1
液晶モニターに映し出された論文から目を離すと、外は既に日の光に満ちていた。いつの間にか夜が明けていたようだ。そんな生物の生活サイクルに於ける最重要事項にすら気付かないなんて、自分の集中力というか馬鹿さ加減に少々あきれる。
「ミック。この論文の要約、十枚程度でやっておいて」
『了解です』
人間は誰も居ない空間に放たれた僕のリクエストに、電子音で構成された男声が答える。
その犯人は、机の上のスピーカーに接続されたマッチ箱大の金属の箱――Micro Intelligent Computer type-001P、頭文字をとって通称ミック。僕がこの研究室で作り上げた、コンピュータ技術の最先端である第六世代コンピュータ。
『終了まで残り七十八秒。この程度であれば、自力で解かれたほうがよろしいのでは?』
「いや、眠いし面倒くさくてね……次からは自分でやるよ」
『あまり他力に頼っては、己が力の低下を招きます。それをお忘れなく』
「はいはい……」
彼が完成し、無事に動いたときの感動は今でもはっきりと思えている。だけど、起動してからの彼の動向はそんなものとは比べ物にならなかったのだ。
率直に言おう。彼――ミックには、人間のそれと同等の思考能力が宿っている。有体な言葉を使えば、彼には人格があるのだ(コンピュータに対し人格という言葉を使うのが正しいかどうかは分からないが)。
作業するミックを横目に、僕は大きな伸びを一つ。腰の関節が小気味良い音を立てる。そしてそのまま、窓際へと歩み寄った。
ブラインドをずらすと、春が目に飛び込んできた。
視界一杯に広がる桃色。そよ風に舞う桜の下を、人々は忙しそうに往来していた。そういえば、時間的にはちょうど授業が始まる頃なのか。徹夜のおかげでそこらへんの感覚まで薄れている。
忙しげな眼下の人々とは裏腹に、僕はとてつもなくまったりとした心境だった。
この好天。ぽかぽかとした陽気。かなりの眠気を誘いつつも――いや、逆にその所為かもしれないが――ちょっと外を出歩きたくもなった。
『眠っておいたほうが身のためですよ、博士』
そんな僕の心を見透かしたかのようにミックが言う。機械のくせに、やけに鋭い。
『睡眠は生物の基本的な行動です。これの不足が、身体に様々な悪影響を及ぼすことは広く知られているはずでは?』
「ああ、全くその通りだ」
こうもずばっと正論を説かれてしまっては、白旗を揚げるしかない。
「分かった、ちょっと寝かせてもらうよ」
『終了したタスクはどうしますか?』
ああ、さっき頼んだ要約のことか。相変わらず、仕事が早い。まぁ、そういう風に作ったのは他ならぬ僕自身なわけだけど。
「んー……一応紙に出力しておいて。起きたら見直す」
『了解です』
「んじゃ、僕は寝かせてもらうよ……ふぁ」
間の抜けた欠伸を一発かまして、僕は研究室の隣、物置兼仮眠室へとつながる扉を開いた。
ごちゃごちゃと並ぶ機械とか計器とか旧式のパソコンとか、果てにはインストール前の筐体まで放置されている混沌空間の隅っこに、最早僕専用と化しているベッドはある。埃をかぶっていたのを僕が発掘、設置したのだ。
この部屋、昔は足を踏み入れる場所すらないほどに半ゴミ屋敷化していたのを無理やりに片付けたため、今でも微妙に空気が澱んでいる。まぁ、数時間の仮眠を取るくらいなら我慢できないレベルじゃない。そう自分に言い聞かせて僕はいつも眠っている。もし僕の循環器系がやられたら、原因は明らかにこれだろう。
ま、そんなことは置いといて。
「おやすみ……」
僕はギシギシと軋む音を立てるベッドに身を任せた――のだけれども。
ばんっ、とお世辞にも丁寧とは言えない開け方をされたドアが僕の意識を無理やり引き戻した。なんだよ、人が折角寝ようとしてたって時に。
その衝撃で舞った埃にちょっとむせ返りながら、僕が研究室のほうへ戻ると。
「お、いたいた。なんだ、またあっちで寝てたのか? お前よくあんなところで寝られるよなぁ」
「……残念、寝ようとしてたところだよ」
恨み辛みをたっぷりこめて睨み付けてやるも、全く効いていないようだった。
白衣を着、髪を結い上げた突然の来訪者は、同じ研究室に属する柴田香苗という名の人物で、こんな思い切り男口調であるが、一応生物学上はXXの染色体を持つほうである。僕とほとんど変わらない、もしかしたら僕が負けているかもしれないほどの長身もあいまってか、たまーにこいつが本当は男なのではないかと疑うこともある。口に出したことはないが。そんなことしたらまず殺される。間違いない。
「で、何の用?」
「そうあからさまに迷惑そうな顔するなって。余計迷惑かけたくなるから……ってまぁいい。財布忘れてな。どこかに落ちてなかった?」
おいおい、そんな大事なもの落とすなよ。と思ったが、昨晩のこいつの様子を思い出して納得する。全ては、床に放置されたビール瓶が語ってくれるだろう。
「……今度、アルコール類持込禁止って張り紙しておこうか」
『私も同意です』
間髪入れずにミックが言った。よく分かっているじゃないか。
「ほらほら、さっさと財布捜せよ」
「はいはい……」
命令には逆らわない。逆らってもいいのだが、後で痛い目を見るのは自明だ。生憎そんなことで悦ぶような性癖は持ち合わせてないので、自分から地雷を踏むような真似はしない。柴田は明らかに痛がる様子を見てせせら笑うような性格だが。
ごそごそがさがさと部屋中を漁ること数刻。程なくして、床に積み上げられた空き缶の山の中から驚くほど軽量化に成功したらしい財布が発掘された。
僕が放ったその財布を受け取ると、サンキュ、と柴田は心にも思っていないであろう礼をよこした。そして今度は、あろうことかミックへとその矛先を向けた。
「こんな箱がスーパーコンピュータなんだから……時代は変わったよなぁ」
人差し指でミックをつつきながらしみじみと言う。まぁ、それは僕もうすうす感じていたことだから口を出したりはしない。本当に、僕らがコンピュータというものに触れ始めた頃は、彼のような第六世代コンピュータなんて机上の空論でしかなく、世界ではまだまだLSIを用いたデジタル式コンピュータが全盛期だった。
『それはお褒めの言葉と受け取るべきでしょうか?』
「一応褒め言葉だよ」
苦笑して、柴田は言った。作った自分で言うのもなんだけれど、コンピュータと会話できる日が来るなんて――しかも、こんなファジーな内容まで――少年時代の僕は夢物語でしかないと思っていた。
だが、現実に彼は存在する。いや、彼は特例なのかもしれない。もし、こんなことは想像したくもないが、彼が壊れてしまってその機能を完全に停止してしまったとしよう。
僕は確実にシステムの再構築を試みる。しかし、それは不可能だ。MIC type-001Pというコンピュータは、ミックでしか在り得ない。彼は自然的に発生したのだ。僕が第六世代コンピュータと、そのシステムを構築し、電源を入れた瞬間。それが彼の始まった瞬間だった。
彼と同じシステムを持つコンピュータは世界にも幾多存在する。特にUSTIのホープ≠竅Aドイツはハイデルベルグ大学のケーニヒ≠ネどは最近科学誌上を騒がせている大御所だ。こう言っては、ああ見えて結構自信家な彼は怒るかもしれないが、彼の単純なマシンとしての性能はそれらには遠く及ばない。当然だ。こっちは一介の院生だった自分が、ひとりで作りあげたのだから。
しかし、それらのコンピュータに彼のような機能が備わっているという話は聞いたことがない。確かに対話型のヒューマンインターフェースは搭載しているだろうが、あくまでそれは人間がプログラムしたとおりにしか動かない。人間が居て初めて存在たり得るのだ。ミックのように、完全に独立した一個の存在とは違う。
そして何より彼には――僕という、人間の友が居る。
「…―い、おい!」
「あ?」
「どうした、ボーっとしちまって。白昼夢でも見てたのか?」
「あー……ちょっと第六世代コンピュータの演算能力と人間の脳のそれとの比較、ついでにその発展系である『人格』の芽生え、さらには人格から生まれる人権について考えてた。確か、さっきまで読んでた論文がそうだったと思うんだけど。英国王室研究所の主任だったかな、書いたのは」
なんとなく気まずさを感じて、適当な冗談でごまかす。いや、内容は全くの事実なのだけれども。考えていたこととは似ても似つかない。コンピュータについて考えていたってことくらいだ、共通点は。
「……全く、お前のほうが機械なんじゃねーのか?」
「どうだろ、否定できる材料はないな。生憎」
呆れ顔を向ける柴田に、僕は両手を持ち上げ大仰なしぐさで答える。こんな冗談の応酬も、僕らは全く無意識のうちにやっていた――たった一人、観客がいることも気づかずに。
「ていうか、用事は済んだんだろ? だったら、さっさと出てってください」
「うわ、ひでぇ。もう少し遊んでくれたっていいじゃんか……と言いたいとこだけど、生憎あたしもこの後用事あってね。ホントは全く余裕なかったり」
左腕にはめたアナログ式の腕時計に目を落とし、ちょっと眉根を寄せる。
「というわけで、退散するわ。じゃ、またなー」
「次からは酒・タバコは禁止だからなー」
僕の言葉が終わるか終わらないかのうちに柴田は扉の向こうに消えた。やっべー、遅刻するなどと大声で言っているのが僕の耳にも届いているあたりから察するに、おそらく僕の忠告は全く聞いていなかっただろう。本気で注意書き作成を考えなければならないかも。
そうして、部屋は再び穏やかな静寂に包まれた。
『このような状況を、嵐が去った≠ニ言うのでしょうか?』
「……そうだね。大方合ってるよ」
意識してかしてまいか、また別の意味を含む言葉を選んだミックに僕は苦笑せざるを得なかった。コンピュータにまで邪魔者扱いされる柴田も、ちょっと可哀想に思える。
さて、と一息ついて考える。僕は何をしようとしていたのだろうか?
実に深遠かつ阿呆らしい問題だ。若年性のボケが始まったわけではないだろうから、単に動かされたがために忘れたのだろう。ふむ、これはちょっと本気で悩む。
分からないことは他人に聞く、というのが常套手段なのだけれども、分からないのは自分自身のことなのだからどうしようもない。念のためミックに聞いてみたが、
『自身のなさることくらい、自分で思い出してください』
と、見事なまでに一蹴されてしまった。よくよく考えれば、ミックの記憶を読み取ってそこから推測する――などという手段もあるにはあったのだけれども、結構面倒くさいし、第一調べられるほうが同意してくれないだろう。
まぁ、思い出せないことを思い出そうと労を費やすのはあまり賢いといえない。即ち、諦めが肝心だ。人間、分からないことがあったほうが良い。知を探求するのが仕事である僕が言っては何の説得力もないのだけれども。
ふと、ブラインドの隙間から差し込む光が目に入った。そうだ、ちょうどいい。
「ミック、散歩に行こう」
『散歩……ですか?』
「ああ。天気もいいし、ここのところロクに運動してなかったからね」
研究者の悲しき性というか、現代人の生活の特徴というか、どうにも椅子に座りっぱなしで、だいぶ体はなまっている。もともと運動がそんなに好きなわけではないけれど、こう天気が良ければ、さすがの僕だって日に当たりたくなるものだ。
桜の花びらが舞う構内を、胸ポケットに収まったミックと共に歩く。
水色の空を背景に桃色の欠片がそよぐ風に踊り、白を基調とした建物の合間は外界から切り離されているような穏やかな時間を感じさせた。
このちょっと幻想的な風景は、視覚カメラを通じてミックにも届いている。おそらく、いつものようにこの光景を保存しているのだろう。彼はその景色如何に関わらず画を保存するけれども、今回ばかりは彼の記憶をちょっと拝借することとなるかもしれなかった。
何しろ、僕自身がこの光景に目を奪われていたからだ。
桜並木の間を、人々がすれ違う。中には人ならざる者もいる。最近流行りだした、パーソナルタイプのロボット。中に積んでいるのは最先端の演算装置、といっても結局は第五世代の代物だし、見た目だっていかにも、といった感じの機械人形だ。まぁ、形状は人型のみとは限らないので、人形という表現は適切でないけれども。
他にも、植木の剪定作業や芝生の刈り込みを行っている作業用のロボットたちだって存在する。ただこちらは、純粋にプログラムされた命令をこなすだけで、そう考えると、本当に意味での『ロボット(奴隷)』だった。ちょっと、ほんのちょっとだけ――悲しくなった。
現在の第五世代コンピュータを用いている限り、そのような式実行型機械のほうが効率的、いや、それが限界なのだ。自分で考えることのできない、ヒトとは明らかに異なるもの。
見た目の問題はどうにでもなるだろう。今の彼らの容姿だって、単に製造コストを下げるために過ぎない。ちゃんと人工皮膚や人工筋肉を使えば、それこそ見た目だけは人間が出来上がるだろう。
そしてその中に、考える頭脳を搭載したら……?
胸ポケットの中の、金属箱に目を向ける。
今はただ黙って景色を己が内に保存し続ける彼が、自由にできる体を手に入れたら。
それは、ヒトとどこが違う?
まぁ、現在の法律ではそんなことできない。ロボットに思考能力を持たせることは、まだ倫理上の問題から許可されてはいないのだ。最近法改正の動きが活発になってきているらしいけれど、それがいつ実現するかは誰にもわからない。明日かもしれないし、永遠にこのままかもしれない。それはそれでいいと思う。
機械がそれを望むのならともかく、人間の都合だけで、ヒトに限りなく近いものを作り出すのは決して正しいとはいえない。昔の映画みたいな、人間対ロボットの戦争とか、人間がロボットに取って代わられる事態を危惧しているわけではないけれども。今時そんなこと言ったら笑い者にされるだけだし。
そんな感じで僕は無駄な思考をめぐらせながら、ミックはずっと黙ったまま、小一時間ほど歩いて研究室に戻った。春の陽気のせいか、背中と首筋が汗でしっとりとしている。
「汗なんてかいたの、久しぶりだなぁ……」
椅子に腰掛けそんな台詞を吐く僕は、自分でもはっきりと感じられるほど親父くさかった。誰もそこを突っ込んでくれないから余計に悲しくなる。
白衣の胸ポケットからいつもの机の上へと居場所を移したミックは相変わらず沈黙を保ったままだ。もともと口数が多い奴じゃないけれど、ここまで黙りこくったままだと流石に不気味さを感じる。まさか、どこか故障でも……
不意に浮かんできたその考えに、温まっていた体から一気に体温が抜けていく。
「おい、ミック!!」
頭の中が真っ白になり、無意識のうちに叫ぶような大声を上げていた。もし、返事がなかったら。そんなこと、怖くて考えられない。
金属の箱を握り締め、無駄、というかむしろ悪影響ながらもそれをゆする。
『………どうしました? そのような大声を上げては、周囲に迷惑がかかります』
と、まったくの不意に。彼はいつも通りの冷静な声で返してきた。
瞬間、全身の力が抜けた。そのままどさっと椅子に崩れ落ちる。まったく、なんだよ。この肩透かしは。新手のどっきりか何かか? カメラはどこだ。主犯は柴田か? あの野郎。いや、一応野郎じゃないか。まぁ、この際野郎でもいい。
『どこか不調でも? その冷や汗≠ニいうものはあまり体によくないと……』
「お前のせいだよ……まったく、余計な心配かけさせて。いきなり反応しなくなるのはやめてくれよ。バグか故障か、滅茶苦茶焦ったんだ」
『申し訳ありません』
「まぁ、なんともないならそれでいい。一応、チェックプログラム走らせておいて」
思わず、ため息がひとつ漏れた。どっと疲れが押し寄せてきたような感じがする。なんだか眠いな。ちょっと寝ようかな……
ふと机上に目をやると、紙に出力された文書が目に入った。ちょっとだけ内容に目を通して、成程、僕がミックに頼んだ論文の要約かと胡乱な頭で理解する。確か、ロボットの人工知能の進化の可能性とか、ロボットの権利帰属とか、そんな感じの内容だったような。ああ、だめだな。ほんとに眠くなってきた。
……そうだよ。僕は寝ようとしていたんじゃないのか? 散歩なんかしてる場合じゃなくて。
やっと思い出した自分の使命。よし、と無駄に気合を入れて、僕は立ち上がった。目指すは隣の仮眠室。
しかし、そんな僕を阻む声が鼓膜を震わせた。
『チェック終了、異常は発見されませんでした。……博士、一つ頼みがあります』
「……何?」
ちょっとだけ目が覚めた。異常がないのには安心、だけどまさか、ミックが僕に頼みごとをしてくるとは。人間に機械が要求をするとは、本当に彼の頭の中身はどうなっているのだろう。
知的好奇心を刺激された僕は、その眠気にも関わらず、こう聞き返してしまった。
「何でも言っていいよ。できる限りのことなら聞いてやるから」
そのまま流していれば、僕はあんなことにはならなかったというのに。
『はい。私に、体をください』
眠気が吹っ飛んだ。
|
次へ進む
小説トップへ
TOPへ