幽霊となった僕の朝は、早い。なにせ、低血圧もクソもないどころか、睡眠自体無くても済むのだ。つーよりか、昼間寝まくってるからかもしれないけど。
寝転がっていたフローリングの床から上体を起こし(といっても、下半身はほとんどないのだが。幽霊だし)とりあえず時計で現時刻を確認する。カーテンの隙間より差し込む太陽光から、僕はだいたい五時頃と踏んでいたが、時計が指していたのは五時半。三十分の誤差だ。くそ、まだまだ甘いな。僕も。
ベッド脇の棚に置かれた置時計(アナログ式)から目を離し、僕はこの部屋の主へと視線を移した。
……なんとだらしない。
初夏に入り、昨晩は熱帯夜なんじゃないかってくらい暑かったのは僕も分かっている。だけど、いくらなんでもこれはないだろ。これを知った時のクラスの男どもの落胆が目に浮かぶようだ。あ、でもこれはこれでいいって奴もいるか。
掛け布団はすべて吹っ飛ばされ、覚醒時には美しく整えられているだろう長髪はとんでもなく拡散し、揚げ句の果てには寝間着がずれて肋骨の下から骨盤上部にかけてが丸見えだったりする。寝顔がかわいいのが唯一の救いかな。きっと生きてた時の僕なら襲いたくなるような衝動に駆られてなけなしの理性と必死に格闘することになってただろうけど、今はねぇ…………。
襲うも何も、僕、幽霊だし。
別に三大欲が消えたわけじゃないと思うけど、結局は人間やめちゃってるわけだし。人間と幽霊の壁は、信じられないほど高いのだ。
とりあえずやることもないので、目の前で爆睡中のモノをまじまじと観察してみる。目標―桐葉が起きるのは通常午前六時だ。まだ十五分以上、猶予がある。
黙ってりゃ、確かにかわいいんだけどなぁ…………
彼女が普段は隠している一面を知ってしまっている僕は、心の中で呟いた。あ、そんなに深い意味があるわけじゃない。本性は獰猛な肉食獣みたいだってこと。
にしても、よく寝てるな。これだけ深く寝てれば、朝あれだけテンション低いのも納得できる。そのくせ、八つ当たりされるのはいつも僕なんだよなぁ。幽霊な僕は殴れないから、食らうのは主に言葉の暴力。青少年のピュアなハートはそのせいで毎朝ズタズタにされるのです。可哀相に。
外では、スズメがちゅんちゅんと平和に鳴いている。毎朝お勤めご苦労なこって。まぁ、同じように桐葉の観察が毎朝のお勤めになってる僕も人のことは言えないけど。けっこう飽きないもんだね。他人の観察ってのは。向こうが観察されてることに気付かないなら尚更だ。……と、そういえば、こいつにはどういうわけか気付かれるんだ。ていうか、僕のこと見えるし。僕が憑いてる相手ってせいもあるかもしれないけど。
なんとなく、僕は桐葉のやわらかそうなほっぺたへ手を伸ばした。どうせ触れないだろうし、ちょっとした悪戯心って奴だ、うん。
僕の半透明な手が、桐葉の顔数センチ前まで来た時だった。
桐葉が突然、目を開けた。
「!!」
僕は慌てて、手を引っ込めた。当の桐葉はまだ目が覚めていない様子で、上半身を起こした後、数秒フリーズ。そしてやっと寝ぼけ眼を手でこすり始めた。そして、欠伸を一つ、伸びを一つ。
「ん……あ、おはよ…」
「……おはようございます」
僕は軽い驚愕に襲われていた。あの桐葉が、低血圧で寝起き弱くて寝ぼけて僕を痴漢と間違えて殴り飛ばそうとしたけど幽霊相手だから何をしても僕の体をすり抜けちゃって、おまけに部屋の中だったから暴走桐葉がおさまった後にはとんでもない惨状が残ってて、とにかくそんな桐葉が、朝の挨拶をしたのだ。これで驚くなって方が無理ってもんだ。雪でも降るんじゃなかろうか? もしくは天変地異の前触れとか。
「……な〜んか、早く起き過ぎちゃったわね……ねむ」
「…まぁ、たまにはいいんじゃない? 早起きってのも」
「そう? なら、起きよっかな……二度寝しないで」
「二度寝したら、たぶん起きらんないんじゃない? 時間までにさ」
「それも一理あるわね…でもダメ。やっぱ眠いもんは眠いわ」
ダメなのか…もう。きちんと学校に間に合うように起きてくれるのならば、僕も二度寝することになんら異論を唱えまい。しかし、これまで僕が見てきた中で、二度寝した桐葉が遅刻せずに済んだことなどほとんど無いに等しい。遅刻寸前の登校途中で死んだ僕としては、駆け足登校は極力避けて欲しいんだけど。それがなかなか難しいんだよなぁ……勝手に憑いちゃったのは僕なわけだし。そうそう文句は言えない。いや、僕だって憑きたくて憑いたんじゃないけど。
そんなこんななうちに、桐葉は再び布団に体を預け―俺はその布団になりたい!と叫ぶド阿呆が世界に何人いるだろう―今にも眠りの世界へとダイブしようとしている。
まぁ、いいか。困るのは僕じゃないし。それに、たぶん今日は――
瞬間、部屋の扉が乱暴に開かれた。
「ねーちゃーん、朝だぞえー!! 実に爽やかで気分がいいでござるぞ〜」
ふざけてるんだか何だかよく分からない喋り口。見慣れた制服に身を包んだ希少動物・紅葉に僕は目を向けた。なんで希少動物かって? そりゃ、滅多にお目にかかれないからに決まってるじゃん。
「あ〜、おはよ、紅葉」
「おはようございまさりけりです、姉上。ついでにユーレイさんもおっはーナリ」
「……おはようございます」
むぅ、未だにこのテンションにはついていけない。このテンションを一日維持するために、他の日は充電に当ててるのかな? まぁ、僕のこと普通に見えてる時点で一般人とは一線を画してるし。たまにはこんな妹キャラもいいじゃないか。
「ちょっと待って…いま、着替えて行くから」
そういうと、桐葉はかったるそうに身を起こした。
「了解でありまするです、さー!」
びしっと敬礼を一発決めた後、紅葉は部屋を退出した。
「……あんたも。とっととここから去りなさい」
「えー」
「えー、じゃない。いいからさっさと行く!」
「いや、僕桐葉からあんまり離れられないし」
この言い訳、実のところ大嘘だ。確かに僕は憑物である関係上(ホントにそうかは僕自身もよく分かってないんだけど)桐葉と距離を置くことができない。幽霊の宿命だ。でも、だからといってこんな極々一般的な八畳間から出られないほどじゃない。僕の予測では、移動可能範囲はだいたい桐葉を中心に半径十メートル弱といったところだった。
「そう……それじゃしょうがないわね」
「そうそう。しょうがな……」
そこで僕は、言葉を失った。
桐葉が、パジャマのボタンを外し始めたからだ。
冗談通じてないのかよ、この娘は!?
まぁ、僕も一応は男の子なわけですし。マジで? らっきー、なんて考えに至らなかったわけじゃない。
でも、なんというか、実際目の当たりにすると、見てるこっちが恥ずかしいというか。故に、僕が取るべき行動は一つ。
「失礼します!」
「あら、出てっちゃうの? 残念」
そんな色っぽい目でこっちを見ながらそんなこと言わないでください。なまじ顔が整ってるだけにいろいろとヤバいから、冗談抜きで。
「覗きたけりゃ覗いてもいいわよ〜。ま、そんな度胸ないでしょうけど」
「……なんとでも言ってください」
ボタンを外したがために前がはだけかけている桐葉を極力見ないようにしながら、僕は部屋を後にした。今朝もまた、僕はいぢめられた。
桐葉の覚醒は冗談ではなく、僕らは珍しく余裕のあるまったりとした朝を送っていた。
「姉上、お茶を下さいであるぞ」
「はいはい、ちょっと待って」
「あ、ゆーれい殿。そこの新聞を取れやゴルァ」
「いや、無理だし」
「usefulじゃないなぁ」
「はい、お茶。アンタも飲む?」
「いや、だから無理だって」
「産休! やっぱり朝は緑茶に限りますのぅ。心が落ち着くぜぃ。Yhea!」
なんて無意味な会話が繰り広げられるくらいなのだ。平和っちゃ平和である。僕が無理無理づくしなのは置いといて。
「っと。そろそろ時間ね」
壁掛け時計を確認した桐葉が言った。
「おお、もうこんな時間でござるか。余裕だと思ってマターリし過ぎたねぃ」
「あれ、ホントだ」
「というわけで姉上、とっとと出撃して撃墜スコアを稼ぐのだ」
「……撃墜?」
「メインターゲットはラブコメの主人公。何となく我が輩は虫が好かんのです」
「……意味わかんねぇ」
「わかんねぇ、じゃないわよ」
すぱこーん、という小気味よい音を立て、紅葉の脳天にスリッパが炸裂した。僕の頭は無事だ。当然のことだけど。
「むむ、朝からキレのいいツッコミでありますな。お姉様」
「……どうしてこんな妹に育っちゃったのかしら。今更だけど」
僕も同意見。渋い顔で頭を押さえる桐葉の悩み、僕にも理解できます。
っていうか、もう行かないと遅刻では?
「やばっ、こんなことしてる場合じゃないじゃない!」
「結局ドタバタするんだね……」
「姉様〜、はようせえな〜」
「ちょっと待ってなさい!」
エプロンを脱ぎながら桐葉が叫ぶ。ちょっくら残念。何が残念かはあえて言わない。
「あの子、ちゃっかり弁当まで持ってって……」
「桐葉、忘れ物は?」
「多分ない。大丈夫、いざとなれば咲に借りるから!」
あぁ、だいぶ焦ってるなぁ。と、僕は思いきり他人事に思った。いや、だってさ、僕は全くもって焦る必要ないし。桐葉が遅れりゃ僕も遅れるし、ダッシュするなら僕もダッシュする羽目になるし。あ、ダッシュはしないか。足無いから。所詮足なんか飾りなんだよ。
学校に近付くにつれ、二人と同じ制服を着用した学生の姿が目に付くようになる。その大半の生徒が、ある意味で有名なこの姉妹をちらちらと見ていた。ある者は隣の友人にひそひそと耳打ちし、またある者はうっとりと魂を抜かれたかのごとき様だった。
……まぁ、名が知れ渡らない方がおかしいか。
桐葉の後ろで、進む度に左右に揺れる彼女のポニーテールを見ながら、僕は思った。
それは桐葉自身に起因するものでもあり、僕にもその原因があるのかもしれない。あと、希少動物故の物珍しさとか。
「ああ、姉上。本日は晴天なりかつ帰りは研究所に直行しますので晩飯は不要でおじゃる」
昇降口の手前に来たところで、紅葉が言った。
「そう。また実験?」
「んにゃ。我が家でまとめておいたデータを置いてくるだけっす。納期が今日でして」
「分かったわ。気をつけて行くのよ」
「あいあいさ。御心遣いありがたく賜りませう」
相変わらず意味不明な言葉を残し、紅葉は校舎内へと消えていった。笑顔で女子生徒をはたいてるところから察するに、友達でも見つけたのだろう。休みがちなくせに友達は多いんだな。う〜む、話しかけられた女の子も微妙に困った顔をしてる。あの性格についてくのはなかなかに大変だからなぁ。
自分の意思とは関係なく桐葉の後を追いながら、僕はしみじみと思った。
「あ、桐葉ちゃん。おはよ」
「あら、咲、おはよう」
ぐ、これだからなぁ……桐葉は。今朝の僕に対するおはようと、今の咲さんに対するおはよう。その雰囲気は雲泥の差、月とスッポンの生き血、円楽と歌丸だ(?)。
「今朝も仲良く登校だね、二人とも」
「……これのどこが仲良しだってんですか?」
そう、咲さんにも僕の存在は見えている。まぁ、紅葉はともかくとして、咲さんは人間ですらないし。見た目こそちょっと可愛いめの女子高生だけど、その実体は、驚くことなかれ、あの世から僕を監視しにきた天使なのだ!
あ、信じてないでしょ? いいんだ、僕だって信じられなかったし、今でも質の悪い冗談なんじゃないかと疑ってるくらいだから。でもまぁ、幽霊がいるくらいだし、天使の一人や二人いたってどうってことない、なんて納得させる毎日が続いている。
「言葉のままじゃない。年頃の男女が二人で登校なんて、何もないほうがおかしいよ」
「あら、二人じゃなかったわよ。今日は紅葉もいたから」
「へぇ。でも今日は、ってことは、いつもは二人きりなんだね」
「なっ……!」
ああ、桐葉の地が出つつあるなぁ。表情で分かる。いつもは六法全書並みの分厚さで張られている猫が、今じゃ卵の薄皮程度にまではがれている。破れるのは時間の問題だ。
助け船を出そうにも、毎朝の桐葉の口撃にすら反撃もできない僕が、その桐葉を打ち負かした咲さんに勝てるであろうか?いや、勝てない。そんな反語表現を使いたくなるくらいの勝率だ。それに、毎朝一緒に登校してるのは事実なわけだし。反論の余地がない。だが、勝つ方法は一つだけある。
桐葉は気付いていないのだろうか?登校する、という前提条件が間違っている。僕のそれは登校じゃない。学校へは勉強しに行くわけでも、部活をしに行くわけでもない。強制連行、という言葉が一番ふさわしいんじゃなかろうか。それに、咲さんは僕が桐葉から離れられないことは知ってるはずだ。それが僕の存在条件なわけだし。
とまぁ、僕が一人で思案してる間に教室までたどり着いちゃったわけでして。程なく一時限目が始まり、僕の睡眠時間も始まったわけでして。幽霊であるにもかかわらず、僕はあっさりと眠りの大海原へと出航した。
目覚めはいつも唐突なものである。
がつん!と、何の前触れもなく衝撃が僕を襲った。じわじわと、頭頂部に痛みが広がっていく。……痛み?
「凄いわね……ほんとに殴れたわ」
「正確には触れる、なんだけどね」
殴る? 殴られたの? 僕。親父にもぶたれたことないのに。
「じゃ、もう一発」
ゴガン! 頭蓋が変形するんじゃないかってくらいの衝撃が来た。二度もぶたれたよ。
「……痛い」
「あら、起きた?」
「起きるよ! そりゃ」
全く、人を叩き起こしといて(まさに文字通りだ)何だよ、その態度は。しかも、どこだよ。ここは。
「やっぱり部長レベルになると力が桁違いだね。あたしじゃこうはいかないもん」
「ホントね。感謝しなくちゃ」
「抱き締められるから?」
「なっ……! ど、どうしてそんな答えが出てくるのよ!」
ここがどこかは一旦置いといて、桐葉、完全に地じゃん。あれは。
ああ、やっと分かった。ここは体育館裏だ。だから人気がない。したがって桐葉がいくら本性をあらわそうと、目撃者は僕と咲さんだけ、というわけなのだ。それなら桐葉が地を出してるのも納得できる。
「ところで……」
時間的には昼休みらしく、校舎内のざわめきと校舎外の騒々しさが混じり合い、共鳴する中、僕はものすごく気になってることを尋ねた。
「僕のおでこに貼ってある…この紙切れはなんですか?」
「ふふん、それはね」
よくぞ聞いてくれました、とでもいわんばかりに胸を張り、自信満々に咲さんは言った。どうでもいいけど胸を張られた時って目のやり場に困るね。ホントどうでもいいけど。
「外界干渉力強化媒体護符二○○四式改良版!」
「もうちょい分かりやすく言ってもらえると助かるんですけど」
「簡単に言っちゃえば、これをつけてる間、君は物に触れたり、触れられたりできるようになるのです」
「だから僕は殴られたのか……?」
「効き目があるかどうかの実験でね。なかったらなかったで私の拳がすり抜けるだけの話だったし。まさかうまくいくとは思わなかったけど」
桐葉はさっき僕を殴った感触がまだ信じ切れていないのか、拳を握ったり開いたりしている。そんなことしなくても、僕の脳天に残る激痛が事実を述べてくれてるっての。
「しっかし、また何だってこんなもんを?」
「ん?だって、不便でしょ。物理的干渉力ゼロって」
「ぶつ……なんだって?」
難しい熟語に、思わず脳味噌が拒絶反応を起こした。
「あんた馬鹿?要するに、何も触れないし触られることもできないってこと。さっきも言ったじゃない」
「……。どうせ馬鹿ですよ、僕は」
いじける。すみっこの方で『の』の字でも書いてやろうか。もとが幽霊だけに、とてつもなく暗くなること請け合いだろう。うまくいけば、本物の人魂とか出せるかも。
「いい加減にしなさい。この根暗ユーレイ」
「あだっ」
ゴガン、ともう一発げんこつを食らった。冗談抜きに痛い。
「……この感触、なかなかに良いわね」
「もしかして、桐葉ちゃんってS?」
「ばっ……! ち、違うわよ!!」
「ふ〜ん……」
「何よ、その意味深な流し目は!?」
「別にぃ〜」
強いなぁ……咲さん。やっぱり亀の甲より年の功って奴なのかな? 桐葉が、ホントに赤子の手を捻るって感じであしらわれてるし。
「ま、その護符は君達にあげるから。ポルターガイストを起こすなり桐葉ちゃんに夜這いするなり好きに使ってよ」
「んなことしませんよ……」
「そう? つまんないの」
などと、本当につまらなさそうな顔をする咲さんに、僕は一種の頭痛を感じた。まだ、紅葉の相手をしてた方が幾分楽に感じられる。
と、金婚冠婚と授業開始五分前を知らせるチャイムが耳に飛び込んで来た。
物を触れられるわけだから、少しは暇潰しの幅が広がるかな? などと思いつつも、結局僕は午後も爆睡して時間を潰したのであった。
「こいつに貼り付けた御札は確かに本物だわ。咲が天使でこいつを監視しに来たっていうのも信じてあげる。だけど……」
独り言のようにぶつぶつと言っていた桐葉が、急に声を張り上げた。
「なんで咲が家族団欒に紛れ込んでるのよ!?」
「なんでって言われても……ねぇ?」
「同意を求められても困惑するしかないので止めてください」
ついでに言わせてもらえば、たった二人しかいない上に他人同士でも家族団欒は成り立つのだろうか。
食器洗いをしながら、僕は思いを馳せた。BGMとして、桐葉と咲さんの口論も流れたりしている。桐葉が一方的に熱くなってるだけだけど。
「今帰った〜」
「あ、お帰り」
「ただいまで……うにゅ?」
全く気配を感じさせずに家の中へ侵入を果たした紅葉が、台所に立つ僕を見て、訝しげに目を細めた。紅葉は口論中の二人に気付いていないようだし、二人もたぶん紅葉の帰宅に気付いていないだろう。
「ワシも耄碌しましたかの。ユーレイ殿が流しで食器洗いをしているように見えるでアル」
「ホントに洗ってるんだよ」
苦笑混じりに答える。やはり姉妹なだけあって、桐葉とどこか似ている紅葉の整った顔が、目の前の不思議(=僕)によってクエスチョンマークに包まれるのは、なかなかに見応えのあるものだった。
「むむむ……私の記憶が正しければユーレイ殿は物に触れることは不可能だった筈で候。まさか、人間として黄泉がえった……?」
「違う違う。ほら、足無いでしょ?」
「足なんて飾りです。偉い人にはそれが分からないのです」
「…何だって?」
「いや、戯言妄言独言であります。さらりと流して頂きたい」
相も変わらず僕たち凡人の遥か彼方、OBを超えて隣のホールでカップインみたいな思考回路をしていらっしゃる。ついて行くことすらままならない。
「つまるところ、ユーレイ殿はついに人間並みの力を得たというわけですな。故に姉上により強制労働させられていると」
「そういうこと」
完全無欠の推理だった。事実と寸分違わない。ほぉ。
常識とか正常な日本語とかがまるまる欠如してる代わりに、この娘さんは頭だけは抜群に良いんだよな。やっぱ、天才になるには人間として大切な物を何か失わねばならないのか。だったら天才ってのも考え物だよなぁ。
話したいことは全て話し終えたのか、紅葉は台所から去って行った。鼻歌交じりだった理由は分からないけど。僕も仕事に戻り、黙々と皿を洗う。洗いながら、幽霊も手が荒れたりするのかな?なんて思ったりした。
一通り洗い終わると、隣でも第一ラウンドが丁度終わったらしかった。
「はぁ…はぁ……」
「ぜぇ…ぜぇ……くっ」
「……何で二人ともそんなに疲れてるの?」
紅葉はその横で何ごともなかったかのように涼しい顔でテレビみてるし。
「あなたのパンチ、結構効いたわ……」
「そっちこそ」
二人の視線が重なり、ふっと笑みが零れる。越えなければならない壁を見つけ、挑戦することへの意思を感じさせる笑みだった。……なんのこっちゃ。
「この決着は、またいずれ」
「もちろん。今度は負けないからね」
「それはこっちの台詞よ」
「…………」
タイミングがいいんだか悪いんだか、テレビは丁度、格闘技の番組を放送していた。野獣とか何とか言われてるヤケにでかい外人がボコボコにされているところだった。格闘技に興味はないけど、やっぱ筋肉の量が絶対的戦力差じゃないんだな、なんてことは漠然と思った。まぁ、どうでもいいか。
しかしテレビの前の紅葉はその試合を大変楽しんでいるようで、自分も拳を繰り出しながら「いけっ、そこっ!」とか「いてまえいてまえ!」などと叫び、一人白熱していた。
「あれ、もうこんな時間?」
落ち着きを取り戻した咲さんが、唐突に言った。
「流石にもう帰らないとやばいな…」
「そう? じゃあとっとと帰りなさいよ」
「うわ、桐葉ちゃん酷いなぁ。そんなにあたしが邪魔?」
桐葉、確かに言い過ぎ。
「邪魔か。まさにその通りね」
「ふ〜ん……確かに、二人が仲良くしてるのをあたしも見せつけられたくないし。退散しますか」
「んな……! 誰がこんな得体の知れない幽霊なんかと……!」
「あれ? あたしは桐葉ちゃんと紅葉ちゃんのことを言ったつもりだったんだけど?」
「んにゃ?」
突然自分の名前が出てきたので、紅葉も何事かという感じで振り向く。
しっかし、この二人も飽きないよなぁ。通算で何回目くらいだろう? こんなことは。桐葉から吹っ掛けることもあれば、咲さんからの時もあるし。しかも、何だかんだ言ってもすぐに仲直りするし。というか、じゃれてるだけなのかな? それにしちゃ迫力満点な気がするけど。
「それじゃね〜。桐葉ちゃん、いくら触れるからってユーレイ君のこと襲っちゃ駄目だぞ」
「誰が襲うかっ!」
捨て台詞を吐いて去っていく咲さんに、桐葉がクッションを全力で投げ付ける。しかしそれは、すんでの所で閉じられたドアに阻まれた。
「はぁ、はぁ、はぁ……」
「あの…桐葉?」
「っ!?」
声を掛けると、桐葉はたった今僕の存在に気付いたかのように驚いた顔を見せた。頬が赤いのは、怒って興奮した上に運動したからだろうか?
「私、お風呂入ってくる!」
桐葉はなぜかかなり憔悴した様子だった。ろくな間も空けずに部屋を早足で出ていく。
「あ、ちょ、ちょっと!」
桐葉がいきなり移動を始めれば、それなりに離れた瞬間縄で引っ張られるみたいに僕の体は吹っ飛ぶわけで。
「!!」
しかも慣性の力は偉大で、僕は抗うこともできず、一直線にそのまま壁へと……
ここまではいつも通り、日常茶飯事のことだった。故に僕は、不覚にも油断してしまっていた。僕はものに触れられない。即ち、壁に叩き付けられることなど万に一つもないからだ。普段ならば。
では、今は?
残念なことに、僕は物理的干渉力というものを得てしまったわけでして。
そのまま、壁へと叩き付けられ、幽霊のくせに、気を失う羽目になった。目茶苦茶痛い。
かなりの大音量を響かせたらしく、近くにいた紅葉と、驚いて飛び出してきた桐葉の焦りまくった顔が、薄れ行く意識の中、記憶の隅に焼き付けられた。
よほど打ち所が悪かったらしい。僕が目を覚ましたとき、目の前で桐葉のポニーテールが揺れていた。うーん、うなじが眩しい。って、そんな場合じゃないよ。
「ねぇ、桐葉」
肩をちょんちょん、とつついて声を掛ける。でもこの行動が悪かった。
「ひっ……!?」
突然の刺激に、桐葉は目茶苦茶驚いた様子でびくりと面白いくらいに反応した。
「な、何? 紅葉……じゃないわよね」
「何を言うでおじゃるか姉上。儂ではありませぬ」
「僕だよ、僕」
「じゃあ、誰なのよ。気持ち悪いわね……」
「ちょっとちょっと」
おいおい、これは新手のイジメですか? 二人して派手にシカトこいてくれている。
なら、こっちだって……
突き突き突き突き突き突きぃ!!
なんとかの拳よろしく猛スピードで桐葉の肩をつつきまくる。途中に紅葉への攻撃を混ぜることも忘れない。ものに触れるからこそできる、たった今閃いた必殺奥義だ。これで僕を無視するわけには……
「ちょっと紅葉! ふざけないでよ!」
「姉上こそ、我輩を愚弄するのはやめれ!」
「え、何のことよ?」
「何とは。姉上が我輩の肩をちょんちょんしたのであろう?」
「はぁ? 私じゃないわよ」
「ではそれ以外に誰がいるので?」
「う〜ん……誰かいたような気はするんだけど……」
「しかし、射程内には誰も居りませぬゆえ」
「…………そうよねぇ」
「姉さん、ボケたんか?」
「まだ早いわよ」
この会話の間、僕は必死に自己主張していた。朝日に向かってバカヤローとか、世界の中心で哀を叫んだりとか、桐葉の目の前で一発芸かましてみたりとか、ショートコントしたりとか、思い付く限りのすべてをそこに置いてきた。
しかし、やっぱり僕は無視されたまま。そして誰にも気付かれる事なく、孤独を味わう羽目に陥っていた。周りに僕を見える人がたくさんいたがために忘れかけてたけど、元々幽霊ってのはこんなもんなのだ。普通、その存在を知られることはない。寂しいねぇ……
教室へ入ったところで状況に改善は見られず、僕はしばらく、本当に、マジで幽霊として日々を送ることになりそうだった。何度か、桐葉はただ単に僕を無視して遊んでるだけなんじゃないかって思ったけどその可能性はとてつもなく低い。だって、いつもの桐葉なら髪の毛を引っ張った時点で半殺しにしてるだろうし。僕、死ねないけど。
自己主張にも飽きたので、黒板の方ををちらりと見てみる。生きてた頃と変わりなく、一番後ろのこの座席からでも黒板に書かれた文字ははっきりと読み取れた。数学の時間だった。相変わらず、そこには僕には到底理解不能な文字の羅列があった。
僕も生きてたなら、今頃こんなことやってるはずだったんだよなぁ……
いつもなら数式を見ただけで拒絶反応起こして寝てるはずなのに、今日に限って眠くなるどころか意識は明瞭になり、感傷的にすらなっていた。なに馬鹿な事考えてるんだ、僕は……
放課後になった。自分で言うのも何だけど、最初僕はそのうちキレて教室で暴れ回ってポルターガイストでも起こすかと思っていた。だけど実際そんな事は皆無で、でもやっぱり誰からも相手にされず、いるのにいないと扱われるのは思った通りに辛い事だった。精神的疲労とダメージは計り知れない。半ば僕は、自棄になっていた。そんな時だった。
「あら……?」
下校しようと桐葉が靴箱を開けた瞬間、眉と眉の間に皺ができた。靴箱に入ってるものね……大体想像つくけど。大方、漢字で二文字、カタカナで五文字(伸ばし棒含む)の奴だろう。ほら、やっぱり。
その封を、桐葉は何のためらいもなく切った。少しは怪しめよ。声に出しても、桐葉にはやっぱり届かなかった。
手紙には、例の如く青春の溢れたことが書いてあった。ずっと前からアレでした。あなたの云々がかくかくしかじかで。今日の五時にどこどこに来て下さい。三年八組誰某誰兵衛。要約するとこんなことだ。要約になってないとは言わせない。やる気ないんだから良いだろ。
「…………!」
ことの当事者である桐葉は、ずいぶんと焦っているみたいだった。顔が真っ赤だ。でも、そんな反応を示してるからといって油断はならない。桐葉が男からの手紙を受けとるのは今日に始まったことではないからだ。見た目だけはかなり良いから、僕が知ってる限りでも平均女子の数倍はもらってるはず。だけど、意外なことに桐葉はこういうことが苦手らしく、その度に可愛らしい反応を見せてくれていた。しかも、そんなところは妙に生真面目で、指定された場所には時間きっかりに顔を微妙にほてらせながら行ったりもしていた。おかげで僕はこの学校における桐葉周りの恋愛事情をこれでもかとしることになってしまった。いやぁ、いろんな人がいたなぁ。細かく思い出すのは面倒だけど。
まぁ、全員に共通するのは、見るも無残に玉砕したってことだ。これも、僕の知る限り、つまり僕が死んで桐葉がこの学校に来てからの話だけど。
しばらくあたふたと不審者もどきな動きをしたあと、桐葉は意を決したらしく動き出した。無論、その足は手紙に書かれていた場所へと向かっている。
そこは即ち、屋上だった。
僕が桐葉に束縛されてるってのは変わらないらしく、僕の意思とは無関係に連行される。本音、行きたくない。他人の青春の1ページなんか見たくもない。そんなものを(不可抗力とはいえ)盗み見、聞くほど僕も悪趣味じゃないし。
拉致られて(犯人に自覚無し)連れてこられた屋上。そこへつながる扉を前にして、桐葉は一つ、深呼吸をした。だいぶ、緊張してるみたいだった。
「…………よしっ」
掛け声とともに、弱々しく桐葉は金属製のドアを開けた。くあ、太陽の光が眩しいぜ。
「あ………」
扉の先で待ち構えていたのは、無論ボスキャラなどではない。色男だった。決して僕の持ち得ることのない、さわやかなオーラがでまくっていた。いや、今は微妙に青春色の空気が混じっている。これもまた僕には縁のないもんだけど。
「あの……手紙、読んでくれたんだ」
「う、うん……」
相変わらず真っ赤な顔をしたまま、弱々しくうなずく桐葉。通常時の桐葉からは考えられない様だ。実は別人なんじゃないかって疑いたくなる。相手の方もびっくりしてんじゃないか?
二人は、それっきり黙りこくってしまった。ああ、くそ。なんだよこの空気は! 僕はいちゃいけないみたいな雰囲気じゃないか。僕だってこんなところいたくないさ。だけどなぁ……
「あ、あの……!」
お前らみたいのは見てるだけでムカつくんだよ!
男が必死の声を張り上げたところで、僕は彼の背後の金属フェンスを思いっきりひっぱたいた。風なんかじゃ到底ありえないような音が響く。その分、僕の手もなかなかに痛かったけど。桐葉も男も突然のできごとに瞬間的フリーズをしてしまっていた。よし、とりあえずは成功。
「俺は……」
おっと、まだやる気かい。
お次はあのドアだ。開いて、思いっきり閉める。大概屋上への扉ってのは頑丈にできている。が、それ故に重さもある。よって、僕みたいな非力な人間でも、思いきり叩き付けるように閉めれば……人の一人や二人ビビらすなんぞ造作もないってわけだ。
「…………」
「…………」
効いてる効いてる。二人とも黙っちゃったよ。
さて、今度は何をしてやろうか……
悪意に満ちた僕が、たった今閉めたばかりの重厚なドアから離れようとした時だった。
「ここに居たかぁぁぁぁぁぁ!」
回避は不可能だった。奇声をあげながら飛び込んで来た何者かが、思い切り開いた扉の一撃。幽霊でなければ即死だった。ドアと壁に挟まれながら、僕は心の中で呟いた。痛みは案外少なかった。別にどうでもいいけど。
でも、とりあえず理不尽な武力行使には腹が立ったので、僕はそいつの面を拝んで二、三発お賽銭を叩き込んでやろうと視線をさまよわせた。
「…………咲さん?」
「あれ、そんなところにいたのかい」
あんたのせいですよ。ボソッと言ってみたい気もしたが、次は本当に殺されかねないので遠慮しておく。
さっきまでここの主役だった桐葉と色男はといえば、フェンスは鳴るわ扉が閉じたと思えば間髪空けずに人が来てしかもそいつは誰もいないはずの壁に向かって話しかけるわで、茫然自失といった様子だった。二人して。
「良かった〜、ギリギリ間に合ったみたいだね、うん」
「間に合うって、何に? それより―」
「ん、大丈夫。そこら辺の事情はもう分かってるから。詳しいことは後で説明する。と、その前に……」
何だ、何をする気なんだこの人は。
「お兄さん、ちょいと桐葉ちゃんは借りて行きます。多分返さないけど」
と、桐葉を問答無用で捕獲し。
「んで、君も無論ついてきなさい」
あ、やっぱり。……で、何でフェンスに向かうの?
「行くよ。舌噛まないようにね!」
「ちょ、ちょっと。どこの誰だか知らないけどあなた一体何を―」
「あたしのことも記憶にないか。ま、無理もないけどね」
「あ、あの、咲さん?」
「では、咲、いっきまーす!」
「へ……?」
咲さんはふわりと柔らかな跳躍で自分の身長より高いフェンスを軽々と飛び越え、そしてそのまま、重力加速度9・8メートル毎秒二乗に逆らう事なく、自然落下を始めた。
その手に掴む、僕らもろとも。
普段から浮いてる僕はともかく、桐葉はと言えば、あまりに突然な、しかも現実離れした出来事に対応しきれないらしく悲鳴すらもあげられていない。
う〜む、しかし、いくら僕といえどこの高さから落ちるのは初体験だなぁ。死にはしないといえども、怖くないと言ったら嘘になる。そしてそのまま僕らは地面に叩き付けられ……なかった。着地の直前、浮力が働いたかのように減速、ふわりと地面に降り立った。
時間にして五秒にも満たなかっただろうけど、僕にはその何倍にも、桐葉には永遠に近い時間に感じられただろう。
「………?」
そこで僕は違和感を覚えた。僕らが立っているのは、ちょうど職員用の駐車場となっているところだったんだけど……
白黒だった。全てが。
空も、木も、目の前に停まる車も、足下のアスファルトも、校舎も。
それに、人の気配もない。今の時間帯なら、グラウンド方面から体育会系の叫びが聞こえてくるはずなのに、全く耳に入ってこない。ここが普通じゃないことは明らかだった。
「咲さん、ここは……」
「時の狭間、閉鎖空間、虚数世界、負の象限……いろんな言い方があるね。ま、君が思ってる通り、普通の空間じゃないよ」
「普通の空間じゃないって……僕らは一体どうなっちゃったんですか!?」
「どうにもならないよ。もともとおかしかったんだから」
「……え?」
咲さんは数歩前にでると、くるっとこちらに向き直った。
「元は、あたしが渡したあの護符が原因なの。あれで、君は一時的に物理的干渉力を得た。でも、実はあの道具自体に欠陥があって、干渉力を得た代わりに幽霊くんの存在がねじれちゃったんだ。だから、存在しても存在しない。ねじれの位置にいるからね、桐葉ちゃんたちの存在とは交わりがなくなっちゃった。それで、みんな君に気付かないってわけ」
「……………」
「でも、あたしは元々の存在が人間とは違うからね。どっちかというと幽霊に近いし。一応霊体だから。それに、実はあの護符、仕上げにあたしの力使ってるの。課長の霊力の蓋、みたいのものかな。でも、そのせいで不具合が起きちゃったみたいで。霊力使った私の存在までずれちゃうし」
「……………」
「まぁ、君の存在そのものは、位置がずれただけだから本質にはなんら影響がないわけだけど。……って、分かってる?」
「はぁ」
ぶっちゃけ、なんのこっちゃって感じだった。ただでさえわけ分からない空間に連れてこられて、なおかつわけ分からん説明受けて、どう理解しろと?
だけど一つだけ、聞いておかなきゃならないことがある。
「元に戻す方法は、あるんですか?」
「当然。でなきゃキミたちをこんなところに招待したりしないよ」
「……でもやっぱり、お約束通りその方法は一つしかないとか言うんでしょう?」
「あれ、よく分かったね。まさにその通りなんだなこれが」
けらけらと、咲さんは笑った。何が面白いんだか。
「……で、僕は何をすればいいんですか? できる限りさっさと元に戻りたいんですけど」
「ああ、その前にちょっと待って」
何ですか。これ以上寂しいと死にますよ。これでも繊細な年頃なんですから。
「一つだけ、貴方に尋ねるべきことがあります」
さっきまでの緩んだ表情から一転、至極真面目な顔で咲さんが言う。
この顔、結構久し振りに見た気がする。そうは言っても、そんなに時間は経ってないのかもしれない。でも、あっちの少々脳天気気味な咲さんの方を見慣れちゃったからなぁ。
「どちらかといえば、これが咲という天使の本当の人格なんですけど」
苦笑。うーむ、顔は同じなんだけど何か別人みたいだ。個人的にはこっちの咲さんもいい感じだと思う。頭上に浮かぶ輪っかも似合うし。
「……本題に入りましょう。貴方には現在、二つの選択肢が用意されています」
「二つ?」
「はい。一つ目は、貴方が今言ったように貴方の存在を今まで通りに戻すということ」
「それでいいじゃん。決定」
大して考えることもなく即答。首肯も加えてみる。
「……人の話は最後まで聞いてください。二つ目、もうひとつは私たちの仲間、すなわち天使になるという道です」
「え?」
意外な道だった。二股の道だったけど実はその間の林の中に隠し通路が! くらいの驚きがある。ちょっとだけ、心が揺れた。天使という単語の響きが、僕の心に瞬間最大風速35m/sの風を吹かせた。重りも何も付けていない僕の心がゆらゆらどころか吹き飛ばされそうになるのも無理ない話だ。
「今、評議会で貴方を特例的に天使とするという案が上がっています。おそらく、貴方にその意思があれば可決はそう難しくはないでしょう。逆に、貴方が拒否すればこの話は白紙に戻されますけど」
ふーむ、つまりチャンスは今回きりってことか。これを逃せば天国への就職はなくなる、と。しかし、僕みたいのがなってもいいものなのかね、天使ってのは。
「問題ありません。貴方並にダメな知り合いもいますし」
笑顔でさりげなく僕をダメ人間扱いする。そりゃあね、僕だって自分の事くらい分かってるよ。だけどさ、謙遜って日本語もあるじゃないか。そこをそのまま肯定されちゃあなぁ……僕の立場がないって。
「天使となれば、今後の生活は保証されます。天国の名は伊達じゃありませんから。生きるのに不自由する事はありません」
「生きるのに不自由っていうか、もう死んでるんですけど」
「……こほん。えー、とにかく」
あ、無視した。
「我々としては、こちらを強くお勧めします。ちゃんと給料ももらえます。入国3年目までは公営の寮に入れます。家賃は安いし食堂のご飯も美味しいです。あ、でも部屋にテレビがありません。自分で買ってください」
咲さんは天国の長所と思われることを一気にまくし立てた。天国にまで人間を堕落させる忌々しい電波機器があるのかすこぶる怪しい所だったけど。
「まぁ、貴方の意思が一番に尊重されますが。どちらにするか、決めてください」
そんな、急に言われたって……決められないよ。こう見えて、昔っから優柔不断で通ってるんだ。二択問題で三十分悩んだ事もあるんだぞ。
と、不意に頭に浮かんだことがあった。
「ねぇ、一つ聞きたいんだけど」
「何ですか?」
「もし仮に僕が天使になる道を選んだとする。そしたら、桐葉はどうなるのさ?」
「どうにもなりません。幽霊としての貴方に関する記憶が全て失われる他は、それまで通りと変わらない生活に戻ります」
「……………」
これまた、お約束だな。
落ち着いてこんなことを考えられるのは、咲さんの口から放たれた言葉の意味を飲み込むことができないでいるからだろうか。まぁ、よくあるお別れって奴になるのは分かる。
「でもさ、そんなこと言われたら、僕は天使になんかなりたくなくなるよ。さっきまではちょっとそれもいいかなって思ってたけど」
「では、貴方の存在そのものが害だとしたら? 貴方が桐葉さんに憑いている、この意味を理解していますか?」
「……どういうことだよ」
「貴方は、そこにいるべきモノではないのです。不安定な存在ゆえに心持ち一つでどの方向にも傾く。現に先程の屋上で貴方は何をしましたか?」
「屋上……?」
桐葉が呼び出されて、色男がいて、二人を見てたらなんかムカついてきて……
「腹が立った。それだけの理由でポルターガイスト一歩手前のことをしましたね?」
残念ながら、否定できる要素はない。
「でも僕は……!」
「でも……なんですか?」
咲さんの声がやけに冷たく聞こえる。
「し、仕方ないじゃないですか。その、桐葉が、ああなってるの……」
うまく言葉にすることができない。
桐葉……そうだ、桐葉なら僕の味方を……!
そういえば、桐葉はさっきから一言も喋っていない。文句の一つや二つ、吐いていてもおかしくないはずなのに。まさかと思い、桐葉が居るはずの場所に目をやる。大丈夫だ、ちゃんといる。だけど、どこかおかしい。
「ああ、桐葉さんなら喋れませんよ。というか、動けません。諸事情により活動を止めてあります」
「……桐葉に何をしたんですか」
「何と説明したらいいのやら……私ではまとめられません。知りたいのならば、桐葉さんの妹さんにでも聞いてください。彼女なら答えられるはずです」
紅葉が? どういうこっちゃ。
「今はそんなことを話している場合じゃありません。正直、この空間を保つのも体力がいるので。保って、あと15分かと」
何ですと!?
「さぁ、早く決めてください。できないならば、面倒なので天国へ強制連行しちゃいます」
何ですと!?(パートU)
「不安定な存在のまま、これまで通りの不自由な生活を送るか、それとも天国で悠々自適な生活を送るか。貴方自身で選んで下さい」
「あの、も一つ質問」
「……これでも一応、急いでるんですけど」
「ごめん、でも聞いておきたい」
一呼吸、置く。
「咲さんは、どうするの?」
「……貴方が天国に来れば、私の仕事は終わりです。自分の職場に戻ります。残るのならば……私もこれまで通りでしょう」
「ふーん……じゃ、最後の質問」
「しつこいですね」
「まぁまぁ。これで本当に最後にするから」
この質問の答えで、僕は決めようと思う。本当は桐葉にも聞いておきたいところだけど、桐葉の性格からして本音は返ってこないだろう。その点、咲さんは素直というか、単純だからな。
勿体ぶらずに、僕は聞いた。
「楽しかったですか? 僕や、桐葉との学生生活は」
「…………はい。仕事のはずなのに、すごく楽しかったです」
その答えを、僕は分かっていたのかもしれない。心のどこかで、これ以外の返答がきたらどうしようかと焦っていた。
答えは、決まった。簡単なことだった。
「なら、僕は元に戻りたい。桐葉や、紅葉や、咲さんがいる生活に戻りたい。せっかく誘ってくれた咲さんや天国の皆様には悪いけど……やっぱり、僕はあの暮らしがいい」
どうだ、言い切ってやったぞ。
「……そうですか」
そう言うと、咲さんは顔をうつむかせた。あれ、なんか悪い事言っちゃったかな?
というのは思わせぶりで。
「よし、そうと決まれば次のステップに行こうか!」
「うわっ!?」
顔を上げたかと思えば、そこに張り付けられていたのは見覚えのありまくる笑顔。
「咲さん……驚かせないで下さいよ」
「別にびっくりさせたつもりはないんだけどなぁ。まぁ、これからの展開を考えるとこっちの方がいいかなって」
「はぁ」
これからの展開ってなんですか。なんとなく、嫌な予感がするんですけど。それに、次のステップってことはなにかしなきゃいけないのか……?
「ご明察。今から、君の存在の位置修正しなきゃいけないんだな。そこで、やって欲しいことがあるんだけど」
「……何ですか?言っておきますけど、僕のできる範囲にしておいて下さいよ。数式解けとか、マッハ3で走れとか、ザクで大気圏突入しろって言われても無理ですからね」
「そんな難しいことじゃないよ。簡単簡単」
咲さんはそう言ったものの、実際にその口から出てきた指令は、僕の想像を絶する―そう、ネズミが猫一個師団を打ち破るくらいに困難なものだった。
「桐葉ちゃんに、キスして」
目の前が、真っ暗になった。
なんと電波受信良好なことぶっ放してくれたんだろうか。できれば、僕の聞き違いであって欲しかった。そういえば、最近耳掃除した記憶がないし。
「まぁ、互いにねじれの位置にある存在同士を無理やりくっつけるには、それぐらいのことしないと。ああ、安心して。桐葉ちゃんの記憶には残らないから」
……この口振りから察するに、僕が聞いたことは間違いではなさそうだった。
曲げられない真実って奴だ。
「んじゃ、時間も押してるわけだし、とっとと一発キメちゃって下さいな」
「ちょ……待って下さいよ!」
「ん? 何かな? これだけじゃ物足りないとか? その先は……うん、あたしが許す。ただし、時間ないからさっさと済ませてね」
「努力します……じゃなくて」
ついついノリツッコミ。いかんな、この悪癖は。……なんて反省してられる場合じゃないんだよ。
「何でですか!? 僕が桐葉に、その……しなくちゃいけないなんて」
「おやおや、接吻の一つも口に出して言えないとは。意外とウブなんだねぇ」
ふふふ、とさもおかしそうに咲さんが笑う。
「放っておいて下さいよ。ともかく、ろくな説明もないままそんなことするなんて、僕は断固として反対ですからね」
「こうしないと元に戻れない、って言っても?」
「うっ……」
「それから、最初に言ったはずだよね。お約束通り方法は一つだけだって」
そういえば、そんなことも無きにしも非ず。しかも、僕から言い出したような記憶が。
認めたくない、そんな結論。紅葉のぶっ壊れっぷりくらい認めたくない。けれど、何回検算しても答えはそれしか出ないんだ。無限ループにはまった気分。
「ほら、男なら覚悟決めちゃってよ。それとも、怖いのかにゃ?」
怖いわけなんか……あるな。少し。
咲さんは否定したけど、僕のしようとしてることが桐葉に知れた場合。僕はともかく周りが大変なことになるだろう。それに、僕の立場が無くなる。退魔師とか呼ばれて祓われる可能性も無きにしも非ず。
「だから〜、心配ないって言ってるじゃん。今そこにいる桐葉ちゃんは、ぶっちゃけ意識がないんだよ? そうだよ、人工呼吸。あれと同じもんだと思えば大したことないよ。それ、さっさとやっちゃえ」
「……………」
一気にまくし立てる咲さん。しかしそんなもの腹の足しにもならず、僕の結論を揺るがすにはとてもじゃないけど貧弱な応援だった。ていうか、楽しんでるんじゃないのか?
「早く早く。あと十分切ったよ」
「あぁぁ、もう!」
桐葉、ゴメン。僕が先にキレちゃいました。
「分かりましたよ。やればいいんでしょう、やれば!」
「いよっ、男だね〜! そんな君にスペシャルサービス。足下をご覧」
足下? 見ようにも、足がないわけだから当然足下もないわけで……
訂正。あった。
しっかりと、足があった。地面に付いてた。あの時と同じ、制服の黒いスラックスだった。安売りのとき買った、27センチのスニーカーを履いてた。パーフェクトだった。
「まぁ、疑似的なものだけどね。人間同士の方が雰囲気出るでしょ?」
「疑似……じゃあ、別に生き返ったわけじゃないんですか?」
「当たり前じゃん。死人を生き返らせたりするなんて無理無理。それこそ神頼みしないと」
ちょっとがっくり。
「ちなみにこの空間の中でだけだからね。外に出たら足もないし何にも触れない、本当にただの幽霊に戻ってもらうよ」
「え、そこまで戻るんですか?」
てっきり僕は、物が触れる状態で戻るのだとばっかり。
「世の中そんなに甘くないよ……ってこんなことしてる間に残り五分じゃん」
左腕のアナログ式時計を見ながら咲さんは言った。どういう用途なのか全く想像が使いけど、同じデザインの時計が一つの腕時計に四つも乗っていた。そのせいで、時計自体がやけに大きく見える。
「…………ふぅ」
僕も男だ。やるときはやるさ。
地面を蹴るという久し振りの感触を噛み締めながら、僕は桐葉の正面に向かい合う形で立った。浮いてる時じゃ分からなかったけれど、桐葉は僕より10センチくらい、背が低かった。
「…………」
「…………」
「…………」
「…………」
「……あの、咲さん」
「ん、何?」
「そうやってじっと見られてると、非常に恥ずかしいんですけど……」
おまけに、その好奇心丸出しな目ってのはやめてくれないかなぁ。
「気にしない気にしない。ささ、思い切っていってみよう」
「めっちゃ気になりますが」
「……分かったよ。あっち向いてればいいんでしょ?」
「ついでに言っておきますけど、いきなり桐葉の意識覚醒させるのとかもなしですからね」
ちっ、という舌打ちが聞こえた。やっぱりやる気だったか。全く、何を期待してるんだか。こちとら、今後の人生かかってるってのにさ。
まぁ、ともかく、これで言い逃れができない状況が出来上がったわけでして。
……じゃ、ちょいと失礼して。
桐葉の肩に手を掛ける。細かった。
踏ん切りを付けるのに、幾許かの時間を要した。これでも初めてなもんで。こういった経験は。
……よし。
意を決し、顔を近付ける。桐葉の目が閉じていたのは不幸中の幸いだった。いや、一概に不幸とも言えないけど。
唇に、柔らかな感触が伝わった。
僕を殺した人間との口付けは、言葉で表すことは到底不可能であるほどに、甘美なものだった。
「…………」
気が付けば、朝だった。カーテンの隙間から朝日が差し込み、スズメのさえずりがこれでもかってくらい耳に入ってくる。
……今までのは全部、よくある夢オチって奴ですか?
そうとしか思えなかった。というかむしろ、そう思わずにはいられなかった。だって、話がおかしすぎる。いろんな意味で。
視線をさまよわせると、いつも通りだらしなく眠りこける桐葉がいた。試しに、手を伸ばしてみる。何を試すかって?
僕の手は、立体影像の如く桐葉の頬をすり抜けた。ふむ、やっぱり夢だったんだな。
「ん……」
あ、やばい。桐葉が目を覚ました。こんな至近距離にいるのを見られたら……大変なことになる。部屋が。
「やあ、おはよう。桐葉」
「……おはよう」
瞬間的に距離を取って挨拶をする。相変わらず、桐葉の寝覚めはあまり良くなかった。
「って、あんたいつからそこにいたの?」
「へ?」
なんのこっちゃ。いくら寝起きで頭テンパってるからってそんな質問はないだろ。
「昨日一日中失踪しておいてよく言うわよ。全く」
「失踪って……僕が?」
「そうよ。あと咲も。どこか行くんなら一言残してからにしなさいよね。……心配になるじゃない」
「ご、ごめん」
さっぱり状況が飲み込めないものの、とりあえず詫びる。なんとなく悪いことした気がしてさ。
しばし、沈黙。
「……ま、いいわ。ともかく、今後気をつけること」
「善処します」
「ん、よろしい。じゃ、私着替えるから」
「あ、分かった」
今日のところはおとなしく、従っておいた。
目の前で桐葉のポニーテールが揺れている。いつもと変わらない光景だ。
今日は紅葉は一緒じゃない。なんでも、研究所に用事があって、朝早くに出ていったそうだ。天才は大変だねぇ。そういえば咲さん、何かを紅葉に聞いてくれって言ってたような……まぁ、いいか。
特にこれといって変わったこともなく学校にたどり着いた。
しかし、平和は、ここまでだった。それを知らせるかのように、校門を入ってすぐ目に飛び込んできた黒山の人だかり。昇降口脇に集まっている。
「どうしたのかしら?」
「さぁ……?」
「あそこって確か、掲示板だったはずよ。何か面白い物でも貼られてるのかしらね」
と言いつつも結局のところそこまで興味あるわけでもないらしく、人だかりを避けるようなコースをとって歩く。
しかしそこに近付いた瞬間、聞き覚えのある声が響いた。
「おお、姉上! やっと参上しやがったか!」
この口調。紅葉だった。桐葉と同系統な顔が群衆を掻き分けて出てくる。そしてなぜか、面白くて仕方がないというような笑顔を浮かべていた。
「紅葉。一体どうしたの?」
「それはこっちの科白である。姉上こそいかが致した? あんな写真撮られてもうて」
「写真? 何のことよ」
「ご存知ないとな? それともしらを切るつもりか。故郷のおっかさんが悲しむぞ」
「私の母親はあんたの母親でしょうが。本当に知らないわよ」
「ほう、ならば百聞は一見にしかしか。とくとご覧になるがいい」
僕は黙って、二人の会話を聞くしかなかった。何かさっきから、嫌な予感がまとわりついて僕を苦しめるんだよ。ああ、逃げるという選択肢がないことを非常に悔やむ。
紅葉に促され、桐葉が件の掲示板へ向かうと、人だかりがそれこそ何とかの十戒のように真っ二つに割れた。視線を、桐葉に集中させながら。
「さすがの私でも、嫌な予感がしてきたわね」
「そう思うなら、逃げる気ない?」
「何言うのよ。困難は立ち向かってなんぼじゃない」
「ああ、やっぱり……」
掲示板に貼られていたのは、よくある学校新聞だった。ん? うちの学校に新聞部なんてあったっけ?
「それがあるんだな。君が知らないだけだよ」
「……咲さん、頼むから後ろからいきなり登場はやめてください。凄く心臓に悪いです」
「あはは、ゴメン。で、凄くよく撮れてるでしょ。あの写真。あたしが提供したんだよ?」
「ちょっと待ってください。まだ僕見てないんですよ」
咲さんのせいでね、とは言わない。
再び視線を新聞に戻す。見出しは『あの有名人に熱愛発覚!?』。おいおい、なんで学校新聞で芸能情報扱うんだよ……なんて思っていられたのも束の間一泊一万円から。見出しの下にどでかく貼られた写真。誰かと誰かが唇を重ねている瞬間を撮った写真だった。一応目の辺りにモザイクがかかっているため、ぱっと見は誰のだか分からない。しかし、少し頭を働かせて見てみれば……
隣で桐葉が完全に硬直しているのが、答えだった。
そう。この写真、間違いなくあの時の写真だ。犯人は咲さん。犯行時刻は……いつだよ!?
あの時の写真であるならば、もう片方は僕なわけで。学校の皆さんからすれば、桐葉の顔しか分かるまい。ただし、僕の顔を知る人からすれば……
さっきから殺気が膨れ上がっている。出るはずのない冷や汗が出るのを感じた。
「ふ、ふふふ……」
桐葉の口から異様な笑い声が漏れる。
「ふふふ、ふふふふふ……」
「……紅葉、咲さん、助けて下さい! いや、咲さん。むしろどうにかしろ!」
「えー、あたし知らないよ」
「先輩に同じでござる。やはり姉上は大人でやんしたか」
「あああ桐葉! せめて情状酌量の余地くらい……!」
「よくも私の純潔を! この罪は重い! よって……全員死刑!」
『なぬ!?』
桐葉が、半分泣いて半分笑った顔で叫んだ。怖い。
そして、その言葉に驚いたのは僕たちだけでなかった。
なぜなら、桐葉の言う全員とは、本当に全員だったからだ。
群衆皆殺し。大量虐殺。千人斬り。いろんな単語が僕の脳裏をよぎった。
しかし、よくよく考えると僕に被害が及ぶことはないんだな。なら、高みの見物と洒落こもうか。とりあえず、皆の冥福を祈ってから。誰か、僕の仲間入りするかな?
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