしているの? 焦っていたみたいだけど」
「あ……甲江さんと、はぐれちゃって。探してたんだ。見かけなかった?」
 僕の質問に、彼女は無言で首を横に振った。残念、ちょっと肩を落とす。
「霧橋さん、眞吾はどうしたの?」
「気付いたらいなくなってた」
「……あの馬鹿」
 このような事態を防止するための班分けだったはずなのに、全く機能していない。むしろ最悪の結果をもたらしている。
 ここでまた霧橋さんと探索に出るのは簡単だ。しかし、人探しをしながら霧橋さんとはぐれないようにする、その自信が僕にはない。たとえ眼鏡を取ったとしても、五感が指向性を持っていることに変わりはない。甲江さん探索に集中してしまっては、いくら僕の五感が優れていようとも、霧橋さんに向けられる分は少なくなってしまう。それでは意味がない。
 こうなったら、眞吾と甲江さんがどこかでばったり会ってることに期待するしかないかなぁ、僕たちみたいに。
 だったら、仕方のないということで。
「霧橋さん、しばらく一緒に見て回ろうか。もしかしたら、歩いてるうちに二人に会うかもしれないし」
 一拍置いて首肯すると、霧橋さんはすすっと僕の真横に移動して来た。それはもう肩が触るんじゃないかってくらいの距離に。さすがにこれはちょっと……

 でも、離れてくれって言うのもまた難しい。というか、歩き出してしまった今では離れることも不可能に近い。それに、触ってるってことは霧橋さんがそこにいるってことだし……  そう思うことで、どうにかこの状況を正当化しつつ歩を進める。それにまぁ――
 すれ違う男たちの視線を独り占めする霧橋さんを横に連れるのも、悪い気はしなかったし。
 と、不意に心臓を叩かれるような轟音が鼓膜を刺激した。それと同時に人の流れも一瞬止まる。皆がそうしているように、僕も光の花が咲く夜空へと視線を上げた。
 色とりどりの花火。職人たちが魂込めて作り上げた芸術品を前に、僕はただ間抜けに息を漏らすしか出来なかった。
「綺麗だけど、どこか儚い」
 僕の横で、彼女はそう形容した。突然の言葉に少し驚く。
 いつものように冷たさを含んだ声だったけれど、どこか懐かしさを感じる。
 だけどそう言う彼女の横顔の方が綺麗で、そして儚かった。
 それは支えていないとすぐに折れてしまいそうで。
 普段とは違う彼女の肩を、僕は半ば反射的に、抱いて引き寄せた。
 もちろん霧橋さんは驚いたような表情を見せる。僕だって驚きだ。僕がどうしてこんなことをしているのか、そして彼女はどうして抵抗しないのか。
 しかし、手に触れる彼女の感触は優しかった。
 そのまま僕らは、花火を眺めていた。
 どれくらいの時間が流れたのだろう。こんな経験生まれて初めてであるはずなのに、不思議と僕は落ち着いていた――否、僕は安らぎすら感じていた。
「――ちゃーん! 月愛ちゃーん!」
 聞き覚えのある声が、人込みの中から響いてきた。眞吾か……?
「!」
 今の自分の状況を思い出し、大急ぎで霧橋さんと距離を置く。あんなのを眞吾に見られたりしたら、またえらいことになる。自分がやらかしてしまった醜態に対する後悔の念に、顔が熱くなるのを感じた。僕の馬鹿馬鹿! とポカスカ自分の頭を殴りたくなる。そんな気持ち悪いことやらないけどさ。
 おそるおそる霧橋さんのほうを見てみると、彼女は相変わらずの無表情だった。何事もなかったかのような様子である。まぁ、僕としてはそっちのほうがずっとありがたいんだけど。
「お、月愛ちゃん! やっと見つかった……って、巽? お前なんでこんなとこにいるんだよ。飛鳥ちゃんはどうした?」
 軽く息を弾ませながら、眞吾が尋ねてくる。
 そして僕ははっとした。
 目の前にいるのは、八坂眞吾一人のみ。つまり、僕の期待していた眞吾と甲江さんばったり遭遇説は完全否定されてしまったということでして。
 再びながら、全身の血の気が引くのを実感した。
「ごめん……はぐれた」
「やっぱりな。いやいい。俺だって結局月愛ちゃんとははぐれちまったわけだし。俺は責めねぇよ」
 珍しく殊勝な眞吾。明日は雪でも降るんじゃなかろうか? と僕は思わず閉口してしまう。なんか調子狂うなぁ。
「ま、飛鳥ちゃんがどう言うかは知ったこっちゃねぇけどな」
「う……」
 確かに、眞吾にごちゃごちゃ言われるよりも甲江さんに関する問題のほうが明らかに重大だ。祭り会場で一緒に歩いていた友人に置いていかれてしまった者の心情は想像に難くない。それに相手は甲江さんだ。怒るというよりも、多分泣くだろう。怒られるよりもずっと厄介だ。
「さらに今日は、お目付け役のお兄様までいるからな」
「うう……」
「かわいい妹にこんな仕打ちをした男に、兄は断罪の鎌を振るう。さらにそれを知った父親は、娘を守るため柳巽を社会的に抹殺し――」
「ううう――ってちょっと待て。それはいくらなんでもありえないだろ」
 眞吾の馬鹿に一応突っ込んでやる。ていうか、冗談だよな?
 そんなくだらないにも程があるやり取りに、冷たい声が割って入った。
「探しに行かなくていいの?」
「おお、そうだそうだ。今は巽で遊んでる場合じゃない。飛鳥ちゃんを探すのが最優先事項だ」
「……人で遊んじゃいけないって、幼稚園で教わらなかったか?」
「俺はそんなルール知らん」
 にかっと白い歯を見せて笑う眞吾だけれど、残念ながらそこにさわやかさとかそういった系統のものは欠片も存在していなかった。むしろ一発殴ってやりたくなるような空気を発していた。そこは我慢したけど。
「とにかく探しに行くぞ。つっても三人一緒に居たんじゃ意味ないからな。手分けして探すぞ」
「分かった。なら、ある程度時間が経ったら集まろう――あ」
「どうした?」
 集まろう、で思い出した。確かもうもう一人、同じ約束をした人が。
「縁起さん。二時間ぐらいしたら落ち合おうって言って別れたんだけど……」
「ああ、あの人なら大丈夫だ。途中で会ったからな。心配するな」
「……ならいいけど」
 なんか腑に落ちないけど、そこは無理にでも納得させておく。今は最優先事項があるからだ。
「じゃあ、十時に駅前集合な。飛鳥ちゃんが見つかっても見つからなくても来ること。いいな?」
「分かった」
 その言葉に、霧橋さんも首肯で返事をする。
 大きな花火が一発、彼女の背後に打ち上げられたのが目に映った。


 そうして探しに出てみたはいいものの、どこをどう探せばいいのやら。
 花火というメインイベントのために人の流れはさらに勢いを増している。ただ単純に人が増えただけでなく、その場で立ち止まる人がいるために流れが滞り、簡単に言えば高速道路での渋滞状態となっているのだ。特にここは堤防という名の土手の上。道幅がかなり限られている。これでは探すどころか、身動きすらも満足に取れないのが現状だった。
 こりゃたまらん。僕はその道から外れ、おおよそ人の近付くことはないであろう出店の裏側へと退避した。職務放棄をしたわけじゃない。とりあえず頭を冷やすための小休止だ。
 河川敷とは反対側の土手に腰を下ろし、一息吐く。背中のほうから漂ってくるソースの香りに、僕の腹が正直に反応した。
 そういえば、まだ晩飯を食っていない。結局さっきは食べ損ねたわけだし。
 いい具合に漂う、祭り独特の香り――もちろん食べ物のものだ――が僕の理性を刺激する。ちょっと腹ごしらえをしようか、いやいやそんな不謹慎な。
 しかし悪魔の誘惑は止まるところを知らない。匂いだけならまだしも、炒められる麺や野菜が放つその聞いているだけで涎が出てきそうな、実に心地よい音を僕の耳は拾ってしまった。
 ああ、どうしようか。
「何してるの? 挙動不審で職務質問受けるよ」
「はい?」
 そのあきれ返ったような声に、僕は思わず顔を上げた。
 そこには夜の闇にぼんやり浮かぶ、儚い白がいた。
「シルフィ? どうしてこんなところに……」
「あんたを一発殴るため、って言ったら?」
「え?」
 この前見たのと同じ、黒い外套を纏った銀色の少女は、唇の端を軽く緩めながら言った。
 って、僕を殴る? どうして。何故。何か悪いことしましたか?
「あんたのせいで泣いてる女の子がいるんだよ。その娘の仇、って言えば分かるかな?」
 分かりません。
 と答える前に、僕の脳天に強烈な一撃が見舞われた。
 あれ? なんか、景色がおかしいぞ。だんだん歪んでいって、それに暗くなっていって……
「安心して、峰打ちだから」
 そういって彼女は外套の中に凶器をしまい、背を向ける。
「じゃあね、馬鹿」
 それを最後に、僕の意識はぷっつりと途切れた。


「全く、君も災難続きな人生だね」
 その言葉で、僕は瞼を開けた。そしてそのまま、がばっと飛び起きる。まだぼんやりとする頭で隣にいる人物を確認。やっぱりあの人だった。
「……縁起さん。つくづくすみません」
「いや、構わないよ。今回は少々こちらにも不手際があったからね」
「不手際、ですか?」
「ああ、いや。なんでもないよ」
「はぁ」
 ずきずきと痛む頭頂部をさすりながら、周囲を見回す。あ、たんこぶできてるじゃないか。
 人々の流れる様子などは、気を失う前と大差ないように見える。そして横から僕を見下ろす縁起さん。実は、そんなに時間は経ってないってオチか?
 そしてそこで思い出す。僕は何をしようとしていたのかを。そして、それを知られては非常にまずい人が隣にいるのだということを。
「ところで柳君。飛鳥のことなんだけどね」
 ほら来た! ここはやっぱり、腹をくくるしかないか。
「申し訳ありません!」
 僕は潔く、額を地面にこすりつけた。このまま首をぶった切られたって文句は言えない。言えないだけで腹の中には抱え込んでるのだけれども。
「いや、いきなり謝られても困るな。君は何か私に詫びるべきことがあるのかい? 残念ながら、私のほうにはそんな覚えがないのだが」
「……へ?」
 緊張の最高潮にあった体から力が抜けていくのを感じた。頭を上げて、縁起さんを見る。
「飛鳥なら、気分が悪い様子だったから先に帰らせたよ。本人は平気だと言い張っていたけどね」
「そう、だったんですか……」
 なんだ、これじゃ僕はただの馬鹿というか間抜けじゃないか。ああ恥ずかしい。
 まぁとにかく、甲江さんが無事だったのならばそれでいい。安心した。
 いや待て。僕とはぐれた後の甲江さんは縁起さんに出会ってしまった。これが事実だ。ということはつまり、僕は既に死刑確定済みということでは……?
 ――断罪の鎌、社会的に抹殺。
 眞吾のくだらない冗談がこんなときに限って脳裏をよぎる。ちょっとこれは、覚悟しておいたほうがいいかもなぁ……
「じゃあ私も、お先に失礼させてもらうよ。兄馬鹿だと思われるかもしれないが、飛鳥のことが心配なものでね」
 そう言ってさわやかな笑みを浮かべていく縁起さんを見て、僕は拍子抜けする以外にどのようなリアクションを取ればよかったのだろうか。
「まったく、なんだってんだよ……」
 誰に言うわけでもなく、僕は呟いた。


 その後、時間通り集合場所に現れた眞吾と霧橋さんに事情を話し、僕らは帰路についた。
 部屋の前まで一緒に歩いてきた霧橋さんに別れを告げ、誰もいない部屋にただいま、という声を放つ。もちろん返事が来るはずがない。
 それを確認し、僕はそのままベッドに直行した。眠い。とにかく疲れた。今日はもう寝る。
 というわけで僕の意識は、いともあっさりシステムダウンした。


「ん……?」
 ふと、目が覚めた。まだ陽は昇っていない。何時だ?
 手元の時計を半ば手探りで手繰り寄せて見ると、深夜二時。何でこんな時間に目が覚めたんだ?
 ちょっと考えたところで、答えは出た。なんだ、これだけ明るければ目も覚めるか。
 部屋を満たす、青白い光。窓から差し込む月明かりだった。
 寝ぼけ眼をこすりながら、居間の窓から外をうかがう。すると、黒い夜空に浮かんでいたのは、恐ろしく美しい満月だった。思わず息を呑む。
 窓を開けてベランダへ出ると、ぬるい空気が身を包んだ。そのままふらふらと歩き、手すりを掴んで身を乗り出すようにして空を眺める。
 本当に、綺麗だった。神秘的だとか、儚いとか、魂を奪われそうだとか、そんな形容詞も必要ない。綺麗だと、その一言でしか表せなかった。
 はぁ、という溜め息が耳に届く。……溜め息?
 その音源があると思われる方向――右隣の部屋のベランダへと目をやる。するとそこには予想通り、部屋の主がいた。
 霧橋さんは、僕がここにいることに全く気付いていない様子だった。そこにいるのは僕と同じ理由だろうか。どこか遠く――恐らくあの月だろう――を見るような目をしている。なんとなく、彼女のことを観察していたい気分になった。
 しばらく、といっても一、二分だろう。そのままぼんやりと空を眺めていた彼女は、何の前触れもなく虚空へと手を伸ばした。そして、何かをその手に捕らえようとする。虫……ではないな。それにしては緩慢な動きだ。
 そんな仕草を、彼女はただ黙って繰り返していた。虚ろな目で、あの花火を見ていたときのような、それは今にも崩れてしまいそうな、儚く脆い横顔だった。
「月は掴めそう?」
 そんな彼女に、僕はとうとう声を掛けてしまった。悪戯心と言ってもいいかもしれない。
 霧橋さんは驚いた様子で伸ばしていた手を引っ込めた。そして少々恨みがましそうな目でこちらを見てくる。その頬は、彼女のイメージとは反して桃色に染まっていた。
 思わず口元が緩む。でも、なんだかそれを見せたら余計に彼女は怒りそうな気がする。ほら、実際に再び空の月へと視線を戻してしまった。
 それに合わせて、僕も夜空へと目を移した。
 ほんの数時間前まで色とりどりの花火で染め上げられていた黒いキャンバスも、今は白い月と星々の独壇場だった。音もない。ひたすらに静かで、自分の心音すらも騒音に感じられる。
 手すりに肘をつき、頬杖をして空を眺める。
 この夜空の下、僕たちのように空を見上げている人はどれくらいいるのだろうか。
 そして、この月に心奪われた人たちは?
 古来より、月には人の心を狂わせる力があると信じられていたらしい。そして、それは現代でも原因不明の事実として認知されている。例えば、交通事故。満月・新月の夜になると交通死亡事故が急増し、上弦・下弦の月の下ではうっかりとした人身事故が増える、という研究結果が実際に出ている。他にも満月の夜には殺傷事件や放火事件が増えるという傾向があったり……。科学的に分析すれば、いくつか思い当たるような原因らしきものがあるようだけど、それが真実なのかどうかははっきりしていない。というのを昔テレビ番組で見た気がする。
 月……か。そういえば、霧橋さんの名前って月愛っていったような。人の心を狂わす月、か。あながち間違いじゃないかもな。
「どこにいても、いつ見ても。月は綺麗だった」
 不意に、霧橋さんが口を開いた。そちらを向きたい衝動に駆られながらも、我慢して視線はそのまま固定する。
「今と同じように、誰かを監視中だったこともあったし、私が始末した骸の横で見上げたときもあった。いつも見てきた。でも、この血塗れの手では決して届かない。どれだけ伸ばしても、どれだけがんばっても。私にこの名前を付けてくれた人は、月が好きだったようだけど……皮肉だと思わない? 私は、一生名前負けして生きていくしかないの。私はあんなふうに美しくなれないし、眠る人々を優しく照らすこともできない。私は月になれないから」
 ちょっと、彼女の饒舌さに驚いた。彼女のこれだけ長い台詞を聞いたのは初めてだ。
 でも、今はそんなことに驚いていいような雰囲気ではなかった。なんというか、僕もそんな気分じゃなかったし。ただなんとなく、彼女の言葉に対して僕も思うところがあった。
 ぼんやりと、焦点をずらすようにして空を眺める。別に何かが浮かんだりはしない。
「でもさ」
 言葉が勝手に出てくる。
「なれないかどうかなんて、自分で決めるものじゃないよ。それに、知ってるだろ? 月っていうのは自分自身だけじゃ輝けないんだ。おまけに地球の衛星ときてる。支えて、生かしてくれる人がいないとダメなんだよ、月は」
「なら、なおさら私にこの名前はふさわしくない。私はいつも、独りだったから」
 この言葉に僕は辛抱ならなくなって、彼女を見た。
 いつもの無表情のように見えて、どこか悲しげ。
 僕は、ためらうことなく彼女に言った。
「なら、僕が支えるよ」
 霧橋さんが驚きに開かれた目でこちらを見、そして僕と目が合った。僕は目をそらさず、真っ直ぐに彼女を見る。軽く、微笑んでみたりして。明らかに動揺している様子が面白く、可愛らしかった。
「わ、分かっているの? 場合によっては、貴方は私に殺される。馬鹿なことを言わないで!」
「確かに、どうして僕はこんなこと言ってるんだろ。でもさ、多分本心なんだと思うよ。僕は、嘘を吐くのが下手だから」
「……自分で言ったのでは、意味がないでしょう」
 そう言い残し、霧橋さんは足早に部屋の中へと戻っていってしまった。うーん、怒らせちゃったかな? あまり怒らせると冗談抜きで殺されるかもしれないからなぁ。まぁ、そのときはそのときで。
 眠気のせいか、ぼんやりとした頭で再び月を眺める。
 月、か。
 小説とか漫画だと、紅い月が昇ったりするけれど。あんなの実際はありえないよなぁ。十七年間生きてきて多分一度も見たことないし。ま、どうせ不吉なことの象徴なんだろうけどさ。
 月といえば、十五夜っていつだっけ? まぁ、その日になれば眞吾が酒持って押しかけてくるだろう。あ、なんか無性に月見団子が食べたくなってきた。別に月見じゃなくてもいいけどさ。でも団子なんて、冷蔵庫には入ってないよなぁ。
 脳味噌の呆け具合は時と共に悪化の一途をたどっている。そう自覚できるうちにさっさと寝よう。気付いたらベランダで寝てて、朝起きたら風邪ひいてましたなんてシャレにならないし。
 僕はいそいそと部屋に戻り、布団にもぐりこんだ。




 この日をもって、僕たちの優しい日常はエンディングを迎えた。
 そして、逃げることのできない現実が始まる。






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