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第二章  不協な聴覚




 またもや殺人 同一犯?

 茨城県築波市の路上で十八日深夜、若い男性の変死体が発見された。男性は落ちていた免許証などから、近所に住む男性(二四)と判明。遺体には数箇所にわたって鋭い刃物による切り傷があり、死因はそれによる失血死。また、遺体発見現場は建ち並ぶビルの合間の路地裏で、先日起こった殺人事件と状況が酷似していることから同一犯による犯行と見て警察は調査を続けている。
                     続売新聞九月十九日付朝刊 地域欄より抜粋


 二人目が出たことで昨日よりずっと騒がしくなっている町中の様子と治安よりも、今の僕にとって何よりも優先されるのはこの身の狭さに如何にして耐えるかということだった。すべての元凶は、八坂眞吾にある。そりゃあ、事故とはいえ、あんな痴態を眞吾なんかに晒してしまった僕にも責任はあるのかもしれない。だけど、そんなの眞吾の馬鹿、もといピンク色の単脳細胞が犯した罪の重さに比べれば、微々過ぎて肉眼では感知できない程の大きさだと思う。
 その微小サイズの責任のせいで、僕が歩く度にひそひそ話が聞こえ、指差して何かの話題にされたり、どこか冷たい目で見られるというならば、それは過剰な代価というモノだろう。あえて言おう。僕は無実だと。
 それにしても、あれは昨日今日の出来事の筈だ。それがどうしてこんなに広まっているのか。ソースである眞吾の人脈を疑いたくなる。いくら情報化社会とはいえ、二十四時間前の事を学校全土に知り渡らせるその力は、もはや驚嘆に値するほどだ。
「今日もまた浮かない顔してんなー、巽?」
「……誰の所為だと思ってんのさ」
 声の主、諸悪の根源八坂眞吾をジト目で睨み付ける。もっとも、眼鏡を掛けた僕の目付きはお人好しのそれでしかないらしく、人に与える威圧感とか恐怖感が全くと言って良い程無いらしい。その昔、爺ちゃんに言われた事だ。
 とまぁ、そんなことは置いといて。
「あの……あまり気にしない方がいいと思うよ。人の噂も七十五日って言うし」
 真実を知る者である甲江さんが慰めてくれた。結局あの後、甲江さんは何事もなかったかのように帰ろうとして、何事かあったような顔して帰っていった。無論その前に弁解するのを忘れていない。弁解する前に眞吾をロストしたがために今回このような事態になったからだ。
「七十五日……二月半か。長いなぁ……」
「ダメだこりゃ。テンションが奈落の底だ」
「だから、誰のせいだと思ってるんだよ!」
 心の底から突っ込みを入れて、再び机に突っ伏した。
 時は放課後、普通の学生としては苦行から開放された喜びを胸に町へと繰り出したり部屋に引きこもったりしたいところであるが、おおよそ普通とはかけ離れた学生である僕にとっては求めても得る事は決してできない願望らしい。かといって、生徒も散り散りになった夕焼けの教室で、悪友と馬鹿やるのを許容できる程人間出来上がっていない。女の子に愛の告白されたりだったら大歓迎なんだけど。
「なぁ、僕、もう帰っていいか?」
「ん? 愛しの月愛嬢と一緒に帰宅するんじゃないのか?」
「……笑えない冗談はヤメロ」
「マジで? ウケなかったのかよ、コレで」
 こいつは一遍、死の縁までぶっ飛ばした方がいいのだろうかと、生涯何度目かの思考に行き着く。だが、今回は遠慮しておこう。何せ、隣では甲江さんが見ていらっしゃるのだ。予測されるスプラッタな光景を見せられれば、卒倒どころじゃ済まないかもしれない。
 当の本人は、僕らの喧嘩一歩手前なやり取りにあたふたしてて、そんなこと微塵も予測していないみたいだけれども。
「もういいや。帰るよ。疲れたし」
 嘘じゃない。いつもは単なる戯れ合いでしかない応酬も、この日は僕の精神力をいたずらに消費するものでしかなかった。
「何だ、つまんねぇな。てめぇんとこにまた押しかけてやろうか」
「丁重かつ厳重にお断り申し上げます」
「はっ、そんだけ言えるんなら大丈夫だな。今日はブッ倒れんなよ。面倒見切れねー」
「……僕、そんなに調子悪そうに見える?」
 そうは言われても、僕本人としては特に異常は感知していない。昨日みたいな頭痛もないし。
「顔色は悪くないけど……今日一日、凄く辛そうに見えたよ。柳くん」
 だから、それは眞吾が流した根も葉も種すらもない噂のせいだって、甲江さん。
 しかし、彼女にすら心配される程とは。よほど今日の僕は参っていたらしい。こんな日は、早く帰って早く寝よう。うん、それがいい。
「大丈夫。最低限、家まで保てばいいからさ」
 カバンを持ち、席を立つ。
『絶対大丈夫じゃないよ』
「だから僕は平気だって。心配いらないよ、甲江さん」
 声の主、甲江さんに向かって言う。全く、心配性だな。
「え、あ、うん……」
 ただ、言われた方の甲江さんは、どこか驚いたような顔をしていた。
「じゃ、そういう訳で。また明日」
「おう、月愛ちゃんによろしくなー」
「じゃ、じゃあね」
 手を軽く振りながら教室を後にする。無論甲江さんに対して手を振ったのだ。眞吾なんか無視。

◆◆◆


「……しっかし、飛香ちゃんも大変だよな」
「え? ど、どうして?」
「あんな奴のどこがいいわけ? 世の中、もっとマシな男も仰山いるだろーに」
「あ、あの、その……」
「飛香ちゃんくらい可愛ければ告られたのだって一回や二回じゃねーべ? あ、まさか周りにばれてないとでも思ってたん? 巽に惚れてんの」
「…………他の人には、内緒にしてくれる?」
「当然。俺の心の奥の金庫に南京錠五つくらい掛けてしまっとく」
「あ、ありがとう」
「気にすんなって。こういうのは、他人の口から相手に伝わんのが一番気まずいからな」
「でも、柳くんのことはあれだけ言い触らしたよね?」
「あん? あいつは特別だよ。あんな事他の人間にはしねーって」
「……羨ましいな」
「羨ましい?」
「八坂くんは、柳くんと本気で付き合ってるんでしょ? でも、私が本気でぶつかっても、柳くんはきっと軽く流しちゃう。距離を置かれちゃうんだ」
「……簡単に言っちまえば、飛香ちゃんは巽に自分を見てもらいてーんだろ? 真っ正面からさ」
「え、いや、そんなわけじゃ……」
「なくないんだよ。ま、こればっかは俺にゃあ応援しかできねーな」
「…………」
「頑張りな。万が一、巽が馬鹿やって飛鳥ちゃん泣かせたら、俺が霞ヶ浦に沈めてきてやっから」
「…………なんでで霞ヶ浦かな」
「だって、東京湾じゃ遠いべ」
「……ぷっ」
「おいおい、なんで笑うかな」
「ご、ごめんなさい。でも、おかしくって…」
「へっ、巽の前でもそうやって笑ってやんな。その方が、あいつも楽だと思うぜ」
「う、うん」
「よし、それが分かれば良い。んじゃ、俺も帰るとするかね。飛香ちゃんはどうするよ?」
「あ、私はちょっと用事があるから……」
「そ。じゃあな」
「うん、じゃあね」

◆◆◆


 昨日と同じ帰り道を歩く。今日の足取りはしっかりとしている。昨日の頭痛が嘘みたいだ。
「霧橋さん……か」
 ふと、口からその名が漏れる。今日授業が終わると、外せない用があるとか言ってさっさと教室を出て行ってしまった彼女。眞吾にあれだけ言われれば、いくら僕でも頭に張り付いて離れなくなる。
 確かに、綺麗な人だとは思う。あくまで可愛い、ではなく綺麗、だ。その名の通り、夜空に浮かぶ月のごとき静かなる美しさとでも言おうか。
 けれどそれはどこか、冷たさを含んだ美しさでもある。夜の空気に似た、肌を裂くような冷たさ。それでいて、なぜか僕を惹きつける――そんな不思議なものだ。
 そんな考えごとをしながら、目の前から来た自転車を避ける。擦れ違いざまの事だった。
『歩行者うぜー。マジ邪魔』
「え?」
 確かに、声がした。だけど、普通こんな事言うか? ましてや偶然擦れ違っただけの赤の他人だぞ。
 驚き、過ぎ去った自転車を振り替える。一発文句でも言ってやろうかと考えたが、そんな暇も無く自転車は行ってしまった。
「……ま、いいか」
 ……しかし、実際は全く良くなかった。
 昨日不良共に絡まれた、比較的人通りの多い地帯にさしかかる。歩道が幅広いおかげで道行く人々と肩をぶつけ合う、なんてことはないけれども。それでも連中に体当りをかましてしまった昨日の僕は、酔っ払いを超える千鳥足だったのだろう。
 僕と同じ、学校帰りの男子学生の集団。携帯電話で恥じらいもなく喋る女子高生。自転車で何処かへと急ぐ青年。夕飯の買物であろう主婦。スーツ姿のサラリーマン。軽く視野を広げるだけで、人間の博覧会を楽しめるこの街。だけど、どこか寂しい。余りに希薄な人間存在の仕業か、僕一人だけがこの空間にいるかのよう。
 ……ここでこの眼鏡を取ったらどうなるのだろうか。それは、原子炉にドリルで穴を開けるような行為だ。他人に危害を加える前に、僕の精神が圧死する。五感という情報入力デバイスで得られる外界のデータは、余りに大きすぎる。だからこその眼鏡(リミッター)だ。
『馬っ鹿じゃねぇの?』
「……?」
 悪いが、たまたま擦れ違っただけの人間に馬鹿呼ばわりされる筋合いはないし、笑って許せるほど人間出来上がってもいない。
 振り返る。同じワイシャツとスラックスが数人。どうやら犯人はあの学生の集団の一員らしい。昨日の連中のような可能性も頭に浮かんだが、それはないと瞬間的に打ち消した。匂いも空気の肌触りも違う。さっきの自転車のこともあってか、今度こそはと意気込んでその背中を追った。
『おいおい、マジかよ? 勘弁してくれって……』
『全く、忙しいったらありゃしない』
『うっわ、何アイツ? キモいんだけど』
『一遍死ねよ』
『早くしねぇと遅刻だ、遅刻』
「!」
 我が耳を疑う前に塞いだ。道行く人々、全ての声が僕の耳に入って来る。五月蠅い、五月蠅い……!
 そして僕は、ここでやっと気付いた。そう、声はするのに誰一人として口を開いていない。見間違いなんかじゃない、紛れもない事実だ。これじゃまるで、テレパシーでも使ってるみたいじゃないか。あいにく僕は、そんな類の特殊能力持ってないし、これから身に付ける予定もない。
 東京のド真ん中、日曜日の渋谷センター街で道行く人々皆に拡声器を持たせ、その中に一人放り込まれたような気分だろうか。実際に鼓膜が空気の振動を感知することによって『音』を認識しているかどうかは分からないが、頭が割れそうな騒音だった。5.1チャンネルのスピーカーを出力最大にしてもこれ程の音は出せまい。
 無駄だとどこかで理解していながらも、耳を塞ぐ。普通の音声同様多少は和らいだものの、焼け石に水も同然だった。
 声、声、声。
 聞いてはならない、心の声が聞こえる。音の奔流は容赦なく僕に襲いかかり、飲み込む。
 歩くことすらままならなかった。なにぶん、こんな経験はこれまでなかったものだから、情報処理がすべてそちらに回されている。
『頭おかしいんじゃねえの?』
『話長いよ……』
『出たよ自己中発言』
『なんでこんな時に限って赤信号なんだよ』
 黙れと言って黙らせられるものでもない。何も思わない人間なんていないからだ。ならば、存在そのものが消えれば静かになるのか……? いや、何を考えてるんだ、僕は。
 ……でも、そう願わずにはいられなかった。

『本当に、そう願うのかい?』

 え、と顔を上げると、一人の男が僕の前に立っていた。何かを心配するような表情を、その顔に張り付けて。
「大丈夫かい? どこか、調子が悪いようだが……」
「いえ……平気です。ちょっと、くらっときただけで」
「世の中では、それを異常と言うんだよ」
 まだ九月だというのに、彼は鈍色のコートを羽織っていた。まだまだ夏服が大活躍中の街に於いて、その格好は水素ガスを封入された風船のごとく浮きまくっている。
 僕のそれとは違い、ファッション性を重視したような眼鏡の男性をぼんやりと観察しながら頭を上げる。
「無理しない方がいい。なんなら、病院まで付き添おうか?」
「大丈夫ですよ。そんな大袈裟なものじゃないですし……貧血か何かじゃないですか」
 どうもこの人は少々心配性の気があるらしい。眼鏡の奥の目はいかにもといった感じにひそめられていて、今の言葉もまったく冗談には聞こえなかった。普段であれば好意を覚えられるような人柄ではあるけれど、正直今はお呼びでない。貧血ってのも、僕を開放してもらうための方便にすぎなかった。
「心配してもらって、申し訳ないんですけど……」
「そうか……まぁ、自分の体のことは、自分が一番良く分かっているだろうからね」
「……はぁ」
 そう言って、男性は笑みを浮かべた。よく見てみると、なかなかに整った顔立ちをしている。縁無しの眼鏡も、その顔にはよく似合っていた。
「じゃあ私は行くけど、くれぐれも無理はしないように。貧血を甘く見てはいけないよ」
「どうも、すいませんでした」
「謝られる筋合いはないよ。どうせ、大したことはしていないからね」
 確かに大それたことはしていないかもしれない。けれど、声を掛けてくれただけでも、この世知辛い世の中では十分偉業に思える。
「あの、本当にありがとうございました」
 去り行く背中に投げかけたその言葉に、彼は一瞬振り向き、再び微笑んだ。


「ただいまー……っと」
 たとえ待っていてくれる人が誰もいなくても、こう言ってしまうのは人間の性だろう。帰宅するなり、僕はカバンを放り出し居間のソファーに身を任せた。
 優しく体を受け止めてくれる感覚に眠気を覚えるけれど、そのまま一時の快楽に身を任せてはいけない。一人暮らしは、いろいろとやることがあるのだ。
 とりあえず休憩という名目でそのまま五分ほどぐだーっとした後、気合一発疲れた足にカツを入れて自室へ向かう。とりあえず制服から部屋着に着替え、手帳を確認。よし、明日提出の宿題はないな。
 そうしたらまずやるべきことは、昨日の悲劇を生み出した一因である居間の片付けだ。本当なら眞吾を無理やりにでも引っ張ってきて泣いてやめてくれと懇願してくるまでやらせるべきなのだろうが、残念なことに僕はそこまで鬼じゃない。自分の家の掃除くらい自分でやる。
 ビール瓶に空き缶(もちろんアルコール)、つまみの類の包装から日本酒、果てにはどこの国のだから分からないような言語で書かれたラベルのビンまで出てきた。
「……なんだこれ」
 と僕が呟かずにはいられなかったのも仕方ない。大方酔った眞吾が出歩いてどこかから拾ってきたのだろう。長さ三十センチほどの木の枝が発掘された。無論、迷うことなくゴミ袋にぶち込む。
 そうして大きなゴミを片付け、隅々まで掃除機をかけ、やっと元のきれいな部屋に戻ったなぁ、と僕が一人自己満足に浸っていた時だった。
 壁の向こう――誰も居るはずのない隣の部屋から、何か物音がした。
 気のせいかな、で済ませることはできなかった。その場で全神経を尖らせて見えない壁の向こうの様子を伺えば、確実に人の気配がする。
 仮にも駅前の立地条件良好なマンションの空室なわけだからもしかすると誰か新しい人が引っ越してくるのかもしれなくて、今日はその下見とかそんな可能性もある。だけど大家さんからは何も聞かされてないし、もし僕の頭に浮かんだ可能性とは異なり、どこかで鍵を手に入れたりした不埒な輩が不法占拠しようとしているという可能性だって否定することはできない。
 そうした場合、僕はここで正義の住人として悪に制裁を加えるのが筋というものだろう。
 ……いや、ごめん。ホントはお隣さんが若くて綺麗なお姉さんとかだった場合、第一印象良くしておいたほうが良いなぁ、とかそれくらいしか考えてなかった。もし引越しとかそんなのじゃなくても、ここで僕が出て行って僕が損するようなことはないだろうし。多分。
 鏡で軽く身だしなみを整えて――ホント、僕も馬鹿だよなぁ――期待に胸躍らせながら隣家の扉をノックする。だが――
「…………」
 無反応。思わず僕も無言になる。もう一度ノックしても無反応、さらに一回やっても無反応、三・三・七拍子でたたいても無反応だった。何だ、やっぱり僕の気のせいだったのか……あほらし。
 ちょっと自嘲気味に笑って、でも往生際悪く回るはずのないドアノブをひねってみる。
「嘘だろ……」
 ここは鍵がかかっていて欲しかった。誰もいないはずの部屋。だけど鍵は開いている。まるで入って来いと手招きしているかのように――
 こんな展開の場合、大抵中で待ち構えているのはロクなものじゃない。ホラー体験とか、サスペンスな死体とか。だけども。
 入りたくて仕方がないのもまた事実だった。僕も所詮は好奇心旺盛な十七歳なのだ。
 進もうとする体を頭が止める。だけど結局、人の理性なんていうのは脆いもので。
 失礼します、と呟き僕は室内へと足を踏み入れた。
 一応玄関で靴を脱ぎ、薄暗い廊下を真っ直ぐに歩く。同じマンションの同じ階というだけあって、内部の構造は僕の部屋と瓜二つだった。
 自分が某国の秘密潜入捜査官にでもなったかのような気分でゆっくりと居間への扉をくぐったときだった。
「――動くな」
「!」
 頚部に圧力。何者かが、僕の真後ろに立っている。その澄んだソプラノからするに、相手は女だ。……って、どこかで聞いたことある声だったような。
「妙な動きを見せたら、そこでお前の頚動脈を――」
「ちょ、ちょっと待ってよ霧橋さん! 僕だよ、柳だよ!」
 僕はひしひしと感じていた。彼女の言葉に嘘偽りなど一つもなく、現在僕の首筋にかかる白く美しい人差し指一本あれば、僕など一瞬で刺身にされてしまうであろうことを。
 殺気が、すべてを語っていた。
「柳……?」
 さすがの霧橋さんも気付いてくれたか、ちょっとだけ緊張感が緩む。指はどけないんだけどね。
「馬鹿を言わないで。そんな妙な格好をした人間が柳であるはずない」
「妙な格好……?」
 言われてちょっと今の自分の姿を確認してみる。着古したジーパンに無地の半袖Tシャツ、その上にグレーのアウターを羽織った、ごく普通の私服である。妙な恰好などと言われる筋合いは微塵もない。
 心の中で手のひらに人という字を書いて三回飲み、改めて確認してみると、後方から僕の首に伸ばされている手は――明らかに僕の学校の制服の袖から伸びていた。
 ……ここは一つ、試してみようかな。
「霧橋さん、もしかして……制服しか知らないとか? いや、まさかそんなことはないと思うけどさ」
 命のやり取りが行われようとしている場だというのに、実に緊張感のない場違い甚だしい質問である。当事者の僕がこう言うのだから間違いない。
「……何をいきなり言い出すの?」
「ひっ……」
 すいません、と謝ろうにもその前に指が喉に食い込んだのだからどうしようもない。その言葉は食後のデザート並みにあっさりと飲み込まれてしまった。
 瞬間、僕は死を覚悟した。多分天国にいるだろう父さん、母さん。今会いに逝きます。地獄に落ちてたらあなたたちのことは忘れて幸せに死後の人生を送ります。
 漂う殺気が密度を増した。僕を思い切り瞼を閉じ、歯を食いしばる。
 歯を食いしばる。歯を……
 食いしばったのは良いけれど、いつまでたってもそのときは訪れなかった。
「あの……霧橋さん?」
「…………」
 ふっ、とその場に漂っていた緊張感が消え去った。それと共に、僕の喉元を狙っていた指も離れる。
 どういうことだ? とりあえず、僕の命の危機は脱したようだけど……
「冗談。貴方が余りに必死だったから、ちょっと遊ばせてもらった」
「へ?」
 そう言って笑みを浮かべる霧橋さんを、僕は馬鹿みたいに口をあけて眺めることしかできなかった。
 冗談? 遊ばせてもらった? なんか、それにしてはやけに本気っぽかったような気がするけど。でもそんな突っ込みはしないでおこう。気が変わられたりでもしたら大変だ。
「冗談って……そんな、命がけの冗談はやめてくれよ。しかも懸けられてるの僕の命だし」
「私の家に勝手に上がりこんだ罰。鍵が開いていたからといってのこのこと入るものじゃない」
「確かに勝手に入ったのは悪いとは思うけど……」
 霧橋さんのおっしゃることは極めて正論だ。今回のこの一連の騒動、といっても僕が一人で焦りまくっていただけだが、原因として僕の過失が一番に挙げられることは認めよう。潔く。
 だけど、霧橋さんの言葉には一点、引っかかる場所があった。
「……って、私の家?」
 彼女自身は当然のことだとばかりにすらっと言ってくれたけれども、当然僕にはそう受け止められることじゃない。
 薄暗さと緊張感で観察する暇がなかったのだけれど、改めて見回してみると部屋の中には家具が何点か、申し訳程度に並べられている。テーブル、ビデオ内蔵テレビ、空っぽの棚……あいにく居間にはこの程度の品しか見られなかった。なんというか、あまり生活観の感じられない部屋である。まぁ、そもそも今まで生活していなかったのだけど。
「そう。対象を観察するにはなるべく近いところに拠点を置く必要があるから。ここならば、ほぼ四六時中あなたを監視することができる」
「え……?」
 対象、観察、監視。一転、物騒な話だ。
「何呆けた顔をしているの? 言ったでしょう、私の目的は――」
 一歩、彼女が僕に歩み寄る。
 元々近かった二人の距離はさらに狭まり、ほとんどくっついているような格好になる。
 男の僕のほうが背丈があるため、彼女の視線は自ずと上へ向けられるものになるのだけれど――
 彼女と僕の視線が交錯した瞬間、全身の筋肉が硬直した。
「貴方を、殺すこと」
 威圧感に、僕は情けなくもふらふらと後ずさり……フローリングの上に力なく腰を落としてしまった。
 それを哀れに思ったのか、彼女はまぁ、と付け足す。
「でも、それはあくまで極論。今の任務は柳巽の経過観察。貴方が能力を発現させ、暴走しない限りその命を奪うような真似はしない」
 少なくとも、霧橋さんの目は、嘘を吐いているような目ではなかった。
 ただ、冷静に事実だけを伝える。先ほどの冗談などという人間らしい行為からは考えられないような、機械的な目だった。いや、本当の彼女はこちらなのかもしれない。そう自分で思っておきながら、なんだか胸が締め付けたれた。
「どうしたの、私の顔に何か付いてる?」
 そのくせ、こんな子供みたいな純真な顔もする。どこかで見たことある、顔。
 いまいちつかめない人だ。殺人鬼のような殺気、自動人形のような冷たさ、子供のあどけなさ。いつも一面だけを見せ続ける月とは違い、彼女のそれは実にバリエーションに富んでいる。
 前言を撤回しよう。霧橋月愛は人間らしくない、などというのは嘘っぱちだ。彼女だって僕と同じだ。ちょっと常識がないだけで、中身は普通の高校生の女の子。感情だってちゃんとある。
「……貴方、百面相? つらそうな顔をしたかと思えば、いきなり笑い出して」
「え?」
 言われて気付く。無意識のうちに僕の口元は緩んでいたらしい。なんでだろう?
「きっと、面白いことでも見つけたんだよ」
 微笑を崩さぬままで言った。ちょっと脚色されてるけど、あながち嘘ではない。
 ま、相変わらず尻餅をついたままの格好だからルックス的には最悪なんだけど、どうしてもこれだけは回避できない理由があった。
「でさ、霧橋さん。一つ頼みがるんだけど」
「何?」
「手を、貸してくれないかな。腰が抜けたままなんだ」
 あ、すごい馬鹿を見るような目で見られた。


 その後の協議の結果、僕と彼女がお隣さんであるという事実はなるべく隠匿するということで同意した。というか、ほとんど僕が一方的に決めたことなんだけど。何せ僕はまだ七十五日の真っ只中なのだ。これが無期限などになったりしたらそれこそ自分探しの旅に出るしかなくなってしまう。
 どうして学校で一番中の良い友人が歩く拡声器同等の存在だったのか、あらゆる可能性とその確率をぼんやりと頭の中に描きながら、僕はベッドに寝転がって天井を眺めていた。
 白い、無機質な天井。寝返った先にも、白い無機質な壁。
 あの壁の向こうで、霧橋さんが暮らしている。今思えば、あんな何もない部屋でどうやって時間を潰しているのだろう? そういえば箪笥とかも見当たらなかったような気が。自分の部屋にあるのかもしれないけれど……
 む。
 何でだろう、特にきっかけもなく、想像というか妄想ワールドが拡大を始めた。所詮は僕も若人だということか。ああもう、一度浮かんだらなかなか離れない。静まれ、僕。
 ……よしOK。僕は冷静沈着通常営業。
 もし万が一、この一連の思考遍歴を見られるようなことがあったならば、今度こそ僕は頚動脈を掻っ切られる覚悟をしなくてはならない。
 ――ずきり。
「……っ」
 不意に、またあの頭痛に襲われた。
 最近、どうも頭の調子が悪い。いや、勉強が出来る出来ないとかの問題じゃなくて、単純に体調の面でだ。あまり意味はないと思うけど……薬でも飲んでみようかな。もしかしたらってこともあるかもしれない。
 薬と名の付くものはとにかく居間の茶箪笥、その引き出しの中に全部ぶち込んである。一応僕だって人間だから、昔病院にいったときの残りとかがあるかもしれない。
 身を起こし、居間へと足を向けたとき。
 足元で、ぱきっ、という乾いた音がした。
「?」
 どうしてこんなところに木の枝が落ちているのだろう。
 ちょっとだけ疑問に思うけれども、今は頭痛のほうが先決だ。大方、自分で外から引っ掛けてきてしまったのだろう。それくらいしか思いつかないし。
 さて、薬は……と。
 引き出しの中をがさがさとあさっても、出てくるのは病院で貰う白い紙袋に入った薬と市販の風邪薬くらいなもの。いや、探していたものは確かに出てきたのだけれども、僕は肝心なことを忘れていた。
「……どれが頭痛薬なんだよ」
 錠剤なんてどれも同じに見えるし、薬の名前が分かったところでその効果まで知ることは出来ない。どうすりゃいいんだ。こうなりゃ、片っ端から呑んでやるか?
 そんな危険な思想から僕を引き上げるかのように、唐突に来客を告げるチャイムが鳴り響いた。しかも連打してやがる。ああ、やめてくれ。甲高い音が頭に響く。
「はいはい……」
 半ば千鳥足のようになりながらふらふらと向かい、扉を開けた瞬間だった。
「っ!」
 目の前に現れた黒い小さな影に、押し倒された。
「な、何なんです……!」
 打ち付けた後頭部の痛みに耐えながら問おうとして、僕の目にそれが飛び込んできた。
 そいつが身に纏う黒い外套の中から出てきた、一本の業物。そしてその剣先は今、僕の喉元に突きつけられている。ああ、今日二回目。などと意外と冷静に涙を流せる自分に驚いた。
「ははっ、今日はあたしの勝ちみたいね、月愛!」
 月愛? それってやっぱり、霧橋さんのことか?
「……あれ?」
 やってることは強盗犯そのものなそいつは、行動とは似ても似つかぬ甲高いソプラノで疑問をあらわにした。そりゃそうだ。彼女が求めていた人物が僕であるはずがない。
「あんた誰? 月愛をどこにやったの?」
「……その前に、この刀をどけてくれよ。こんな物騒なもの突きつけられたままじゃ、話せるものも話せない」
「あ、ごめん」
 先ほどとは異なり、意外なほどにあっさりと彼女は武器を納めた。離された刀は、彼女の外套の中に消える――って、え?
 その世紀のマジックショーを間近で見せ付けられ、呆然としている僕に彼女は問うた。
「で、もう一回聞くけど。あんた誰?」
 彼女の顔はフードに隠れて確認することが出来ない。彼女彼女といっているけれども、それはあくまで声からの推測だ。もしかしたら男だったなんてオチも十分にありうる。
「人の名前を尋ねるときは、自分から先に名乗り出るのが礼儀だと思うんだけど」
「……注文多い奴だね。まぁいいや。あたしは――」
 言うと同時に、彼女はフードを取った。その下から現れたのは、透き通った銀色の髪と、銀色の瞳の少女だった。明らかに日本人の色ではない。しかし、口から発せられる日本語は完璧そのものだった。年齢的には、僕より一つか二つ下くらいだろうか。
 しかし、何故だろうか。確実に初対面であるはずなのに、彼女とは初めて会ったような気がしない。彼女の纏う空気を、どこかで感じたことがある。
「シルフェリア。シルフェリア・ヴァルド。シルフィとでも呼んで。あなたは?」
 うわ、やっぱり外人か。でも、ここで怖気づくわけにはいくまい。
「僕は巽。柳巽」
「ヤナギタツミ……?」
 なぜか彼女――シルフィは不思議そうな、それでいて納得したような表情を浮かべていた。理由なんて知るはずがない。
「ふぅん……まぁいいや。それで、本題。タツミ、あなた、月愛をどこにやったの?」
 表情が一変、厳しいものとなり、強い光を放つ双眸が僕を見据える。
「と、隣。隣の部屋だよ。だってここは――」
「月愛の家じゃないの?」
「……僕の家です」
「へっ?」
 まったく、表情がころころと変わる人だ。さっきまでの厳しさはどこへやら。一転、ごく普通の女の子のような、大慌ての顔となる。
「表札をちゃんと見てよ。柳、ってなってるだろ?」
「うあ……こりゃとんだ間違いを。ごめん」
「いいよ。間違いくらい誰にでもあることだし」
 入ってきていきなり押し倒し刃物を突きつけることが果たして間違いの一言で済まされていいのかどうかはすこぶる疑問の残るところだけど。まぁ、そうしてしまうあたりが僕のお人好したる所以なのだろう。
 申し訳なさそうな表情を浮かべていた白黒の少女は、僕のその言葉に反応してか、満面の笑みで言った。
「そうだよね、そう言ってもらえると気が楽だよ。じゃ、あたしはお隣さんに用事があるから。これで失礼するよ」
「はいはい。今度は強盗まがいなことしないように……」
 その僕の忠告に、シルフィは何も答えずに外套を翻した。
 ……なんか、すごく嫌な予感がする。
 流れる嫌な汗に耐えられなくなって、僕はいつの間にかシルフィを呼び止めていた。


「ねぇ、どうしてタツミがドアを開けるわけ?」
 そりゃ、あなたが開けたらまた同じことする気でしょう。しかも、相手は霧橋さんだし。僕みたいに大人しくやられるはずがない。間違いなく反撃に出る。そうすれば、血みどろの戦いになることは必須なわけで……
 要するに、人の家の隣でそんなことしてほしくないってこと。
 外套の中に右手を突っ込んで呼び鈴を押そうとする彼女を見れば、隣人でなくとも止めたくなるだろう。
 ぶーぶーと文句をたれるシルフィには適当な笑顔を返しておいて、呼び鈴を押す。程なくして、目の前の金属製の扉が開いて――
「へっ?」
 重力の方向が変わったのだろうか。体が、前のめりになる。一瞬の間をおいてから自分が中に引き込まれたのだということを理解する。床に胸を強打。痛い。
 そして首筋には、何かが突きつけられている気配。
「……柳?」
「ははは……」
 本日三回目。もう、泣きながら笑うことしか出来なかった。
「やっほー、月愛。相変わらずだね」
「シルフェリア……」
 すいません、感動の再会もいいのですが……僕をどうにかしてもらえないでしょうか。
 そんな僕の願いが届いてかどうかは知らないけど、霧橋さんの指が首筋を離れる。その隙を突いて、僕は彼女の支配下から逃れた。
「ちょうど、二年ぶり。引退して、隠居しているというのは聞いていたけれど……」
「あたしもびっくりだよ。まさか、静かに暮らしてたこの町にまであの人の手が及ぶなんて――」
「シルフェリア」
「ん?」
「へ?」
 霧橋さんがちょっと困ったような視線を僕に向ける。珍しい顔だ。
「柳、悪いけれど……」
「ごめんね、ちょっと二人にしてもらえるかな」
「ああ、分かった。水を注すような真似はしないよ」
 いくら物騒であろうと、旧友との感動の再会には変わりない。いや、旧友かどうかは知らないけどさ。とりあえず、旧い知り合いであることには違いないだろう。
 仲間はずれにされたような気がしないでもないけれど、僕は自分の部屋へと戻った。

◆◆◆


 また、夢を見た。
 家の中、僕と彼女が紙で工作をして遊んでいる。四つ切りの画用紙は小さな体に比べるとあまりに大きくて、でもそこから見出すことができる無限大の可能性は僕たちの好奇心を満たすには十分だった。
 ちょきちょき。がさがさ。
 僕らの間に言葉はない。ただ無心に紙を刻み、折る。格闘という形容がまさにぴったりだった。
「あっ……」
 と、不意に彼女が短い声を漏らした。見ると、人差し指の先から赤い液体が漏れている。カッターナイフなどという、おおよそ幼児には危険すぎる代物を扱っていた所為だろう。
 痛みが段々と感じられてきたのか、彼女の大きな目に涙の粒が浮かぶ。表面張力で膨らむそれは、今にも弾けそうだった。
 それを見て幼い僕も流石に慌てた。不幸にも互いの両親は不在で、救急箱の在り処なども分かるはずがない。ひとしきりおろおろした後、僕は彼女の前に膝をついた。
 そしてそのまま、彼女の人差し指を口に含んだ。
 口の中に広がる鉄の味はお世辞にも気分がいいのもじゃなかったけれど、痛みと怖さに怯えるそのか弱い姿を見て、ただ傍観していることはできなかった。
 とりあえず出血は止まり、二人でそれらしきところを片っ端から掘り返した結果発見された絆創膏を傷口にぺたりと張り付けて治療は終わり。普通サイズの絆創膏なのに、大きすぎる絆創膏を張っているように見えた。
「……ありがとう」
 笑顔で贈られたその感謝の言葉を、僕は頬を掻きながら受け止めた。

◆◆◆


 そしてまた、僕に会った。
『楽しいユメは見られたか?』
 僕は問われ、そして首肯した。
『ならばいい。が、ユメは眠りの中でのみ見られるからこそ儚く、美しい』
 そして僕は、僕の瞳を覗き込んだ。
 僕の瞳に映った僕の眼は、どこまでも黒く、深い闇だった。
『ユメに縛られるな。その時は、俺がお前を縛ろう』
 意味も理解できないその言葉だけが、僕の意識の奥底に吸い込まれていった。

◆◆◆








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