第一章  冷たい嗅覚




 近頃、どうにも夢見が悪い。内容をはっきりと覚えていないのが不幸中の幸いだけど、夢の中で感じた不快感だけは抜け切らなかった。一日のスタートラインに立とうとしたら地面に落ちていたガムを踏んでしまったような、そんなテンションの下がり方だ。 けれど、だからといってそのままのんびり惰眠を貪るわけにもいかない。ゆっくりと、柔らかで温かい布団との別れを名残惜しみながら体を起こすと、案の定、気分の通り異様なだるさを覚えた。そんなやる気の起きない体に鞭打ちながら、いつも通り居間へと向かい、窓にかかったカーテンを盛大に開ける。瞬間、目が潰れるかと思うくらいの光が差し込んだ。頭痛を伴うほど眩しい朝の日差し。まだまだ夏の余韻を残している九月の空は、遠目に入道雲が映るものの、おおむねさわやかな晴天と言えるものだった。陰鬱な気分も少し和らぐ。しかし、気分だけだ。体のだるさは相変わらずだった。
そうして数分間朝日を浴びた後、いつも通りの支度を始める。まずは部屋に戻って制服に着替え、大して入れ替わらないカバンの中身をチェック。よし、問題なし。その鞄を居間のソファーへと放り投げ、台所へ移動。だるさ及び頭痛と戦いながら、半分体に染み付いた朝食の準備をする。トーストと目玉焼きにブラックのコーヒー。毎朝変わらないメニューだ。というよりも、この献立が一番時間と相性がいい。
「いただきます」
 テーブルの上に並んだ料理に手を合わせる。朝は時間との勝負、といえどもこれだけは欠かせない。昔、散々しつけられた名残だ。もう癖になっていると言ってもいいかもしれない。
 何も付けないトーストに噛り付き、目玉焼きには当然塩をかける。そういえば、世の中には目玉焼きにマヨネーズやら味噌やら砂糖やらをかける人がいるらしい。僕は断然塩だけど。やっぱり、素材の良さを活かす食べ方が一番じゃないか。  と、そんなどうでもいいことを考えながらコーヒーを啜っていたときだった。毎朝見もしないのに付けっぱなしのテレビに映った女性アナウンサーの口から、聞きなれた単語が放たれた。

 昨晩、深夜一時ごろ、茨城県築波(ちくなみ)市の路上で女性の死体が発見されました。遺体には数十箇所にわたって鋭い刃物による切り傷があり、死因はそれによる失血死と発表されています。警察は殺人事件として捜査を――

テレビに映ったその景色は、僕の記憶のライブラリーにあるものとぴったり一致した。なんてこった。通学路のすぐ脇じゃないか――!
と、一応の恐怖と驚きは感じるものの、結局は対岸の火事。現場が近いだけの話で、親類や知り合いが殺されたわけでもなし。僕には全く関係ない。そのまま、単なる地元の出来事として記憶の片隅にとどめられて、思い出されることもなく消えていくのだろう。
 と、僕の注意はそのニュースよりも画面隅に映るデジタル表記の時間にひきつけられた。七時五十五分。やばい、これ以上のんびりしてたら走らなきゃいけなくなる。だが、まだテーブルの上には食べかけの目玉焼きとトースト。迷っている暇はなかった。有名なアニメか何かでやっていたように目玉焼きをトーストの上に乗せ、そのままじゃ味が薄すぎるので塩を適当にぶっ掛け、口の中に押し込む。そしてそれを苦いコーヒーで流し込めば証拠の隠滅は完了。
「ごちそうさまでした」
 再び手を合わせ、ソファーの上の鞄を引っつかんで僕は部屋を後にした。もちろん、その間にテレビの電源を消すのは忘れない。  さて、玄関の鍵は……と。マンションの一室、その外廊下に飛び出したまではいいけれど、鞄をいくら漁っても、施錠するための鍵がなかなか出てこない。やっぱり、適当に色々小物を突っ込んでるポケットへ鍵も一緒に入れてるのがまずかったか。ポケットティッシュやらガムの包み紙やら。後で捨てておこう。
 手探りでごそごそやることおよそ二分。やっとそれらしき感触を掴んでサルベージして――
「ん?」
 ポケットの出口で何かに引っかかった。でも、構うもんか。どうせ大したもんは入ってないんだ。ということで即決、力を込めて引っ張った。
 するとやっぱり、鍵はキーホルダーごとサルベージされたものの、その引っかかっていたもの――生徒手帳が、上手い具合に廊下をすすーっと滑っていった。そんな滑りやすい材質じゃないのに、それはそれは見事なスライディングだった。
 さすがに拾わないわけにはいかないよなぁ。正直、拾うのもかったるい。
 そんな僕のダメな意図を汲み取ってくれたのだろうか。廊下の生徒手帳は、誰かの手によって拾い上げられた。
 手帳に意識を集中させていたせいか、全くその人の接近に気付けなかった。手帳の落ちていた廊下から、その動きに合わせて視線を上げていくと。
 そこには、一人の少女がいた。
 うわ、かなり美人――と思ったところで、僕は全身の筋肉が緊張するのを感じた。
 拾った生徒手帳に向けられていた彼女の視線が僕へと方向転換した瞬間。
 ――すこし、寒気がした。だけど、それと同時に、微かな懐かしさのようなものも感じる。
 そして、少女が無言で差し出す生徒手帳を、僕は無意識のうちに受け取っていた。
 それで用は済んだと言わんばかりに、少女はやはり無言で僕の脇を通り抜ける。僕はそれを止めることはおろか、振り返ってその姿を再び確認することすら出来なかった。
 なぜだろう。心臓の鼓動が早い。
 しかし、誰なのだろう。ここにいたということは、このマンションの住人か? でも、あんな人見たこともない。この階に引っ越してきた人ならば、いくらなんでもその時点で気付く。そもそも、この階で空き部屋というのは僕の家の隣しかないのだ。隣人の登場に気付かないほど僕も馬鹿じゃない。まぁ、僕のいないうちに全作業が終わっていたのなら別だけど。
 でも、なんだったのだろうか。あの――冷たい目。全身の神経を切り裂かれたような、そんな金縛りにあった気分だった。けれど、今思い返せば案外見た感じはかなりよさ気だった。うん、眞吾風に言うならば上玉って奴かな。
 そういえばあの娘、どこかの学校の制服着てたな……どこの学校のだっけ?
 彼女が僕の通う高校の制服を身に纏っていた事実に気付くは、その一分後だった。


 僕の家は割と駅前な、交通の便や買物には不便しない、なかなかに好条件なところにある。家、といってもマンションの一室だけど。
学校までは歩いて二十分。自転車を使ってもいいかもしれない距離だけど、盗まれたり何だりでいろいろと厄介そうだから徒歩通学で通している。どうせ大した労働じゃないし。
 途中、いつもは何も気にすることもなく通り抜けているはずの商店街。人々がゆったりと独特の雰囲気で――いや、今日は微妙に違うな――開店準備を続ける中、その外れで一箇所、異質な空間が僕の網膜に映った。
 そうか、ここが。
 テレビドラマとかでよく見る、KEEPOUTの黄色いテープ。不景気のあおりをもろに受けて、駅前という好条件にもかかわらずテナント募集の広告がずっと頑張り続けている貸ビルの合間。よほどの物好きか、もしくはやましいことでも抱えた人間しか入り込まないような空間も、今日は多少人口密度を増している。
 というのも、発見からすでに数時間が経過した今、ドラマのように写真や指紋を取り捲る鑑識官やタバコをふかすいかつい刑事などもおらず、いるのは残業を食らったような警官数名と、僕のような野次馬だけだった。寝間着姿のおっさんもいれば、鈍色のコートを羽織った妙な男もいる。もっとも、その野次馬も朝早いせいか数えるほどしかいないけど。商店のおじさんおばさんたちも至って平静を保っているみたいだし。
 しかし僕は、見てしまった。
 ――ずきり。
 頭痛と共に、言いようもない気持ち悪さが体を駆け抜ける。思わず口を覆った。そうでもしないと胃の中身を全てぶちまけてしまうような気がしたから。
 ……壁面に描かれた、紅一色の画。それを何かしらの芸術と呼べるのならば、作者は稀代のセンスの持ち主に違いない。
 ――なんとなくそれは、詩(うた)であるように思えた。
堪らない歓喜が、ぶち撒けられた赤い液体から伝わってくる。
 こんなことを感じてしまう僕の感覚はおかしいのだろうか?
 その場にい続けると本当におかしくなってしまいそうな気がして、僕は相変わらずの吐き気と頭痛を引き連れたままその場を後にしようとして――
 見覚えのある顔を発見した。
 野次馬の一番後ろ。まるで風景と同化するかのように気配を絶って、彼女は佇んでいた。心なしか、歯をかみ締めているような顔をしている。その視線の先は、あの現場だろうか。
 そんな顔をしているってことは彼女もこの事件の関係者なのかもしれない。遺族……ではなさそうだけど。いや、僕の勘なんだけどさ。
 そして彼女は、そのまま僕に気付くことなく制服を翻して去っていった。やはり、向かう先は僕と同じ方向。同じ学校の生徒だったんだな。
 ……僕も、行こう。
 頭に焼きついた紅い光景を振り払いながら、僕は足を動かした。


     商店街を抜け、ちょっとした林を出ると、巨大な灰褐色の校舎が目に入った。どうにか吐き気はおさまったものの、頭のほうは治まってくれる気配がない。こんなざまで授業なんか受けていられるかな? そんなことを思いながら、登校してくる他の生徒の波に一体化し、三階の僕の教室へと向かう。すでに半分以上の生徒が教室にいた。ある者は友人とだべり、ある者は授業の予習をし、ある者は睡眠の補給をし――
 そんな彼らの中でも友人と呼べる連中と適当な挨拶を交わし、僕は席に着いた。窓際の列、後ろから二番目。どうせなら一番後ろが良かったけれど、こればっかりは運任せだからどうしようもない。
この暑さの中歩いてきたからだろうか、椅子に座るとどっとだるさが増した。自分の所に合わせて窓を開ける。吹き込む風が気持ちいい。この調子なら、何とか保ちそうだ。
「おーっす、巽(たつみ)。相変わらずシケたツラしてんなぁ」
そんな時、やけに馴々しく挨拶をしてくる奴がいた。まぁ、誰かなんて考えるまでもない。がっしりとした体躯に健康的に焼けた肌。それでいて頭髪はスポーツ刈りという、運動してますと自己主張してやまない外見のそいつは、一応、名目上はこの学校における僕の一番の友人だ。名を、八坂眞吾(やさかしんご)という。
「……今日は放っておいてくれないか? 凄く、気分が悪い」
せっかく風に当たっていい気分だったってのに。あんなノリで暑苦しい顔を見せつけられたらすべてが水泡に帰すに決まってるじゃないか。いや、それどころか悪化するぞ。
「というか、お前がいるから気分が悪い」
「うわ、ひでぇ。それが心配してくれてる素晴らしい友人に対する言葉か?」
「お前がいつ僕を心配したんだよ」
「細かいこと気にすんなって。そんなんじゃ女にモテないぜ。そう思わない? 飛鳥ちゃんもさ」
「え?」
僕と眞吾の不毛極まりない会話から突然話を振られた隣席の少女――甲江飛鳥(きのえあすか)は、困ったような笑みを浮かべた。ま、そりゃそうだろうな。僕だったら無視するけど。
「ああ、甲江さん、真面目に答える必要なんて無いよ。むしろ無かったことにしてもいい」
「うげ、ひどい言い様じゃねぇか」
「その程度で十分なんだよ」
僕としては、本当に真剣に答えを考えてしまっている甲江さんが気の毒で声を掛けただけなんだけど。この純真そうな女の子を眞吾の毒に侵させるわけにはいかないし。白地のものを汚すのって気が引けるのと同じ理屈だ。
「僕の中じゃ眞吾は食物連鎖の最低ランクに位置してるからね。ちなみに同レベルの生物はミトコンドリアやアオミドロなどなど。あ、でも光合成しないか」
「俺は微生物と同レベルかよ」
「うん。顕微鏡が必要だね」
「俺はてめぇの脳細胞を見てみてぇよ。どこからんな毒舌が出てくんのか」
「さぁ? まだ人類の到達していない域からじゃない?」
 ボケとツッコミ、そして毒舌の応酬。昔から繰り返されてきた、もはや脊髄反射的な行動パターンだ。こんな下らない漫才が身に染み付いちゃってるってのもなんか無性に泣きたくなるような事実だけど。
「あ、あの……柳くん」
「ん、甲江さん、どうしたの?」
一般人では決して踏み入ることのできない、というか踏み入れたくないだろう異様な世界を作り上げていた僕らに、甲江さんは恐る恐る声を掛けた。なんか、同情したくなるくらい可哀相だな。なんかおろおろしちゃってるし。いや、それはそれで保護欲というか某金融会社のCM犬を思い出させるような感じではあるんだけど。
で、その用件は。
「先生、とっくに来てるんだけど……」
「……マジかよ」
 そのつぶやきと共に、眞吾は大急ぎで自分の席へと戻った。
 咳払いをし、こちらを睨み付ける担任・粕谷先生の視線がヤケに痛い――
 ずきり。
「っ……」
 再びの頭痛。だが、度合いが桁違いだ。さっきまでのが擦り傷だというのならば――今度のは、肩から脇腹にかけて袈裟切りにされたような。そんな鋭い痛み。
 余りの痛みに、思わず頭を抱える。しかし、そんなことで痛みが軽くなることもなかった。むしろ増している。痛くて、熱い。
「えー、突然なのですが、今日――」
 言葉が入ってこない。痛い、痛い、痛い、イタイ。脳味噌が頭蓋を破り飛び出そうとしているかのよう。もしかすると、脳漿が沸騰しているのかもしれない。
 幸か不幸か、クラスの人間どもは皆、僕の異変に気付いてはいなかった。助けて欲しかった一方で、声をかけてくる人がいなかったのは有り難いと、僕の中で誰かが安心している。
 ……今、何かを思いきり壊したかったから。
「――彼女が、転校生の――」
転校生? なんだそれは。きいていない。ぼくのきょかもえずに、なんでかってに。
 自分でも信じられないくらい恐ろしく身勝手な思考――それに心を任せ、僕は前方を睨み付けた。
 全員が視線を向ける、その先にいたのは、この学校の制服に身を包んだ少女だった。
 まず訴えかけてきた視覚情報が言うには、もっとも目立つのは長く伸ばされた彼女の艶やかな黒髪。あれだけ長ければ結ぶなり何なりしないと邪魔だろうに、全く無視でそのまんまである。前髪で隠れるか隠れないか、覗く目つきは冷たく、鋭い。射抜かれる――というよりも、切り裂かれそうな眼だった。
 なぜだろう。そんな美しい彼女を、僕は壊したくなった。
 あの強さが、恐怖に染まる。見たい。だが、彼女は強い。互いに、命を賭ける羽目になるだろう。だが――それはそれで面白い。
 灼熱する脳で、僕は眼鏡に手をかけた。これを外せば、僕は――
「霧橋月愛(きりはしつきめ)。よろしく」
 手が止まる。
その言葉だけが、混沌とした頭に一滴の清涼剤のごとく、澄んだ響きをもって染み渡った。熱された脳も冷やされていく。その言葉の冷たさか、あるいは、彼女の放つ冷たい匂いか。
 ……僕は一体、何をしようとしてたんだ。
 冷静さを取り戻した頭で状況を整理してみる。僕は甲江さんに話しかけられて、先生が来て、いきなり頭が痛くなって、でもあの声を聞いたら急に楽になって……ていうか彼女、今朝マンションで会った人じゃないか? そういえば、商店街でもあったような、いや、別人?
よく分からない。駄目だ、最近、集中して物事を考えられなくなっている。悪い兆候だ。今後の学校成績に関わる。
「では、これでHRを終わる」
 粕谷教師の言葉で教室は一気に活性化する。そして、幾分も待たずに、教室の一角に黒山の人だかりができた。そう驚くことじゃない。ある程度は予想できたことだ。
 しかし、転校生というのはそんなに珍しいものなのだろうか? それに、僕は彼女をあまり好きになれない。さっき感じた冷たい匂い、聞こえてくる機械的な応答。それに、肌で感じる空気。それとも、あの血の匂いが充満する場所で見た、あの顔のせいだろうか。
 僕でなければ分からないものだけれども、僕からすれば彼女は、何というか。
 普通の人間とは、どこか違うような気がした。


 だるさと頭痛は時間に比例して上昇していった。現在は昼食前の四時間目、体育の授業である。このクソ暑い中、体育館で僕はバスケをやっていた。
 実際の所、僕はバスケが得意というわけではない。だが、本気を出せばそれこそNBAでもやっていく自信はある。この眼鏡を外せば。やる気はないが。
 故に、適当に走って、適当にボールをついて、適当にやっていたはずなのだけれど――
 気分が悪い。頭が痛い。授業を休んで見学するほどではないと思っていたのだが、間違った選択だったらしい。
 まずい、このままじゃ、確実に――
 視界が狭まる。床が近付いてくる。いや、これは僕が倒れているんだ、などとありがちな錯覚を起こし、さらには派手な音まで立てて、僕はぶっ倒れた。

◆◆◆


 夢を見ていた。昨夜のような悪い夢じゃない。ただ、良い夢だったかと問われれば、肯定することも難しい。
 過去の体験だった。僕も、目の前の女の子も小さくて。まだ、子供で。ああ、これは、あの日なんだな、とどこからか見ている僕がもらした。今まで忘れかけていた。でも忘れてはいけないことだった。
 最後の日。
 これが、彼女の顔をまともに見ることができた最後の日だった。
 僕は、いつものように下らない砂遊びに興じ、彼女はそれを笑顔で眺めていた。明日が分かっていれば、もっと気の利いたこともできたのに。だけど、当然ながら未来を知ることなどできるはずがない。その日の別れ際もいつもと一緒だった。
「じゃあね、たーくん。また明日!」
 いつもと変わらぬ笑顔で。僕も無邪気に手を振り返して。おばさんに手を引かれて彼女は家に帰った。
 また明日。
 最後の言葉だったような気がする。

◆◆◆


「……!」
目を覚ますと、視界には白い無機質な天井が飛び込んで来た。実際には有機物だろうけど。
「や、柳くん……!」
「甲江、さん?」
 ぼんやりとしたまま、声のした方へ顔を向ける。どうやら僕は寝かされているらしい。目に映るものすべての角度がおかしかった。
 というか、目覚めてから最初にみた人間が体操服姿の女の子ってのはどうかと思う。倫理とか人格的に。
「あれ、僕……」
「お、やっと起きたか」
 ベッドを仕切る白いカーテンの向こうから、眞吾が顔を出した。
「ぶっ倒れんならぶっ倒れるって前もって言っとけよな。そうすりゃ、こっちだって心の準備ってもんができる」
「倒れた? 僕が?」
 眞吾は、はぁ? とでも言いたげな顔をした。
「お前、頭打ったか?」
「……かもしれない」
 なにせ、こうしている今でも、ひどく頭が痛い――
「って、今何時?」
「あん? ちょうど今から昼休みってとこだ」
「今から昼休み……なんだ、そんなに時間経ったわけじゃないんだ」
「あのな、お前のせいで俺たちは貴重な体育の時間を棒に振ったんだぞ?」
「俺たち?」
 その言葉に引っ掛かる。
 ――ああ、そういえば。
「ごめん、甲江さん」
「え、ううん。気にしないで。私、どうせ保健委員だし……」
「飛鳥ちゃんには感謝しろよ? ずーっとお前のこと看ててくれたんだぜ。全く、羨ましいったらありゃしねぇ」
「そうなんだ。ありがとう」
 眞吾の世迷言は無視し、至極普通に感謝の意を述べる。おっと、笑顔をおまけにつけるのも忘れずに。
「お、お礼を言われるほどのことじゃ……」
 うーむ、どうしてこの手の純真な娘ってのは恥じらいの表情が似合うのだろうか。謎だ。
「飛鳥ちゃんだけじゃねぇ。転校生までお前の様子見に来たぞ。お前、いつの間にそんな仲になったんだよ」
「転校生……?」
「月愛ちゃんだっけ? 何でお前には女が寄ってくるのかねぇ」
「…………」
 眞吾の軽口も右から左へと通り抜ける。転校生? 記憶が薄い。確かに、そんなことも、あったような気がする。でも、確信が持てない。
「転校生なんて、いつ来たんだよ……?」
「はぁ?」
 今度は口に出された。
「今日だよ、今日。今朝。本気で検査した方がいいんじゃねぇの、頭」
「いや、ごめん。何聞いてるんだろうな、僕。……よいしょっと」
 布団に手をつき、上半身を持ち上げる。とりあえずは正常に動作する。視界がやけにはっきりしているのは眼鏡がないせい。気が狂いそうなくらい匂いと音がきついのは目に触発されて耳と鼻も活性化しているから。肌がむずむずするのは空気中のありとあらゆる粒子を感じ取っているから。
 うん、問題なし。
「眞吾、僕の眼鏡は?」
「あ、こ、これ……」
 おどおどとした甲江さんが差し出した眼鏡を受け取り、かける。やはり、これがあるとないとじゃ全然違う。度も何も入っていない、ぶっちゃけて言えばただの硝子レンズの伊達眼鏡。けれど、これをかけると不思議と落ち着くのは否定しようがない事実だ。問題は精神的なものなのだろう。
 あまり良い例えとは思えないけれど、この眼鏡は赤ん坊のおしゃぶりみたいなものなのだろう。ホント、良い例えじゃないけれど。 「さて、と」
ベッドから降りようとしたところ、不意に頭を押さえ付けられた。
「な、何するんだよ。放せって」
「お前まさか、このまま授業出る気か?」
当然じゃないか。もう体は悪くないんだ。なら、授業受けるのは当然だろう――そのいかにも優等生ぶった旨を伝えると、眞吾は僕の頭を押さえつける手にさらなる力を込めやがった。
「そんな青い顔して、なに馬鹿なことほざいてんだよ」
「な――」
「いいか、授業は受けさせん。ここでおとなしく寝てるか、早退して家で寝るか、どっちかにしろ」
そんな理不尽な。まぁ、眞吾自体理不尽の塊みたいなもんだけど。
「私もそうした方がいいと思う。本当は、凄く辛いんじゃないの?」
……鋭い。正直なところ、未だに頭痛とだるさが継続しているのだ。午後の授業を乗り切れるかといえば、非常に微妙なところだった。
「分かった。今日のところはおとなしく帰るとするよ」
「それで良い。鞄と着替えはここな」
眞吾はどこからともなく、僕の鞄と制服を取り出した。
「……さてはお前、最初からそのつもりだったな」
「さーて、なんのことやら」
僕の精一杯の恨みごとも、眞吾の心には十円傷一つ付けることができなかった。
まぁ、結局のところ甲江さんの進言が一番効果的だったのだけれども。


道を歩く。まっすぐ歩くことが難しい。おかしいな、学校を出たときはこんなにひどくなかったはずなんだけど。
道行く人とぶつからないように歩くのが精一杯だった。一歩一歩を踏み締める度、脳味噌に針を刺すような鋭い痛みが走る。おまけに、体も言うことを聞いてくれない。きっと、今の僕はかなり不安定な存在となっているだろう。
一押しすれば、あっけなく崩れ去る。自分でも何となく分かる。危険だ。
――ずきり。
「ぐっ――!」
と、一際大きな頭痛が襲いかかって来た。頭蓋を割られ、中のモノを切り裂かれるような。駄目だ、今日は本当に調子が悪い――!
 足下がおぼつかない。立っていることが困難。体が左右に揺れる。だが、人込みの中では僕のそんな行動などそれ自体では全く目立たなかった。不幸中の幸い、と言うべきだろうか。
全く、眞吾のアドバイスが的確とは珍しい。
 その一瞬の油断が失敗だった。
 ふらり、と右に大きく揺れた肩が、そこにいた誰かにぶつかる。やば、謝らないと――
「あぁん? ンだテメェは」
 見るからに頭の悪そうな不良だった。こんな時間に町をうろつくとは。掛け値なしの馬鹿だな。いや、それ以上に僕の邪魔をするな。大人しくしてろ。
 ……思ってしまってから、己の思考アルゴリズムに辟易する。いつから僕は、こんなひどいことを考えるようになってしまったのだろう。
「……すみません」
 そう一言言い残し、僕はその場を去ろうとした。こんなのに構っている暇はない。ただでさえ頭が痛くて気分が悪いっていうのに……!
「おいおい、そいつはちょっと薄情って奴じゃねぇの?」
「いってぇ、骨、折れたかも」
「これってイシャリョーとかくれないといけない系? キャハハ」
「…………」
 気がつかなかった。団体だったのか。全員に共通していえるのは、揃いも揃って阿呆面ってことだ。素面の状態だったとしても、あまり構いたくない集団。
 無視して、歩を進める。しかし、それを馬鹿どもが許すはずがない。
「どこ行く気だ、コラ」
「ちょっとあっちでお話ししまちょーねー」
 腕をつかまれた僕は、さしたる抵抗もせずに薄暗い路地裏へと引きずり込まれてやった。
 なぜ、抗おうとしなかったのか。
 確かに僕の中にその意思はあった。だが、どこかでそれを拒絶する意思も働いていたのだ。
 やるなら、あそこの方が目立たなくていいだろう――?
 誰かが、囁く。
 疑問を浮かべる前に、僕は冷たいアスファルトの地面に叩き付けられた。
「さぁ、出すもん出せや」
 目の前のモノが、何か音声を発している。それが日本語で、僕を恐喝しているのだと理解するのに幾許かの時間を要した。
 頭が痛い。だが、それに反していつもは落ち着いている五感が精度を増している――視覚を除いて。
「何とか言いやがれよ、オラ!」
 横殴りの衝撃が襲う。殴られたのか。眼鏡が吹っ飛んだ。眼鏡が……
 連中としては、暴力を振るうことができればそれでいいのだろう。元々金なんてどうでも良かったのかもしれない。ただ、自分よりも弱そうなものを捕まえて、支配して、自分は強いのだという自信を手に入れる。それは、単なる虚構だとも気付かずに。
 はは、残念だけど――
 僕は弱者なんかじゃない。
 その一撃を切り口に、馬鹿共は僕をリンチにした。殴る、蹴る。相手の人数は確認していないが……いや、分かった。心音が六つ。
 一つは僕自身の。この場には僕ら以外人はいないのだから、つまり相手は五人。
 その程度で、僕に挑むのか。
 また、誰かが囁く。
 今のお前には見えているだろう? 聞こえているだろう? なら、やれよ。殺っちまえよ。強者が弱者を狩るのは当然のことだ。何にもおかしいことはない……
 壊すのか? いいのか?
 確かに僕の眼は、全てを完全な状態で捕らえている。右の男の、迫り来る拳の皺から、正面の男が打ち付けようとしている足、その筋も。僕にとってそれらは総じて、スローモーションでしかない。
 さらに、聴覚および嗅覚、触覚を少し働かせれば、相手の位置から行動まで、読み取れないことはない。例えば左の男は大体六十五センチくらい離れたところで、今拳を振り上げた。狙いは僕の顔。
 その拳を、僕は難なく受け流した。他の連中の打撃も、大した動作もなく払った。いうなれば、紙風船をたたき落とすようなことだ。難しさなどあろうものか。
 ――構わん。殺せ。
 あの声が言う。頭痛と比例して、五感の鋭さは増していく。地面は冷たいのに、体は異様に熱い。
「コイツ……上等だコルァ!」
 僕の行動が意外で、なおかつ癇に触ったのだろう。不良たちはさらなる暴力をふるい始めた。
 右頬を殴られる。
『殺せ』
 できない。残ったなけなしの理性でその衝動を押さえる。
 左脇腹に衝撃。
『殺せ』
 できない。
 髪をつかまれ、体ごと持ち上げられる。
『殺せ』
 できない。
 みぞおちに一撃。
『殺せ』
 できない。
『殺せ』
 できない。
『殺せ』
 できない。
『殺せ、殺せ、殺せ』
 できない、できない、できない。
『殺せ。引き裂け。叩き潰せ』
 できない、できない……。
『血に塗れよう。真っ赤な、真っ赤な、紅に』
 嫌だ……やめろ……。
『何をためらう。気持ち良いことしたくなるのは当然だろう?』
 …………。
『それは気持ち良い。肉を潰し、骨を砕き、血をブチ撒けろ』
 ……そうだな。こんな下賤な輩など。
『さぁ、ショーの始まりだ。最高にいい気分になろう……』
 さぁ、殺ろうか……!
「そこまでにしておきなさい」
 拳を固め、まず始めの標的として目の前の金髪野郎を凝視した時だった。
 凛とした、しかしどこか冷たさを含んだ声が路地裏に響いた。女性のそれである。
 そして尚且つ、僕はその声に聞き覚えがあった。あの時、灼熱する僕の頭を鎮めた声。
 背筋が冷えた。
「んだよテメェ。っ殺すぞ」
「おいおい、相手は女だろ? 殺る前にヤることあんじゃん。へへ」
「はっ、この変態が。しっかし、よく見りゃ随分と上玉じゃねぇか……こいつの彼女か?」
「そりゃねーだろ。釣り合わねーべ」
 馬鹿供は好き勝手くっちゃべっている。しかし僕は、傷が痛むっていうのもあるけど、とても救世主の出現を喜べる心境ではなかった。
 何となく、嫌な予感がしていた。冷たさが、増しているように感じられる……いや、違う。これは殺気だ。しかも、常人が出せるようなものじゃない。蒸留水のごとき、純度の高さ。故に馬鹿どもは気付かない、いや、気付けない。
「姉ちゃん、こんな奴より俺たちと遊ぼうぜ――」
「止めろ、そいつに関わるな――!」
 僕の忠告も無視し、馬鹿供の一人が、迂闊にも転校生――名前は忘れた――の制服の左肩に手を掛けた。馬鹿はやっぱり馬鹿だ。分からないのか、彼女がどれだけ危険な存在なのか。
「気安く触らないで」
彼女は感情というものを感じられない声で言い放つと、右手の人差し指で肩を掴む男の手の甲を、つつっ、となぞった。
 次の瞬間――男の手は血を噴出す壊れた蛇口となった。
「ぎ、ぎゃぁぁぁぁぁぁ!」
掌の先半分を失った右手を見て、男が叫びをあげる。僕には分かっていた。その切り口は、彼女がなぞった線と寸分違わず一致するということを。
「て、テメェ! ケンジに何しやがった!」
「…………」
このままだと、さらにマズい。一人やったといえど、彼女の殺気はいまだに衰えを見せていない。いや、逆に強まったかもしれない。薄ぼんやりとしているものの、彼女の周囲に漂うそれらしきモノを、僕の目は捉えている。
誰も止めなければ、彼女は確実にここにいる全員を屍に変える。全員は全員。無論僕も含まれる。
「くそっ!」
「!」
 僕は自分のお人好しさ加減が嫌になった。驚く全員を尻目に、立ち上がり、彼女へと駆け寄るとその手を掴んで一目散に逃げ出した。彼女をあの場から離せば、とりあえず死者は僕だけで済む。
 人間とは思えない速度で走り去る僕を、呆気にとられた顔で見ている不良たちを尻目に、人込みを掻き分け突き進んだ。


 気付いたら僕は、自宅まで走っていた。無意識に階段を駆け上がり、ドアの鍵を開け、部屋に飛び込んだ。結局、僕にとって一番心安らげる場所というのはここだったということなのだろうか。それとも、死に場所はここにすると、心の奥底で考えていたからだろうか……
「……疲れているところ悪いけど、手を離してくれる? 痛い」
「あっ、ご、ごめん!」
 慌てて手を離す。って、僕はこれから殺されるかもしれない相手の手を握って爆走していたのか。うわ。
 今更になって自覚しても後悔にしかならない。変な噂がたっても、それを耳にする僕がいつまで存在していられるか怪しいし。
 しかしこの期に及んでまだ見落としがあった。さっきから殺気が消えている。シャレじゃない。いくらフルマラソン後並みに疲れているとはいえ、あれほど強烈な殺気を僕が嗅ぎ取れないはずがない。いわんやこの至近距離なら、だ。
「……転校生、僕を殺す気じゃなかったのか?」
「流石ね、いい勘をしている。だけど――」
 彼女はその切れ長の瞳で、僕を舐めるように観察した。
「まさか、これほどとは思わなかった。これじゃ、本物の化け物」
「な……」
 わけの分からない納得をしたと思ったら、いきなり人のことを化け物呼ばわりだって? 化け物は――
「化け物は、君の方じゃないか!」
「確かに、そういう点でいえば私も人外のモノだけど。だけど、危険性に於いては柳巽、貴方の方が上」
「ど、どういうことだよ」
 人間の手を素手で切り落とす奴より危ないとは、心外にも程がある。
「貴方は自分を把握していない。その力が、どれだけ世の危険となるのか」
「は……?」
「……いい。話せば長くなるから。とりあえず、一つだけ言っておく」
 彼女は僕の目をまっすぐ見つめ、言った。
「私は、貴方を殺しに来た」
「………っ!」
 僕は、無意識のうちに自分の中で警戒心が高まるのを感じた。
「――というのが極論的な目的。でも、貴方がこのまま危険でないと判断されれば、私が貴方に危害を加えることはない。加えたくても、加えられないというのが真実だけれど」
「な……本当か、転校生?」
 嘘でないとも言い切れない。警戒を解くことはできなかった。久し振りだ。こんなに緊張するのは。
「嘘を言う趣味はない。それと、私は霧橋月愛。転校生なんて名前じゃない」
「あ、あぁ。ごめん」
「分かればいい」
 何か、思ってもいなかったところで突っ込まれた。それに思わず謝ってしまった自分も情けなく、一気にテンションが下がった。  と、気が緩んだせいか、どこかに忘れてきたと思っていた頭痛が、しつこくもぶり返して来た。
あ、ヤバイ。ちょっとこれは、大きいかな……
「……柳? どうしたの、顔が青い」
「だ、大丈……」
言い切る前に、力尽きた。いともあっさりと。

◆◆◆


また、夢を見た。本日二回目。同じ、幼少期の夢だ。
僕の横で、あの女の子が可愛らしい寝息を立てている。空には曇り一つない満月。あぁ、これはあのお月見の時だな。
僕と彼女の家族みんなで集まって、でも大人たちは半分宴会みたいになっていて。居場所が無くなった僕たちは、二人で月を見上げていた。そうしているうちに、気付けば彼女は眠りの世界に落ちていたのだ。
月明りに浮かぶ彼女の顔は、まだ幼いながらに、とても綺麗だった。美しく、だが、儚い。
「――――」
僕は、彼女の名を口にした。確かにした。しかし、僕は何と言ったのだ? それは可聴域を超えているかのように僕の耳に届かない。覚えていないのか、それとも思い出したくないのか……
そうして僕もまた、彼女のように眠りに落ちていった。

◆◆◆


 目を覚ましたと思ったら、周囲は完全に闇に閉ざされた、何もない空間に僕は立っていた。いや、立っているのかどうかすら怪しい。視覚、聴覚、嗅覚、味覚に触覚。五感の全てがあやふやだった。
 しかし、これはまだ夢の中だ。
 なにせ、僕の目の前には僕がいるのだから。
 僕は、僕と対峙する。
 今にも互いに抱き合いそうでありながら、互いにナイフで刺し合いもしそうな、なんとも不思議な空気。しかし、僕も僕も、何も語ろうとはしなかった。ただ無言で、視線を交錯させ続けて……
 不意に、僕が嗤った。
 それは、これまでの僕の人生で、一度も見たことない笑顔だった。

◆◆◆


 意識が覚醒した時、視界にあったのはこれまた白い天井だった。ただ、今回のは見慣れたものだ。毎朝毎晩眺めているものだから。つまるところ、僕の部屋の、僕のベッドへ寝転がった時に広がっている世界である。しっかし、今日はよく倒れるなぁ、僕。
 あれ? でも、どうしてベッドに寝ているんだろう。確か、最後に見た景色は玄関先のものだったはずなんだけど……自力で移動したとも思えないし。
「やっと起きた。余り世話を焼かせないで」
 謎はすぐに解けた。
「転校生……?」
「霧橋月愛。何度同じことを言わせるつもり?」
「ご、ごめん。……霧橋さんがここまで運んでくれたの?」
「そう。思いの他、軽かった。重労働ってほどじゃない」
 ……一応男である僕にとって、それは何とも微妙なお言葉なのだが。
 軽く傷つく僕などもともと眼中にないかのように、転校生……もとい、霧橋さんは相変わらずの冷たい空気を纏い、佇んでいた。その雰囲気に気圧され、僕も黙り込む。
 瞬間的な静寂が訪れ、それは窓の外から流れ込む烏の鳴き声や子供たちの遊ぶ声に打ち消された。差し込む日の光は既に赤い。眠っている間に、時は僕を置き去りにして夕方まで進んでいたようだ。
 と、視界の端に僕は奇妙な物を捉えた。
「霧橋さん、それ……?」
「これ? 台所にあったのを拝借したのだけど」
 彼女は、そう言って皮に切れ目の入った、少し緑がかっている果物を手に取った。言っておくが、包丁や果物ナイフといった類いの物はこの部屋に存在していないし、彼女が隠し持っているはずもない。
 ……やっぱり、素手なのだろうか。
「病人にリンゴを食べさせるというのが、日本の常識でしょう?」
「あ、いや、その、なんつーか……」
 この場合、どっちを先に突っ込むべきであろうか。
 今が旬の梨を手に自信満々に言う霧月さんを前に、僕は究極の選択を迫られていた。確かに僕だって昔は皮向く前のリンゴと梨の区別は付かなかったし、病人の見舞いで食わせる果物といえば、赤いリンゴが定番というのも事実ではある。
「食べる?」
「……頂くよ。丁度いいや。お茶でも淹れてくる」
 言い終わるより早く、僕は台所へ歩き出した。一応は客人だ。茶の一つでも出さなきゃ無礼ってもんだろう。
「待って。そういうことは私がやる。病人はおとなしく寝てて」
「大丈夫だって。もう、この通りピンピンしてるからさ」
 それに、病人ってほど大袈裟なもんじゃないし。ただ、ひどい頭痛がしたってだけだ。それも今はもう治まっている。
 僕の部屋から台所へ向かうには、一度部屋を出た後、居間を横切らなくてはならない。高校生の一人暮らしにしては贅沢な家だろう。そこだけは、十分な財産を遺してくれた両親に感謝しなくてはいけない。ただ、僕をこんな風に生んでくれたことには余り感謝できないが。
 ……そういえば、先程からヤケに視界がクリアーだと思ったら、眼鏡を掛け忘れていた。もっとも、不良どもに殴られた時に外れてそのままだっただけの話だが。家にいる限りならば別になくても平気ではあるが、それでも普段あるはずの物がないと不安だし、今は彼女がいる。下手に力をさらけ出さない方がいい。気力だけで押さえるにも、限界ってもんがあるし。
 えーと、予備の眼鏡はどこにしまったっけかなぁ……。
 ビールの空き缶やら何やらで散らかった部屋の中を探索する。もちろん僕が散らかしたんじゃない。この前の日曜に眞吾が押しかけてきて、おまけに泊まったもんだから、それ以後片付ける暇がなかった。それが理由だ。まったく、本当に台風みたいな奴だよなぁ。
「何をしているの?」
 いつの間にか、部屋にいるはずの霧橋さんが横に立っていた。
「あ、ごめん。ちょっと眼鏡探しててさ。今行くから。部屋で待っててよ。ここ、散らかってるから危ないし」
 言いながら、僕が判子やら何やらを収納してある戸棚に手を伸ばした時だった。
 ぴんぽーん、と来客の襲来を告げるチャイムが小気味良く鳴った。
「誰だろ?」
「私が行ってくる。貴方は探し物を続けて」
「え、あ、霧橋さん!」
 この人に常識は無いのか? だって、普通他人の家の来客の対応はしないだろう。
「ちょっと待って……!」
 止めようと、空き缶や空き瓶が散乱する中で無理な動きをしようとしたのが悪かった。
「うわ……!」
「きゃ……」
 僕は見事なまでに眞吾の遺産――ビールの空き瓶を踏み付け、目の前の何かにぶつかり、派手に転倒した。周囲に空き缶が転がっていたのも相成って、痛み相応な騒音が響いた。
「ってぇ……」
 床に手を突き、体を持ち上げる。口では痛いと言ったものの、実際のダメージは全く無い。そこまでヤワにはできてないし。
 だが、この時心配すべきは僕なんかの体ではなかった。
 僕のドジに巻き込まれ、現在僕の目の前で仰向けに倒れている人。長めの美しい黒髪が、放射状に広がっていた。この体勢の場合避けようがないから不可抗力と言えばそれまでなんだけど、お互いに無言で相手の目を覗き込むしかなかった。この事件は彼女にとっても予想外だったらしく、口を開けた上に目を丸くしている。それでいて間抜けな顔にならないのだから、美形な人って便利だよなぁ。
 けれど世界は、そんなのんきな思考すら許してくれなかった。玄関の方から誰かの叫ぶ声と扉をたたく、というより殴り付けるような音が聞こえたと思ったら、続いて、扉を開く音。
 あぁ、なんかヤバイ。そう頭では分かってるんだけど……どうも体が言うことを聞いてくれない。厄災が文字通り玄関から正面突破して突撃してくる音が聞こえた。
 ここで、重なりに重なった今回の僕の不幸を並べておこう。
 1、あまりに焦っていたため玄関のカギを閉め忘れた。
 2、一応、学校を早退したということになっている僕を、見舞いという大儀名文を得た八坂眞吾という人間が奇襲しないはずがない。
 3、八坂眞吾は口が軽い。
 4、何故か知らないが、甲江飛鳥という少女が僕を心配してくれていた。
 5、霧橋月愛には、常識というものが欠如しているようだ。
 これらの要素が、触媒も用いずに上手い具合に化学反応を起こし、僕の身に厄災となって降り懸かった。
「おい、巽! 大丈――」
 飛び込んできた眞吾が言葉を一瞬失う。まぁ、驚いて入ってみれば親友が女を押し倒してたわけだし。いや、あくまであちらさんから見ればの話だが。
「…………!」
 どうしてか眞吾の後ろから顔を出した甲江さんが、信じられないものを見たといった感じに驚愕の表情を浮かべる。どうにか挽回しなくちゃいけないんだろうけど、立て続けの出来事に、僕の脳内CPUはオーバーヒートを起こして通常の三分の一も性能を発揮できない。ぶっちゃけ、何もできなかった。
 違う、誤解だという一言も発せられずに時は流れ、場は刹那の沈黙に包まれ……
 ばたん、という甲江さんの倒れた音によって硬直を解かれた。






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