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   ぼくは、夢を見ていたかった。



   2054年 1月19日

 冬休みが明けても、身が凍り付くような寒さに変わりはなかった。冷たく、乾いた空気は体だけでなく心まで冷やしてしまうようで、ぼくはあまり好きにはなれなかった。外を出歩くには手袋とコートが欠かせず、何よりも暖房という文明の利器の暖かみが恋しい。こんな中で生きていると、地球温暖化現象がただの誇大広告か、あるいは政府のプロパガンダのように思えてくるから不思議だ。
 しかし、今ぼくたちが恩恵に授かっているこの電気暖房と、このような集団の意識が、忌まわしき現象を引き起こしているのもまた事実なのだろう。
「へくしっ」
 ……風邪、ひいたかな。それとも、小難しい考えに体がついていっていないのか。
暖房をフル稼働させているおかげで、教室内は春の陽気くらいの暖かさにはなっている。少々二酸化炭素濃度が高めではあるが。しかし、外は寒い。自転車通学を主とするぼくにとって、この気温差はありがたくもあり、忌むべきものでもあった。
 とりあえず形だけでも勉強しているよう見せかけようと開いていた英語のテキストから、教室前部に掛かった時計へと視線を移す。八時三十分。電波時計らしいので狂いはないはずだ。すると、あと五分ほどでチャイムが鳴り、授業開始ということになる。
 ところが、この授業開始前の五分というのがなかなかに厄介な代物であった。この時間帯は、教室へと駆け込み気味に入ってくる生徒が最も多い。朝早く出るのも面倒、だけど遅刻は避けたい。などという手前勝手で実に都合のいい思考回路でもしているのだろうか。あいにく、ぼくはこの二年間、一度もそんな考えには至らなかった。自分で自分を褒めるべきだろうか?
 そうこう考えているうちに、教室内は人で満ちていた。昨日のテレビ番組について友人と語る者、急いで授業の予習をする者、未だに眠り続ける者―そして、それを傍観するぼく。学校という公共施設が、いかにユニークで奇怪なところであるかしみじみと実感する。
 と、時計の長針が『7』を指すと同時に、電子音で構成されたチャイムが、授業開始時刻の到来を告げた。そして、まるでその時間ちょうどを狙いすましていたかのように教室の扉が開かれる。昔のギャグ漫画のように、頭上に黒板消しを乗せる事なく、数学教師は歩を進めた。
 かくして、今日もいつもと変わらない一日が始まった。


 政治・経済の教師のこれからは防衛・軍需関連企業株が買いだという熱弁や、物理教師が先日の火星軌道上に於ける戦闘についてやけに専門家くさく語るのを聞き流したりしながら、何事もなく時間は過ぎていった。友人とだべり、年相応に馬鹿なことを言い合い、今日という日が過ぎていくのを人事のように眺めていた。
「では、このプリントを今週の金曜までに提出してください。面談の資料にするから、忘れないように」
 帰りのホームルームで聞いた担任のその言葉も、ぼくの手の内にある「進路希望調査」という上質紙も、実感など微塵ももたらさずにぼくの内を過ぎ去っていった。進路希望など、藪から棒に言われたところではいはいと書けるものではなかろう。高校二年の三学期、もうすぐ三年といっても、進路が完全に固まっている者などいない。ぼくのように、何も考えてない奴だって少なくはないはずだ。例えば、ぼくといつもつるんでいる工藤とか石川とか。工藤は単なるアキバ系のオタクだし、石川は何を考えているのかよく分からないようで、実は何も考えていないような奴だ。
数秒の思考の後、ぼくはそのプリントを鞄の中へ四つ折りにして仕舞い込んだ。


 その日の夕食。母さんと妹と共に食卓を囲みながらのことであった。
「そういえば、今日あそこのスーパーでね」
 ぼくが鍋の中の白菜に箸を伸ばしたときだ。母さんが、唐突に切り出した。
「店員さんにいきなり挨拶されてね。誰かと思ったら直ちゃんだったのよ」
 直ちゃん。その名前は、忘れたくても忘れられまい。中学時代、ぼくと同じ野球部で、彼はエースでキャプテンだった。チームをよくまとめあげてくれていたけれど、最後の大会、監督の采配ミスが原因で市大会で敗退し、試合後涙していたのを鮮明に覚えている。
 母さんが彼のことを知っているのは、幾度となく野球部の面々でうちに遊びに来たことがあるからだ。懐かしいな。
「ああ、そういえばあそこでバイトしてるとか、どっかで聞いた覚えがある」
 しかし、ぼくの言い草がぶっきらぼうになるのを、自身でも感じていた。別に、直ちゃんの話をするのが嫌なわけではない。むしろ彼との思い出話は大歓迎だ。
 ぼくが嫌なのは、このように社会に出て荒波にもまれている友人の話を聞くこと。
 こんなこと、恥ずかしくて誰にも話したことはないが、ぼくは自分が惨めになるのだ。そんな友人の話を聞くと。別段友人に限ったことではない。たまにテレビ番組などで紹介される、働く若者達。同年代、下手すると年下の人間が出ているのを見ると、心臓が締め付けられるような思いがする。
 ぼくのそんな思いを汲み取ってくれたのか、母さんはそれ以上その話題に触れることはなかった。情けなさを感じつつも、ぼくは妹と数少ない肉の争奪戦を繰り広げた。


 入浴を済ませ、あとは湯冷めしないうちに寝るべしと部屋に戻ったぼくは、割とこざっぱりとした机の上に無造作に投げられた一枚のプリントを発見した。「進路希望調査」と、銘打ってある。ほんの、数時間前に配られたものだというのに、ぼくはすっかりその存在を忘れていた。
 まぁ、今日やらなくても金曜日が締切りだし。明日なり明後日なりにやればいいだろう。
 その考えが最悪の結果を生み出すことに気付きつつも、無意識のうちに目を背け、ぼくは再び上質紙を机の上に放り投げた。

2054年 1月23日


 締め切りはあっという間にやってきた。件の金曜日、ぼくはそれを昼休みになって思い出した。中途半端に弾む会話に付き物な、言葉が途切れる瞬間。何か話題はないものか……と記憶を探索した時、何の因果か発掘されたのはそれであった。
 一緒に昼食を取っていた友人―工藤と石川にそのことについて振ってみると、
「ああ、書いたよ」
「なに、お前まだ書いてねーの?」
 ちょっと驚いた。しかし、また適当なことでも書いているのだろう。提出期限を過ぎれば何らかのペナルティが与えられる可能性も否定できない。ふざけ半分のような気持ちで、何を書いたのか尋ねてみた。
「ま、とりあえずどっかの専門学校だな。情報系の」
 とは工藤の答え。専門学校とは、何か目的でもあるのだろうか。
「いや、やっぱオレ、ゲーム好きだし。プログラムの勉強してさ、自分で納得できるゲーム作りたいと思ってよ」
「へぇ……」
 簡単の息を漏らしてみるも、心のうちはそんなに穏やかなものではない。心臓に針を突き立てられたような感覚。痛い。とりあえず、外見だけは平静を保てているように見せなければ。聞いてしまってから、どうしてこんな話題を選んでしまったのかと無駄な後悔をする。
 しかし、自分から切り出してしまった以上は続けなければならない。ここで躊躇するような素振りを見せたらば、変に動揺していると思われるだろう。それは避けたい。
「石川はどうなの?」
「俺はやっぱ、帝国大の医学部だね。このまま順調に行けば、入れない成績でもない」
 即答。一つ言わせてもらうならば、帝国大の医学部とは最難関中の最難関だ。全国でも指折りのエリートたちが集まる。ここに入学さえすれば、将来死ぬまでこのブランド名だけで生きていけるとも言われている。
 ぼくは、自分の手が暑くもないのにじっとりと汗で濡れていることに気が付いた。
「医学部ってことは、やっぱり医者になりたいの?」
「それ以外に何があるんだよ。ま、こんなご時世だからな。軍医とかいいんじゃねーかと思ってるんだけど。俺たちの世代は戦争知らないからな。現実ってのを見てみたいんだよ」
「ほぉ……なんかかっこいいこと言っちゃって」
「うるさい、生粋のヲタが」
「ほぉ、言ってくれるじゃん」
 などと二人がふざけあうのを尻目に、僕は一人、今度こそ動揺を隠せずにいた。
 どうやら、ぼくの評価は間違っていたらしい。こいつは、何も考えていなくなどなかった。ちゃんと、考えていたのだ。
「で、お前は何書いたんだよ?」
「そうだ、俺たちにだけ言わせておいて、一人だけ逃げようなんて思ってないよな?」
「え? ぼ、ぼくは……」
 言葉に詰まる。何も書いていない、何も考えていなかったと一言いってしまえば済むものを、何故こんなにも躊躇うのだろうか。情けなさ? 無力感? なんだろう。
 からからの喉を振り絞り、やっとのことでかすれた声が出た。
「何も……書いてない」
「…………」
 この間は、何であろうか。石川も工藤も、悪い奴でないことは知っている。無論人としてだ。ある程度の礼儀はわきまえていると思っている。この沈黙は、ぼくに対する軽蔑ではない。進路に悩む友人に、どのような言葉を返すべきか悩んでいるのだろう。つまるところ、ぼくを傷付けない言葉を探している、そういうことだ。たぶん。
「ま、もう少し時間はあるし。よく考えてみれば良いんじゃない?」
「流石に、三年に上がるまでに決めないとまずいだろうけどな」
 三年になる前に、進学クラスか、就職クラスかで生徒は二分される。それまでに、ぼくは見つけなければならない。
 その、答えを。

       2

 翌週、ぼくは結局、進路希望調査を白紙で提出した。これでも、机の前で散々悩んだ結果である。自分に罵声を浴びせかけながら、お前は何がしたい、お前の夢は何だ、と自身に問う。しかし、どれだけ悩もうともぼくは答えを導き出せなかった。適当なことでも書いておけばよかったのだろうけれど、それはなんとなく許せなかった。その末の白紙だった。
 白紙であることを先生に何か言われるのが嫌で、ぼくは持ち主のいない机に無言でプリントを置いてきた。きっと見つけたに違いないだろうが、その後先生はそれについて触れることはなかった。
 ぼくが安心感と罪悪感を足して二で割ってペースト状にしたような感情を抱いたまま、一週間が過ぎた。

   
2054年 1月30日

「今日面談ある奴、忘れずに相談室まで来るように」
 そう言い残し、担任教師は教室を出て行った。途端、教室は放課後特有の喧騒に包まれる。授業という束縛からの解放感、これからの部活動に対する情熱、そしてこの後に待ち構える二者面談への絶望と脱力。ぼくも、例外ではなかった。 そして、今日の面談のトップバッターに指名されたのもまた、ぼくであった。
 石川と工藤からのからかいとも取れるような激励を受けた後、廊下を歩き、階段を上り、ぼくは敵本拠地へと辿り着いた。  なぜ、こんなにも緊張しなければならないのだろう。説教されに行くわけでもないのに。何も後ろめたいことがないのなら、堂々と胸を張っていればいい。父さんはそう言っていた。だが、よくよく考えずとも、今のぼくには十分後ろめたいことがある。
 脳裏に、白紙の進路希望調査票がよぎった。
ええい、こんなところでうじうじしていたって仕方がない。ドアノブに手を掛け、南無三と心の中で唱えながら、思い切って扉を押す。鍵などかかっているはずもなく、油の切れた蝶番が立てるキィという音を耳にしながら、ぼくはその相談室へと足を踏み入れた。
「お、やっと来たか。さ、面談始めるぞ」
 担任は入って来たぼくを視認するなり、プラスチックのファイルから数枚の紙を取り出し、椅子についた。それと机を挟んで向かい合うように、ぼくも席に着く。
「さて、まずは……」
これでもぼくは、優等生とまではいかなくとも、不良や劣等生と呼ばれる筋合いは微塵もないような学生生活を送って来たつもりである。案の定、成績に関しても、生活態度についても、これといった注意を受けることはなかった。だが、唯一の問題点は――
「どうするつもりなんだ、この先」
 ついに、この時が来た。白紙の進路希望調査票を三下り半のように突き付けられ、ぼくの思考回路は一気にビジー状態になる。
 どうするつもりだ、と言われても、答えられない。答えが、ないから。
「他はみんな書いて出してるんだ。クラス分けの都合上、早く決めてもらいたい」
 頭がぼんやりとする。暖房のせいだろうか、いや、そんな筈はない。確かにこのような暖かさは、眠気を誘い思考を鈍らせる。
 浮かぶイメージに、色はない。強いて言うなれば、白。汚れなき、純白。
 先生はぼくにいろいろと言葉を投げ掛けて来るけれども、はぁ、とか、まぁ、とか、曖昧な返事しか返せない。どうして、話したくもないことや、頭の中にないことを言わなくてはならないんだろう。ないものは出ない。造るほどの能力もない。どうしようもないじゃないか。
 話すだけ話し、いい加減糠に釘な態度が嫌になったのだろうか。先生は、溜め息を一つ吐いて、ぼくに質問をした。
「結局、お前は何がやりたいんだ?」
「…………」
 やりたいこと……か。何だろう。とりあえず何もせずにぼーっとしたいです、などと言ったら殴られるだろうか。しかし、実際にそれくらいしか思い付かない。
 先生は、即ち目標を尋ねているのだろう。何を目指すのか。せめて、その方向ベクトルだけでも。
 でも、それすらも決められない。今のぼくは空っぽだ。何も、ない。その時その時を、その場しのぎで綱渡りしている。何の意識もなく、気付いた時にはそうなっていた。
「分かりません。何をしたいのか、自分でも……」
「……そうか。分かった。焦らず、急いで決めれば良い」
 どこか矛盾したことを言いつつ、先生は例の調査票を手に取り、ぼくの目の前に突き出した。
「一旦この紙、返すから。土日使って、じっくり考えて来い」
 まっすぐ、ぼくの目を見ながら言う。思わず、ぼくは目を逸らした。期待とか、されても困る。正直、ぼくみたいな生徒は下手な不良よりずっと厄介だろう。だったら、放っておけばいいじゃないか。
「じゃ、面談はこれで終わり。ご苦労様」
「……はい。ありがとうございました」
 全くもって感謝なぞしていないが、一応の礼を残し、席を立つ。
 ぎゅっと握り締めっぱなしだった手は、汗でじっとりと湿っていた。


 自分の吐く白い息を眺めながら、自転車をひたすら漕ぐ。日は短く、五時を回ったばかりだというのに辺りは真っ暗であった。見慣れた道であるはずなのに、照らすものが太陽か街灯かという違いだけで、全く異なる印象を覚える。道を間違えたのではないかと錯覚するほどだ。自分がどこにいるのか、どちらへ行けばいいのか。皆目見当が付かないというのは、ひどく怖いことである。特に、今いるような住宅地の中―路地が入り組んでいる地区は、一つ道を間違えるだけでとんでもないところに行き着くことがある。行き止まりであったり、民家の庭先であったり。
 ふと、空を見上げる。幾つもの星の光が、澄んだ空気を貫いて地上にまで届いていた。だが、あいにくぼくは冬の大三角形くらいしか覚えていない。
 星々の中に一つ、際立って大きく輝くものがあった。一瞬星かと思ったが、違った。高速で移動するそれは、恐らく飛行機。いや、光の大きさなどから考えて、軍の輸送機だろう。出来立てほやほやのアレを工場から運び出したのだろうか。アレに乗り、父さんのように戦って、そして死ぬ人達はどれくらいいるのだろうか。あの機械人形は、どれだけの人の血を吸ってきたのだろうか。
何故、父さんは死ななければならなかったのだろうか。
考えても仕方のないことだし、ぼく一人がどうにかできるような問題でもない。しかし、この理不尽さだけはどうにも片付けられない。軍の偉い人から、父さんは探索隊の人達を守るために勇敢に戦って、他人のために、人類総てのために命を失ったと、そう聞かされたのを今でも覚えている。ぼくはあの時、小学二年生だった。
―冷たい空気が、背筋を震わせる。
今になって考える。人のために死んだ父さんは、単なる馬鹿だ。自分の命を軽く見過ぎていたんだ。みんなは父を誇りに思えと言った。でも、そんなことが果たしてできようか。残された者たちの胸に刻まれるのは、癒えることのない傷跡と、ぶつける相手のいない憎しみだけだ。そんなものを遺してくれた奴を、何故誇らなければならない? 理にかなっていない。
――父さんは、死の瞬間に何を思ったのだろう?
その思考は、真横からぼくを照らすヘッドライトの明かりによって強制的に中断された。いや、正確にはそれに気付いた直後に襲ってきた衝撃。
結果から言おう。
 ぼくは、車に撥ねられた。

 


2054年 1月31日

 撥ねられたとか言っておいてアレなのだが、実際のところぼくはほとんど無傷であった。住宅地の中の路地であったために相手の車が余り速度を出していなかったのが幸いしたらしい。確かにぼくは車にぶつかって吹っ飛ばされた。さすがに死んだかな、と近付く地面を見ながら思った。しかし、実際に地面に叩き付けられても、大した痛みはなかった。むしろ、倒れることもなくそのまますくっと立ち上がれたほどである。体の各箇所を点検しても異常は見つかなかった。どうも、とてつもなく当たり所が良かったらしい。その後冷静に状況を判断し、慌てうろたえる相手ドライバーをなんとかなだめ、家まで送ってもらった次第である。そう、ぼくは無傷でも自転車がお亡くなりになってしまったのだ。先方はかなり生真面目な方だったようで、慰謝料まで支払おうとするのを必死に止めて自転車の弁償だけにとどめるのに要した苦労は計り知れない。本当は、ぼんやりと走っていたぼくの方に責任があり、弁償も断ろうとしたのだが。事故ったということよりも、この人を落ち着かせる方が疲れた気がする。
 そうしてぼくは今日、近場のホームセンターへと新・通学用自転車を買いに来たという次第である。これが無ければ、学校に行けないからだ。しかし、それはぼくにとっては好都合であるが。そんなことを言ったらば、冗談抜きで母さんにげんこつを貰った。まさか、高二になってまでげんこつ食らう羽目になろうとは、予想だにしていなかった。
 その店は、郊外の地の利を活かした広大な売り場面積を誇るだけのことはあり、多彩な自転車が展示してあった。数千円で買えるママチャリから、本格的な競技用のマウンテンバイクまで。こちらはぼくの予算よりもゼロが一つほど多かった。
 ふらふらと売り場を見て回っているうちに、丁度良いものを見つけることができた。内装三段変速、カゴ・荷台付、オートライト、そしてお値段据え置きの一万三千円也!
 本当に安いのかどうか、あいにくぼくに自転車の相場に関する知識が無いため判断しかねるが、とりあえず性能的には十二分だ。文句ない。
 と、丁度そのとき、店の制服を着た店員らしき男性が並べられた自転車の向こうを通り掛かるのを発見した。
「あのー、すいませーん!」
 大声で呼びかける。気付いてくれたらしい。営業スマイルを顔に貼り付け、こちらに歩いてくる。
「いかが致しましたか?」
 眼鏡のフレームをきらりと光らせながら、彼は言った。
「あの、これを買いたいんですが……」
 そんな店員さんの様は、僕に妙な重圧を与えた。自転車を指差す手も微妙に力ない。震える指先は、寒さだけが原因ではないだろう。
「はいっ、お買い上げありがとうございます。少々お待ちくださいませ」
 当社比で三割増くらいの営業スマイルを向けたかと思うと、店員はぼくに背を向けてどこかへと歩いて行ってしまった。
 おいおい、ぼくはこのまま放置ですか? 寒空の下、鼻水をすすり上げながらひとりごちる。他の客の喋る声や、業務連絡の放送が右耳から入って左から抜けていった。
 ……なんとも、待ち惚けを食らうというのは寂しいものである。自転車と睨めっこして楽しめるほど人生捨ててないし、かといって他のところを見に行くわけにもいかない。
 コートのポケットに手を突っ込み、挙動不審な感じで足踏みを始めた時だった。
 こちらに近付いてくる影があった。ああ、あの人がぼくの相手をしてくれるのかね――って。
「えーと、お客様。こちらでよろしいんですよね?」
 その、女のくせにやけに好戦的な瞳と、後頭部で一本に括られた髪――ポニーテールに、ぼくはこれ以上ないくらい見覚えがあった。
「……渋谷? お前、渋谷だろ?」
「へっ?」
 間の抜けた声を上げ、店員は目を細めてぼくを観察する。会ったことなどあるはずない、ただの客に馴々しく話しかけられて、彼女も困惑しているのだろう。
 ああ、そうだ。渋谷は目が悪かったんだよな。眼鏡なしじゃほとんど見えないくせに眼鏡掛けるのいやがってさ。
「あっ……!」
 やっとぼくの正体に気付いたか、渋谷は小さく声を漏らしたあと、ちょっと気恥ずかしげに頭を下げた。姿形は記憶のままなのに、行動だけが微妙に違っていて、そのギャップが奇妙なおかしさを沸き立たせた。


 渋谷とぼくは、何の因果か中学三年間を同じクラスで過ごした。ファーストコンタクトは、入学式の直後だったと記憶している。式場の体育館を出て、まだ見慣れない通路を歩き教室へ向かう途中の階段。そこで事件は起こった。
「アンタ、なに人のスカートの中覗いてんの!?」
 ぼくの前で階段を上っていた彼女が、突然振り向くなり真っ赤な顔で言ったのだ。無論冤罪だ。これだけは断固として主張させてもらう。しかし、あの頃のぼくは若かった。なにが起こったか分からずその場でうろたえるだけで、反論の一つもできなかった。その後、といっても一月くらいかかったのだが、どうにか誤解だけは解いた。だが、そのあともなにかと渋谷はぼくにつっ掛かってきて、それをひらりと流すのがぼくの日課のようなものになっていた。それも、別々の高校へ進学し連絡すらも取らずにいたのが――
「まさか、こんなところで会うとはなぁ……」
「あたしだって驚いたよ。まさか、アンタが客で来るとはね」
 渋谷は自転車のペダルを取り付けながら言った。ネジを締めるようにして取り付けた後、しっかりはまっているかを確認する。
 それが終わると、次はなにやらごついスパナのような見たこともない工具を取り出した。何をするのかと思えば、ハンドル部分の調子を合わせている。熟練の技すら感じさせる手際の良さだった。
「……どうしたの。ぼけーっとして」
「いや、なんか手慣れてるなぁって」
「当たり前じゃん、これが仕事だもん」
「ああ……何か、格好いい」
「へへ。お褒めの言葉、ありがとうございます」
 油で真っ黒な軍手で頬を掻いて、渋谷は照れくさそうに笑った。
 ぼくが手持ち無沙汰で突っ立つ間にも、渋谷はてきぱきと調整を済ませていく。スタンドの位置、チェーンの具合、サドルの高さ……そこまでしてくれなくてもあとは自分でやりますよ、と声を掛けたくなるほどの働きっぷりであった。
「――よし、これでOK」
「お疲れ様」
「いえいえ。じゃ、これ持って、そこのカウンターで会計と防犯登録、済ませてきてね」
 渋谷から伝票のようなものを手渡され、会計をする。財布忘れたなどというありがちな展開はもちろんなく、別段問題が起きる事なくすべてが終了した。
 渋谷のところへ戻り、自転車を受け取る。
 早速またがってみると、思っていたよりも数倍、乗り心地はよかった。サドルやハンドルの高さも、ぼくに丁度よく合わせてあった。改めて渋谷の仕事に感服する。
「よし、それじゃ一っ走り帰りますか――」
「あ、あのさ!」
「ん、何?」
 華麗なるスタートを切ろうとしていた矢先、呼び止められてしまった。
「今日、このあと暇? あたしもう仕事上がりだからさ、良かったらどっかで話でもしない?」
 思ってもみない提案だった。ふむ、暇といえば暇である。予定などあるはずもない。強いて言うならば、攻略中のゲームを進行すること程度である。こんな理由で断ったらまず殴られるな。
「ああ、別にいいよ」
「ホント!?」
「嘘……って言ったら殴るだろ。その工具一式で、容赦なく」
「分かってるじゃん」
 否定が間に合ってよかった。渋谷はすでに凶器に手を掛けていたのだから。
「じゃあ、ちょっと待ってて。着替えてくるから」
 一応は、戸籍上の分類は女である相手と過ごす午後の一時というのも、また乙なものだろう。この相手が、もっと女らしければ文句はないのだけれども。
 そんなことを思ってしまってから、万が一聞かれでもしたら瞬殺だな……などということを思い出していた。


 で、なぜか今ぼくたちがいるのは中学校の校庭だったりする。あのホームセンターから歩いて数分だったというのもあるが、ここに来た一番の理由というのは、二人とも涙が出そうになるくらい先立つものがなかったということだった。いやはや、情けない。
 誰もいないグラウンド、その隅っこにある野球場のベンチに腰掛け、ぼくは缶コーヒーを啜った。
「懐かしいね。そういやアンタ、野球部だったんだっけ?」
「まぁね。あんまり、いい思い出はないけど」
 そう、どうしても思い出してしまうのはあのムカつく顧問教師のことだった。なんべんあの馬鹿っ面にライナーを叩き込んでやろうと思ったことか。くそ、思い出すだけでムカムカしてきた。
「……ごめん、なんか悪いこと聞いちゃった?」
「え、あ、いや。そんなことないよ」
 なんか拍子抜けするな。あの渋谷が、こんな風に謝ってくると。
「ところでさ、渋谷、あそこでバイトしてたんだ。初めて知った」
「まぁ、アンタに言ったことはないからね。とりあえず、お金が必要なのよ。今のあたし」
 渋谷は、手に持った缶しるこのプルタブをいじりながら言った。下を向いた視線はどこか心許無げで、ぼくは記憶とのギャップにますますもやもやをため込むこととなった。
「お金? なにか欲しいものでもあるの?」
「ま、そんなもんかな。やりたいことやるためには、やっぱり必要なのよ」
 そう言うと、渋谷はその視線を地面から空へとあげた。その視線の先には、青い空が永遠に広がっていた。
 と、遥か上空をゆっくりと移動する影があった。飛行機か……いや、補給船だな。今から宇宙へ上がるのか……
 微妙に首が疲れた。視線を青空から下へと降ろし、隣の渋谷へと向けてみた。
 渋谷は、魂を吸い取られたかのように、何かに魅入っていた。
「――行ってみたいと思わない?」
「え?」
「宇宙。昔からの憧れなんだ。あそこへ行くのが」
「…………」
 突然の質問と告白。正直、ぼくは宇宙に対し良いイメージはない。いつ『連中』が襲撃してくるか分からないし、やはり、父さんの死んだところだからであろう。
「もちろん火星軌道みたいな最前線じゃなくてさ。地球の衛星軌道上の宇宙ステーション。とりあえずさ、あそこで働くのが、今のあたしの夢」
――ど、くん。
 何故だろう。その単語を聞いた瞬間、心臓が一際強く脈打った。
 ぼくは、何も言えなかった。
「そのためにお金を貯めてんの。ひとまず高校だけはちゃんと卒業するってのが親との約束だから、あと一年以上先になるんだけどね。でも、高校卒業したら一秒でも早く宇宙に行きたいから、今からその切符代貯めてね。行っちゃえばこっちのもんだし」
 渋谷はぼくに向かって、にっと笑った。
 迷いも悩みも見当たらない、真っ直ぐな笑顔。ぼくが今、一番欲しいものなのかもしれない。進むべき道が目に見えているから、人はそれに沿って走ることができる。だけど、ぼくには――
「ねぇ、一緒に行こうよ」
「……え?」
「あの空の向こう。……ホントのこと言うとさ」
 空を見るような―いや、もっと遠いところに視線を向け、彼女は言った。
「何かが見つかるような気がするんだ。宇宙(あそこ)へ行けばさ。笑ってくれてもいいよ。見つけたから行くんじゃなくて、見つけるために行くの。手段と目的が入れ替わっちゃってるよね。でも、本当にそんな気がするんだよ?」
「……笑ったりなんか、しないよ」
 そう、見つからないと一人何もせず日々を浪費するだけのぼくなどと比べたら、それがいかに素晴らしいことであるかは一目瞭然だ。世界中の人が否定しても、ぼくだけは首を縦に振り続ける。
 いいじゃないか。今現在、渋谷は『宇宙へ行く』という目標のために必死で頑張っている。目的と手段が入れ替わっていようとも、それは紛れもない『夢』。見つからないのなら、見つけるためのさらなる行動を起こす。
 ――夢追い人。宇宙(そら)を眺める渋谷の横顔を見て、ふとそんな言葉が浮かんだ。
 そして彼女は、一緒に行こうと言った。果たして、そこにあるのだろうか? 父さんを失った、その場所に。
 ――ああ、なるほど。
 今のぼくは、恋に恋、ならぬ夢に恋していると言っても過言ではないのだ。
 もう一度、空を仰いでみる。そういえば、ぼくが今いるところから宇宙までの距離というのは、東京‐大阪間なんかよりずっと近いという話を思い出した。近いけど、遠い場所。距離の問題じゃない。遥か昔から、存在自体が遠いものだったんだ――そう言っていたのは誰だろう。ふと浮かんだ、記憶の残滓。遠い日の思い出。その声はいつまでもぼくの中で反響を繰り返し、消えることはなかった。

   渋谷とは、その後少し話してから、別れた。



  2054年 2月1日

 その日ぼくは、非常に重大かつ深刻なことを思い出した。きっかけは年間の予定表。学校で配付されたものだ。その上質紙に記されていた「実力考査」の文字。ぼくの精神を刹那フリーズさせるにはそれだけで十分だった。
 正直、何も対策を立てていない。いますぐにでも対策本部を立ち上げるべきなのであろうが、三日という制限時間は余りに残酷だった。
 光差し込む部屋の中、机の前で腕組みし、考える。如何にするべきか……悪足掻きしてみるか、すべてを受け入れるか。理性が前者を推奨し、欲望が後者を推す。両者の攻めぎあいは激しく、接戦であった。故にぼくはこうやって途方に暮れるしかないのだ。
 ふと、机の上に山積みとなったプリント類が目に入った。……邪魔そうだな。どこかに片付けておこう。
 それが引き金だった。
 これも人の性なのだろうか。テスト前になると、決まって机の片付けをしたくなる。爽やかな陽気のせいだろうか? いや違う。認めたくはないけれど、これは立派な現実逃避だ。
 明らかに必要ないプリントをゴミ箱に突っ込み、古くなったノートは一つにまとめる。散乱する漫画や小説は本棚に並べ――もちろん作者ごとに――机の引き出しの中も整理する。
 そうして三十分くらい経った頃だろうか。ぼくは机の奥深くから、古びた冊子を発見した。それは机の中にあったはずなのに埃を被っていて、表紙は太陽光で色がさめ、紙の端は完全に丸みを帯びていた。
 『文集』と、ただそれだけ、銘打ってあった。いつのものであるかは外見だけからでは読み取れない。ただ、相当年季が入っていることだけは分かる。
 何気ない気持ちで、僕はそのページを開いた。見た目の割に中身は良好な保存状態で、読むことに支障はなかった。
 まず第一印象。字が汚い。とにかくごちゃごちゃとしていて、読み難さこの上ない。だが、辛うじて内容を把握することだけはできた。三年一組と書いてあったことから、小学三年時のものだということも推測できる。流石にこれが中学生のものということはないだろう。
 ああ、そういえばこんな奴いたなー、などと個人のページをめくりながら思い出に耽る。好きなもの、得意な教科、将来の夢……子供特有の幼く拙い、だけど純粋な言葉。十七歳のぼくからすれば、それらは皆、笑いの種にしかならない。けれど、あの時は本気で書いていたんだよなぁ……
 次のページを捲ると、そこにはぼくがいた。
 八年前――九歳のぼく。八年という歳月は、記憶を薄れさせるには十分過ぎる時間であった。彼が何を思っていたか、それを知る術はあまりに少ない。だが、その数少ない記録の一つが今、ぼくの手の内にある。
 分からないからこそ、向き合うのが怖い。だが、その反面、期待を抱いているのも事実である。
 ……期待? 自分の考えに自分で呆れる。こんな子供の落書きに何を期待するっていうんだ。笑いのネタか?
 再びページに目を落とす。そこに貼り付けてある、写真の中のぼくは若い。しかし、単なる平面写真とはなんともアナログなものである。三次元ホログラムとか、動画写真を使おうとは思わなかったのだろうか? まぁ、所詮は小学生の文集ということか。
 八年前のものであろうと、名前と生年月日、血液型だけは変わっていない。変わっていたら、それはそれで大変であるが。
 驚いたのは、嗜好まで八年前と同じだったことだ。これは、ぼくが成長していないということの裏返しなのだろうか?
「…………」
 そして、ページの片隅に書かれていた一言に、ぼくは凍り付いた。

『お父さんみたいなパイロットになること』

 言葉はおろか、思考すらも失った。たかが子供の戯言と割り切ることができない。
   父さんがいなくなって一年。それでもなお、父親を尊敬し続けたぼく。
 幻影の背中を追い、いつかはそれに追いつけると思っていた。あまりに遠く、あまりに大きな背中を。
 そうさ、いつだって、父さんはぼくのヒーローだったじゃないか。ぼくに出来ないことをたくさんできたし、ぼくの持っていないものを沢山持っていた。しかし、子は親を追い、超えるものだ。そして今のぼくには、幸いなことに選択肢が残されている。
「はは……」
 気がつけば、笑いを浮かべているぼくがいた。
 そうか、ぼくが欲しかったのは、これだったんだ。
 目指すべき道、そして叶えるべき夢。
 答えは知っていたはずなのに、どうして思いだせなかったのだろう。いや、違う。思い出すのが怖かった。
 いつの日からか、ぼくはその夢から外れ、記憶の奥底へと深く深く沈めるようにしていた。父さんの死から月日が流れて、しまい込んだ悲しみを忘れたのだと思い込み、それと共に、見失ってはいけないものを見失ってしまったのだ。
 だけど、なんて皮肉なんだろう。結局ぼくは、ぼくに助けられたわけだ。時間という概念を超えて。
   そして、父さんが遺してくれたのは傷跡なんかじゃない。もっと、たいせつなもの。
 はっきりとは分からない。だが、だからこそ探し甲斐があるというものだ。渋谷ではないけれども、宇宙に行けば、ぼくの知りたいことが分かる気がした。いや、きっと父さんが教えてくれる。そしてぼくたちは、もっと先へと行かなければならないのだ。それが、父さんがぼくたちに託した“希望”なのだろうから。希望に包まれているのならば、死すらも恐れないのだろう。
 まぁ、下らぬ御託は抜きだ。ぼくは改めて、八年前のぼくに礼を言おう。
 カバンの中にしまい込まれた、一枚の紙切れを取り出す。ほんの数日前にぼくを苦しめたそいつも、今となっては単なる事実の再認にすぎない。
 ぼくは、迷う事なく筆を走らせた。
 父さんと同じように、あの場所へ行くために。


終章

2064年
火星軌道上 統合宇宙軍第七機動艦隊旗艦内

「おーい、起きろー!」
「ん……?」
 個室の扉を乱暴に叩く音と、他人の迷惑を顧みない怒鳴り声に、ぼくの意識は強制的にサルベージされた。
 まったく、こっちはさっきまで哨戒任務で疲れてるってのに……誰だよ、全く。
 ベッドから降り、一応制服を羽織る。万が一、上官だった時のためだ。
「はい……」
「ういっす」
「帰れ」
「お、おい!」
 そいつの顔を見た瞬間、全ての緊張感が吹き飛んだ。だから、何の迷いもなくドアを閉める。
 扉の向こうにいたのは、上官でも部下でも客でもなかった。
 シワの目立つ白衣に身を包んだ軍医――石川は、さらにやかましくドアを叩いた。
「開けろって。今日は土産があるんだよ」
「酒とかなら要らないからな」
「違う違う。もっと重要なもんだ」
「ふーん……?」
 扉を開放する。別にその土産に動かされたわけでは……すこしある。
 石川はぼくの部屋にづかづかと無遠慮に入り込み椅子に腰を下ろすと、ポケットから一枚のディスクを取り出した。
「何だよ、それ。それが土産か?」
「その通り。ま、とりあえず見てみろ」
 肝心の中身は聞けず、疑問を引っ掛けながらもディスクを受け取り、立ち上げたパソコンに挿入してみる。
「これは……」
 なんてことはない。普通のゲームプログラムであった。
「なんでこんなもんが土産なんだよ」
「地球圏じゃ大人気らしいぞ、このゲーム」
「流行ものだからって? アホらし」
「作ったのは工藤だ」
「……は?」
 何かの冗談だろ?
「お前、あいつがゲーム会社に就職したの知ってるだろ? で、これが初めてあいつメインで作ったゲームなんだそうだ」
「へぇ……」
 確かに、工藤が大手ゲーム会社に就職したのは知っていた。だが、それっきりだ。他のことは何も伝えられていない。
 しかし、こんなものを作るほどになるとは。趣味が高じるというのは恐ろしい。
「あ、そうそう。もう一つ土産があるんだった」
「何だよ?」
「ほれ、愛しい奥さんからの手紙。欲しいか?」
「な……! なんでお前がそれを持ってるんだよ!」
「今時電子メールじゃなくて手紙とは……羨ましいぞ、新婚さん」
「返せ!」
 重力の弱い室内で、石川は封筒を手にひょいひょいとぼくの手を躱す。……なんでいい年してこんな子供みたいなことしなければならないんだ。
 でも、やるからには本気を出す。仮にもぼくはエースパイロットと呼ばれる身だぞ。たかが軍医がぼくに減重力状態に於ける運動で勝てるはずがない。
 案外あっさりと、手紙は取り戻すことができた。ただ、ぼくの顔は真っ赤になっているだろうが。
 手に収まった妻からの手紙を見て、一種の安心感を覚えた。ちなみにぼくの妻の旧姓は渋谷という。中学時代の同級生だ。
 ぼくが艦隊勤務となった今、彼女は月にいる。一般人が住めるところでは、もっとも火星に近いところだ。実際には昔の経験を生かして船の中で住み込みで働くと断固主張していたのだが、それだけはどうにか説き伏せた。妥協しての月なのだ。だが、ぼくの判断は間違っていなかったと思う。ここは、最前線だ。明日死んでも何等おかしくない。そんなところに、世界一大切なものを置いておけるか。
「どうしたんだ? 手紙片手に物思いにふけったりして」
「……ぼくだって考えごとぐらいするさ」
 と、そのときであった。
 けたたましいサイレンが鳴り響いた。
『警報、警報。敵艦隊のワープゲート確認。第一種戦闘配備発令、パイロットは搭乗機にて待機』
 とたん、部屋の中にいるというのに、艦内の空気が一変したのを感じた。
「おいおい、いきなりだな……」
「それが、最前線ってやつだろ」
 舌打ちしながら言う石川に一言残し、部屋を出る。
「おい」
「ん?」
「……治せる状態で帰って来いよ」
「……了解」
 ぴっ、と統合宇宙軍、石川軍医に敬礼して、ぼくは床を蹴った。
 心の底から湧き上がる、心地よい闘志を感じながら。



 ぼくは、夢の中にいる。
 そしてこの夢が、終わることはない。






  


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