Distance
教室には、いつも通り先客がいた。
窓際の一番後ろ。その特等席で、彼女はちょっと開いた窓から吹き込む夏の風に、ゆったりと黒髪を揺らしていた。
彼女が一番、僕が二番目。
二人きりの教室で、僕は座席を一つ分空けて、彼女の隣に座った。
そして何をするわけでもなく、僕たちはそこにいた。
外は世界を恨みたくなるくらい蒸し暑いというのに、不思議とこの部屋はどこか心地よい空気を孕んでいる。窓の外で揺れる木の葉のざわめきのおかげか、吹き込む風のおかげか。
しかし、喧しささえ覚える蝉の声だけはそのままだった。この二人だけの空間で、唯一他の生命の営みを感じられるその声だけが、今や夏の風物詩だった。
今はもう、海に行く親子連れも、クールビズを叫ぶ政治家も、冷やし中華を始める料理店もない。なくなってしまった。
何もない世界で、僕たちは何も接点を持とうとしなかった。
でも、こんな僕でも一人でいるのは寂しい。それが彼女も同じなのかどうかは知らないけれど、僕らは変わらず学校に通い続けた。
他の生徒も来なければ、先生も来ない。故に、授業など行われるはずもないのに。
僕たちは学校にいた。
ここには、他人がいたから。
それだけで、自分が自分でいられる気がしたから。
「今日も暑いね」
「…………」
きれいな黒板に顔を向けたまま、彼女に声を掛けた。しかし、返事はない。ただのしかばねのようだ……というのは嘘。けれども、微動だにせず頬杖を突いて外を眺める彼女は、どこか人のようでなく、なにか神聖なもののようだった。
いや、実際神聖なのだろう。変わってしまった世界の中で、彼女は変わらずに在る。それを美しく、貴いと思わずにいられるだろうか。
平穏と不変。僕が望んだものが、ここにある。
しかしそれは、不変故に孤独。他者と繋がりを持つということは、自身を曖昧にするということに等しい。曖昧なものは揺り動かされ、そして変化する。それは不変ではない。
そのための、座席一つ。
彼女に干渉せず、しかし僕も寂しさを紛らわせることができる距離。
そういえば僕も、これだけは変わっていない。
誰かの隣には決して座らない。必ず座席一つ分の間隔を置く。
これが、僕のナワバリ。ここから内は、僕だけの世界。これ以上近付かれると、心を覗かれているような気分になる。
それが嫌だから、誰も入ってこない世界を望んだ。
僕の心の平穏。僕の憧れた不変。
そこに彼女がいたのは、果たして偶然なのだろうか。
そのとき、不意に彼女が動いた。肩にかかっていた黒髪が、ふわりと揺れる。
立ち上がり、彼女は僕に顔を向けた。黒く、澄んだ瞳。深層心理まで見透かされているような錯覚。鋭くもあり、冷たくもあり、優しくもあり、温かくもあった。
そして彼女は、微笑んだ。
それは、彼女が僕に初めて見せた感情≠セった。
一歩、彼女が近付く。
僕は動かなかった。否、動けなかった。その目で石にされてしまったかのような気分。ただ、彼女の一挙手一投足を隅から隅まで網膜に焼き付ける。
なんとなく、最初で最後のような気がした。
さらさらと、木の葉の騒ぐ音だけが鼓膜を震わせる。他の生物など存在しない、確かにそこは僕たちだけの空間になっていた。
傷付けず、傷付かず。互いにそんな関係を維持し続けた結果。
――それももう終わりと考えると、ちょっと寂しくもあった。
彼女の口が動く。五回。なんと言ったのだろう。気になるけれど、知る必要はなかった。
そのまま振り返ることもなく、彼女は教室を出て行った。僕も追わなかった。
彼女は孤独でなくてはならない。不変な彼女であるために。
そのためには、この二人きりの世界は不向きだったのだろう。
一観察者に過ぎない僕には、半ばどうでもいいことだけれども。
そう、結局彼女は不変な存在などではなかった。
不変でなく、普遍。僕と彼女の距離は、近すぎた。
自分のナワバリ。彼女はそれが、僕より広かったのかもしれない。
本当は何か言いたかったのかもしれない。けれども、彼女には言葉がなかった。
座席一つ分。
この距離が二度と変わることはないのだと考えると、不思議と目頭が熱くなった。
了
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