Railway
がたんごとんと、電車が揺れる。
一定間隔で繰り返されるそのリズムと、窓から差し込むやわらかな春の日差しは、僕のまぶたを重くさせるに十分なものだった。
でも、僕の目はこれ以上ないくらいに冴えている。この先に待っているもの、それを考えるだけで心臓は締め付けられて、頭の中も真っ白になって何も考えられなくなる。
窓の外の景色は、ゆっくりと流れていた。ローカル線ゆえの、のどかな景色。
一面に広がる水田には、機械と人手で田植えをする姿があり、農道では軽トラックの荷台で柴犬が気持ちよさそうに眠っている。ほんの一瞬しか見えない景色でも、僕の目には強く焼きついた。そこでは時間すらもゆっくりと流れ――もう見慣れてしまった狭苦しい住宅街とか、ビル街なんてものとは無縁の世界がそこにあった。
彼女に会いに行こうと決心したのは、ほんの数週間前のことだ。
もう何年も会っていなかったというのに、急に会いたくなった。それこそ発作のように、半ば忘れていたのに――いや、これは嘘。多分、忘れたことはなかったと思う。
だから、内緒で会いに行くことにした。会えなくてもいい、一目見られればそれで十分だった。きっと変わってしまった、けれど変わっていて欲しくないその姿を。
ローカル線はゆっくりと、僕を乗せて走る。
五月の大型連休の初めだというのに、乗客は少ない。ボックス席は僕が一人で占領していても誰一人文句を言わないし、そもそも長距離を走る電車だというのに車両も三両編成だった気がする。そんな少ない中にボックス車を入れるというのは、鉄道会社なりの配慮か、それとも何かこだわりでもあるのだろうか。
斜め向かいの席には、恋人同士らしい若い男女の姿が見える。窓側に座る髪の長い女の人は、僕と違ってこの陽射しとリズムにやられてしまったのだろう。男の人の肩に頭を預け、双眸を閉じて穏やかな寝顔を浮かべている。眼鏡をかけた男の人は、それを優しい、本当に大切なものを見るような目で見ていた。口元には笑みすら浮かんでいる。なんだか、見ているこっちまで微笑みたくなるような、そんな光景だった。
が、見過ぎていたせいで男の人と目があってしまった。苦笑されてしまったけれど、僕は一体どんな顔をしていたのだろうか。とりあえず軽く頭を下げておいたけど。
その次の駅で、二人は降りていった。まだ眠そうな女の人の手を、やっぱり困ったような笑顔で男の人は引いていった。小さな駅舎の窓の向こうに、柳の木が見えた。
その駅で、この電車に乗り込んだ人はいなかった。
ぷしゅーっと、勢いよく空気の抜ける音と共にドアが閉まると、電車はまたゆっくりと、田舎の真ん中を走り出した。
かたんごとん、と電車は相変わらず揺れる。ときどき小さな川をまたぐのだろうか、そのときだけその音が変わった。
車両の中を、無遠慮に見回してみた。どうせ人なんていない。多少の変なことには目をつむってくれるだろう。車掌が来る気配もない。
車両の角、進行方向側の一番端の席に、一人の青年が座っていた。
こんな穏やかな空気の中、彼だけはぴんと張り詰めた雰囲気を纏っていた。鋭い視線で窓の外をじっと眺めている。それこそ、そこにあるもの全てをまぶたに焼き付けようとでもしているのではないかというくらいに。
何か面白いものでも見えるのだろうかと、僕も彼に合わせて窓の外に目をやってみた。しかし、何かこれといって目立つものがあるわけではなかった。あるのはやっぱり、田植え中の水田や、ぽつぽつ立っている民家とか、遠くで揺れる木々だとか。奇妙な建造物とか、電車と併走するおじいさんとか、そういう妙なものを期待してしまっていただけに、少々残念だった。
けれども、そんなものを彼はじっと見ている。いや、もしかすると彼は見ていないのかもしれない。そこにはないけれども、彼の中にははっきりとある、別の何かを見ているのかもしれないと、直感のように思った。
そしてもう一つ、僕の目を惹いたのは、彼の荷物だった。
黒いリュックサックの横に、大きな紙袋が置いてある。リュックサックよりもずっと大きく、しかもそれが二つ。その両方の口から何かがあふれそうになっているようだったが、あいにく僕の座席からではそれが何であるかまでは確認できなかった。なにやら茶色っぽいものではあったけれど。でも、分からないからといって直接尋ねるわけにもいかないので、僕はその疑問については凍結することにした。
次の駅で、彼は電車を降りた。大きな紙袋を両手に持って、けれどどこかさっきに比べて丸くなった雰囲気で。ドアから出ようとした瞬間、紙袋から何かが零れ落ちた。呼び止めようかと思ったときには、ドアは閉まり、彼は改札を抜けようとしていた。
仕方ないのでその落し物を拾うと、なんというか、その落し物の謎に頭を悩ます羽目になった。
それは、とてもおいしそうなクリームパンだった。
さっきとは違い、その駅では人が乗り込んできた。
これから孫に会いに行くんです、とでも言い出しそうな老人が一人。
まぁ、これはローカル線なんだ。地元の人が利用するのは当然のことだろう。そう思い、僕は視線を窓の外へと向けた。都会の大路線のそれとは異なり、駅舎はもちろん線路の片側にしかない。つまり、もう片方にはそのまま自然の景色が広がっている。
ずっと向こうに見えるのは水平線でも地平線でもなく、なだらかな山だった。本当に山かどうかは怪しいけれども、少し霞がかった黒い盛り上がりがあるのは確かだった。なんて山だったかな……
「ここ、よろしいですかな?」
一瞬、何のことだか理解できなかった。それ故、丸い目でおじいさんを数刻見て、それでやっと僕の向かいの席を指して言っているのだと気付くことができた。
しかし、どうしてわざわざここを選ぶのだろうか。ここ以外は全部空席だというのに。
ゆっくりと走る電車の中で、老人はゆっくりと腰を下ろした。
「すぐそこまでなのですが、こうやって列車の中で見知らぬ旅人と言葉を交わすのが楽しくてね」
人好きのする笑顔で、老人は言う。はぁ、と適当に相槌を打つことしかできなかった。
どちらまで行かれるのですか、と聞かれたので、目的地の駅名を告げると、
「そうですか。すると、帰省でしょうか? いえ、あそこの集落は貴方のように都会に出る若者が昔から多いのでね。しかし、皆必ず帰ってくる。そういう不思議な場所でもあるのです」
初耳だった。となると、残ることを選んだ彼女はかなり珍しい部類に入るのだろうか。そういえば、三軒先の姉ちゃんも東京の大学に行ったんだよな。今は何をしているのだろう。昔はよく、悪戯してはげんこつをもらっていたのだが。
でも確かに、帰りたくなる場所だとは思う。理由なんて分からない。けれど、その気持ちだけが確かにある。僕が帰るべき場所は、あそこしかないのだと。
「理由なんてものはそれこそ十人十色ですよ。もう一度あの空気を吸いたい、もう一度あの原っぱを駆け回りたい、もう一度あの日向の窓辺で寝転がりたい――貴方にも、そんな理由がおありでしょう」
僕が帰る理由……か。うん、それはある。
僕はもう一度、彼女に会いたい。ただ、それだけのために。
「そうそう、それともう一つ」
体が逆方向の加速度を感じる。駅が近いのだろう、流れる景色が徐々にゆっくりになっていく。それと同時に、おんぼろな駅舎が視界内に入ってきた。
老人は立ち上がり、またあの人好きのする笑顔を浮かべて、言った。
「あそこは、帰るものを必ず迎え入れてくれます。だから、貴方も安心してお帰りなさい」
そして老人は、改札の向こう側へと消えた。畑しかない、駅舎の向こう側へと。
そうして僕は、一人になった。
次の駅で、僕も降りる。
たくさんの人を運んだこの列車は、これからもたくさんの人を運ぶのだろう。
その人全てに、目的がある。
その人全てが、何かを抱えている。
ゆっくりと、眠くなるようなリズムを奏でながら、電車は往く。
線路はどこまでも続く。緑の大地の中を、僕らを導くために。
あの時の僕も、燃えたぎる何かと、心臓を締め付ける何かを抱えて、この光景の中を電車に揺られていたのだろう。
やわらかな日差しも、穏やかな時間も、あのときのままだった。
アナウンスが聞こえる。もうすぐ到着。速度が落ちる。ああ、僕は帰ってきた。
駅舎は全く変わっていなかった。記憶にある、そのまま。
改札口を出て――僕は眩しさに目を細めた。
変わらない笑顔を浮かべる彼女が、そこにいた。
おかえりなさい、と彼女は言った。
ただいま、と僕は言った。
了
|
小説トップへ
TOPへ